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三宜町遊郭を偲ぶ [旧市街(新発田市)]

おもしろき こともなき世を おもしろく
すみなすものは 心なりけり
(高杉晋作 辞世の句)

28日も前日に引き続き、新発田の遊郭跡地をさまよい歩いてきました。
旭町遊郭は明治37年の大火で壊滅し、その後当時は野原だった伊勢堂地内(現・御幸町2丁目)が集団移転の候補地として挙げられたのです。
しかし、近隣の地主の多くが土地の提供を拒んだため事業は難航。
そんななか、伊勢堂地内で最大の土地所有者であった中村平吉氏が必要な面積33,400平方メートルを買収し、業者には新しい土地の購入に際し、購入資金の月賦返済を認めたのでした。
三宜町遊郭誕生の最大の功労者・中村平吉氏のお墓が中村家の菩提寺である福勝寺にあるのですが、大正15年建立の墓碑の碑文に、当時の貸座敷業者19名の連名が刻まれています。

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福勝寺は我が家の菩提寺でもあるので、墓参りついでにくだんの墓碑を先日探してみました。
正門をくぐってすぐ右側にその墓碑はありました。
予想以上に大きく、立派なものでした。

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右側に回り込むと、碑文が刻まれている壁面を見ることができます。
ぼくが昨日の記事を書くにあたり参照した、松田時次氏の「新発田の廓を語る」という小文に碑文の全文が書かれてていますが、ここでは省略(実際はかなり摩耗しており、判別不能の文字が多い)。
貸座敷業者の名称が下の方に書かれており、それはこの写真からも判別できると思います。
左下から”花菱楼、群亀楼、遊亀楼、山田楼、市川楼・・・”と書かれてあります。

2014年1月10日のブログ記事にも詳述しましたが、今回改めて図書館で資料を漁り、見落としている点がないかチェックしました。
大正2年10月に作成された三宜町朱印全図がやはり現存する唯一の見取り図なのですが、かなりデフォルメされているせいで現在の住宅地図にうまく合致しないのが、当時(2014年1月)記事を書くにあたり最も気になった点でした。
それを解決するには大正~昭和30年代前半までの間に作成された市街図を入手する必要があるのですが、今回も新発田歴史図書館の職員さんの手をお借りしたにも関わらず、新たな地図を発見することはできませんでした。
そこで、前回も使った”新発田町是”(大正6年刊)の附図をもとに、もう一度注意深く両方の地図を重ね合わせてみたのが次の図です。

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どうしてもうまく重ならないので、三宜町朱印全図は脇に掲載しました。
ベースとなっている地図は上が北ですが、三宜町朱印全図の向きをそれに合わせると大幅に道路の角度に違いが生じるのです。
さらにこれに現代の市街図を重ねてみると・・・

shibata_map_mix.jpg

意外や、”新発田町是”の附図上部に記載されている、東西に伸びている2本の幹線道路とそこから南西に伸びている、三宜町へと通じる道路が現代版市街図とまあまあ合致しました。
これならなんとなく地形の変遷がわかりますね。
幾つか明確なチェックポイントがあり、ひとつは池が2つあったこと。
大きな方の池が、弁天池もしくはひょうたん池と呼ばれていたらしいのです。
それが五叉路の交差点の近くにあったこと、を近所に住む知人のひいおばあちゃんが証言しています。
もうひとつ、次に掲げる古写真左側に写っている盆栽仕立ての松が現在も同じ場所にあり、その松の位置を定めることで地図の他の場所の位置関係も相対的に類推できるのです。

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2014年にも写しましたが、こちらはおととい撮ったばかりの最新画像。
そして、昨夜再度出没、古写真を撮った場所と同じと思わしき場所を推定し、そこから改めて写してみました。

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地図を重ね合わせてみてわかったのですが、戦後新たに作られたバイパス道路より、気持ち南西側に三宜町遊郭街のメインストリートは位置していたようです。

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別な角度から、往時の三宜町遊郭を偲ぶの図。
萬福さんのあたりから中央やや右側奥にかけて、池が縦に2つ連続していたようです。
上の写真左側の道幅の広い道路上に遊郭の建物は立っていたのではないでしょうか。
ぼくが今立っている場所は、おそらく曙があった辺りかと。左隣に招月、細い路地をはさみ、その奥に常磐、初音、若松と妓楼が連なっていたのです。

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正面左奥の鉄塔は、東北電力変電所の施設の一部です。
例の"新発田町是”(大正6年刊)の附図を見ると、当時既に変電所があったことがわかります。
小型車がぎりぎり通ることのできるこの狭い道は、おそらく大正時代かそれ以前からあったのではないでしょうか。
この道はゆるく右にカーブしており、曲がり切ったところが弁天池前。

IMG_4479.jpg

さて、上の写真の小道を反対方向へ進むと、ほどなく石佛神社(=稲荷神社)に出ます。
境内右に中世の頃に作られたと思わしき石仏が多数安置されており、そのうちの4体は天明年間(1780年代)由来のものとされていることから、古い歴史を持つ神社であることがわかります。
旧里山讃歌で、石仏神社の写真を撮ったのは2014年9月30日でした。
当時の記事を読み返していて気づいたのですが、路地に立っていた何軒もの古い建物が撤去され、空き地になっていることに気づきました。
変電所の敷地内にあった盆栽仕立ての松の木も数年前に枯れてしまったし、連綿と続いてきた人々の生活の気配がこの地から急速に失われつつあるようです。
それが大いに寂しくもあり・・・


遊郭の情緒、及び小ネタ(山田勝太郎氏の回想より)

※大門の両側に角燈がついていた。各楼の店頭にも六角形の天燈が立っていた。
このランプは夕方になると点き、深夜12時半に消灯した。

※旭町遊郭の頃の娼妓は「おやす」、「おきく」などと本名で呼んでいたが、三宜町時代になるとだんだん芸名(=源氏名)を使うようになってきた。

※娼妓の出身地は中蒲原方面が最も多かった。亀田、酒屋、袋津、早通などの貧農の子女が多く、北蒲原では中条の紫橋とか長浦(現豊栄市)の大月など、それに中蒲原(現豊浦町)の切梅、荒町、紫雲寺の小川、東蒲原の綱木、新屋が主だったという。

※なじみ客は、同じ店の別の妓は絶対に買うことができなかった。

※大部屋の貸座敷業者は、多くの娼妓の他に2~3人の芸者を個人で養成し、雇っていた。
5~6歳の小さい頃から三味線、横笛、太鼓、鼓を仕込まれ、お座敷一本で芸を売る、いわゆる”くるわ芸者”として自他共に誇っていた。町の宴会にも出張することがあり、町芸者とは一線を画し、一座の指導役を努めた。

※毎年8月12~13日になると、日没時から「ドンドン、ドドン、ドンドドン」と遊郭踊りに合わせる太鼓の音があたりに響き渡り、それが聞こえてくると近郷の若者たちは心がうきうきしてくるのを押さえられなかった。
そして夜が更けると、ねじり鉢巻や浴衣着流しの者から、腰にてぬぐい、鳥打帽の者など、町外れの三宜町にぞくぞく集まってくる。
廓の中ではどの座敷の門前も紅灯を競って映え、中央のひょうたん池の周囲は角灯やぼんぼりが松の緑を水面に映して、若者たちの気持ちを一層駆り立てた。
いつも禁足令の籠の鳥(娼妓のこと)も入念に化粧をし、艶を競って馴染みの客や野次馬客と池のまわりをにぎやかに、夜の更けるのも忘れて踊り狂った。
こうして20日頃までの1週間、廓の夜は千客万来の賑やかさで明け暮れるのであった。

参考文献:
「新発田の廓を語る」~松田時次








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