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在りし日の金丸鉱山 [鉱物 (関川村・金丸鉱山)]

先日、金丸鉱山(関川村)の元従業員であるKさんから、Kさんが元上司のS氏より最近譲り受けたという金丸鉱山の貴重な写真をたくさん頂きました。
およそ10枚に及ぶこれらの写真、Kさんがスキャナーで1枚ずつPCに取り込みデジタルデータ化したもの。
まだ同鉱山が現役で稼動している時の写真としてはオンリーワンだと思います。
S氏もKさんも「ぜひネットで公開してください」との意向をお持ちなので、この度在りし日の金丸鉱山の写真を掲載することにしました。


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平成7年(1995)5月撮影の、山元の全景です。
次の写真は撮影年は不明ながらも、Kさんいわく、多分1枚目と同じ頃の撮影だろうということです。

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Kさんが逐一文字を書き込んでくれたので、施設の全容がよくわかる大変貴重な1枚。
金丸鉱山は平成2年に坑道採掘をやめ、露天採掘に切り替えました。
しかし、平成7年当時はまだ標高550m前後に位置する露天掘り現場への道路はなく、索道で露天切羽から事務所と選鉱場との間に設けた貯鉱所まで搬送していたそうです。
この頃には露天現場で選別してから採掘するので、山元の選鉱場は使わなくなったとのこと。
ところで、1&2枚目に写っている事務所(兼休憩所)の建物には次のようないわれがあります。
昭和42年、羽越豪雨が下越を襲い、木造の建物だった事務所も土砂崩れで倒壊してしまいます。
再建にあたり、今度は耐久性に優れた鉄筋コンクリート造にすることを決意。
取り急ぎ、当時の村上市役所の設計図名を借り、2階部分までを山元の作業員だけで建築したとのこと。
この事務所が現存していれば、有形文化財に指定したいところですね。


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豊富な湧水は鉱石の水洗いに使用されました。
下には小さな鉱石、硅石、ズリが堆積して山になっています。
これらの一部は林道の敷石として利用されました。

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平成7年、露天採掘が下部へ移行し(切羽レベルは標高400m付近)、それに伴い露天採掘現場へアクセスする道路の開削工事が始まりました。
鉱体を覆っている膨大な表土を取り除くため、大型重機の導入を決意。
鉱石も大型重機で運搬するため、索道はその後不要になりました。

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標高550mオーバーの斜面で露天採掘を開始したのは平成1年(1989)。
これはその年に写された写真です。
この頃は長年の坑内採掘により地表部分が陥没、長石鉱体が露出していたため、表土の除去はそれほど困難ではなかったようです。
しかし採掘が進み、切羽が下部に移行するにつれ表土の量も膨大なものになっていき、苦労が絶えなかったとのこと。

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別なアングルから。

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こちらは平成7年当時の露天採掘現場。
白い部分は長石、灰色~茶色の部分は表土。
取り除くべき表土の量が圧倒的に増えている様子が伺いしれます。
重機で除去された表土は、すぐ下の観世音沢に捨てられました。


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大切坑のズリが正面に写っています。
昨年秋~今年の春の間に大切坑上部で大規模な土砂崩れが発生し、大切坑のズリは残念ながら見るも無残な姿に変わり果てました。

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平成6年(1994)12月の金丸鉱山。
昭和50年頃、山元からJR越後金丸駅までの鉱石の運搬を索道からトラック輸送に切り替えたため、山元にあった上の沢小学校の分校は廃校となります。
それに伴い従業員の方たちも、山元から下山、常駐生活にピリオドを打ちます。
越後金丸駅横にあった鉱山事務所へ出勤、そこから会社所有のジープに乗り、山元へ通勤する形に変化しました。
そして、上の写真ではまだ根雪にはなっていませんが、豪雪地帯ゆえ冬の間は完全に孤立してしまいます。
そのため、冬期は越後金丸駅横に鉱山事務所に出社、その隣にあった選鉱場で春~秋の間に貯鉱した長石を選別する作業に従事したそうです。

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この写真を見るまで、てっきり上の沢小学校の分校は事務所(赤い屋根の建物)の周辺にあったものと思い込んでいました。
これを見ると、かなり上手の方にあったのですね。
地形図を見ると、大きな砂防ダムのすぐ先の右岸に平坦な地形があるので、そこに建っていたようです。

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最後に、今年5月11日にぼくが上の沢を挟んで対岸の尾根から写した露天採掘現場跡です。
山元から露天採掘現場に至る道路は既に自然に還っており、トレースは不可能。
観世音沢を詰めるのが現実的ですが、最後の方が絶壁に近くなっているので、こちらのルートも困難。
グーグルアースの空中写真を眺めつつ、大きく溜息をつくぼくでした。

※謝辞:改めてKさんとS氏に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

※11月28日追記:Kさんが金丸鉱山のHPを作りましたのでリンクを貼っておきます。
色々なエピソードも書かれてあり、圧倒的な情報量と相まって非常に読み応えのある内容となっております。
http://stampmichi.sakura.ne.jp/kanamaru-kanzenon-mine.htm









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金丸鉱山のすべて [鉱物 (関川村・金丸鉱山)]

最近、金丸鉱山で数年間働いていたことのあるKさんと知り合いました。
Kさんはある大学の鉱山学部出身。
大学卒業後入社した会社が金丸鉱山を経営していた会社だったのです。
本当は金属鉱山で働きたかったそうなのですが、当時既に金属鉱山は斜陽産業であり、それは叶わなかったとのこと。
数年前にある大学生から卒論の相談を受け、Kさんが働いていたことのある金丸鉱山についていろいろ聞かれたのでそのやり取りをPCに保存しておいたそうです。
その文章を参考までに送ってもらったのですが、それがとても素晴らしい内容だったので、ここでシェアしたいと思います。
快く情報の公開を許可してくださったKさんには、改めて心から御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。

ところで、現在ネットで閲覧できる金丸鉱山が稼働していた頃の写真といえば、次のリンクのものが唯一のものだと思います。
”秋遠足”

このHPの写真についても、Kさんは次のように指摘しているので紹介します。
①説明文の「選鉱場」は間違いで実際は山元事務所・休憩所。またこの建物は、村上市役所の建築をコピーして作られた。
②その建物の上に屋根が見えるのが索道の起点。その左側に大切坑ズリ。
③写真の上にぎりぎり写っているのがサイジング(水洗を行う山元選鉱場の屋根)。

ここからはKさんから頂いた文章のコピペです。

金丸鉱山への質問をいただきありがとうございます。若い方が鉱山という産業に興味を持っているので嬉しく思います。
 閉山、会社解散からかなりの年数が経過し、関係者も多くは亡くなり、資料もあまり残っていませんが、 当時のメモと記憶を呼び戻しできるだけお答えします。

①金丸鉱山が始まり、その後衰退し閉山した理由を教えてください

沿革 上ノ沢上流でタングステン鉱が発見され、広島県から来た、山師宮田友二氏により、観世音鉱山と名付けられ1936(昭和11)年から採掘が行われました。
※長石の採掘場所とは反対側の山腹で鉄マンガン重石は採掘、選鉱され、不老峰の尾根を越えて上ノ沢まで簡単な索道と人力で運ばれていましたが、「重石」というだけあってとにかく重くて大変。
そこで効率良く搬出するために大切坑の掘進を始めました。
昭和12年に大切坑(おおぎりこう・鉱山で最下部に位置する坑道。運搬や排水などにも使われる。)掘進の際にペグマタイトの細脈を発見。
しかしながら当時は軍需物資のタングステン、モリブデンの採掘に重点がおかれ、軍も積極的にこれらの金属資源採掘に資金と物資の支援を行いました。
その頃、豊富な水とそれを利用した電力、観世音鉱山からの原料確保が可能な山形県小国町に日本重化学工業(旧・日本電興株式会社)が操業を開始、合金鉄の製造を始めました。
1945(昭和20)年の太平洋戦争敗戦によりタングステン、モリブデンの需要と軍の支援が無くなり、休山。
終戦後、鉱山では大切坑掘進の際に発見されたペグマタイト脈の地表探査を行い、山頂付近に長石の大露頭を発見。
昭和22年から長石の採掘を始めるも、資金難のため、宮田友二氏は上京して、安田信託銀行の頭取と直談判。安田信託銀行の融資を受けて1949(昭和23)年に日本窯業化学㈱を設立し、上ノ沢鉱業所を開設。
1949(昭和24)年11月には上ノ沢鉱業所~選鉱所(越後金丸駅に隣接)4,650mの架空索道が開業。
露頭部の露天堀りから始まり、直ぐに1号坑での採掘へ(当時は大型重機も無く、表土の除去、運搬が困難だったため)。
1950(昭和25年)朝鮮戦争勃発によりタングステン市況高騰。
戦前にマンガンを採掘していた坑内より鉄マンガン重石の残鉱を回収。
その頃、鍋倉鉱山(村上市)を買収し支山とするも、鉱況悪化により売却。
以降長石、珪石のみの採掘となる。
タングステン鉱を採掘していた長石鉱床の西側には莫大な量のアプライト(半花崗岩)が賦存するも、消費地から遠いため稼行対象とならず。
※この不老峰西部のアプライト帯には複数のペグマタイト露頭が有り、中でも最大の不老峰露頭と本鉱体との連続性を確認するため、2号坑より探鉱坑道を掘進するも、鉱体は連続せず、不老峰露頭は独立した衛星鉱床であることが確認されました。
昭和39年に共立マテリアル株式会社(旧社名・共立窯業原料)が買収したことにより、同じ森村グループの陶磁器メーカーにも長石、珪石を販売するようになる。
※名古屋方面の陶磁器メーカー以外にも、東日本各地に板ガラス、光学ガラス、碍子などの原料を供給していましたが、森村グループの傘下に入ったことにより販路が安定。
高度成長期に入ったこともあり、需要増に応えるためにこの頃に積極的な探鉱を行いました。
周辺には大規模な鉱床を発見出来ないものの坑内ボーリングにより、下部への鉱体延長を確認、5号坑の開発に繋がります。
1967年(昭和42年)羽越豪雨で生産設備に壊滅的打撃を受ける(㈱共立窯業原料50年史に被害状況の詳細)。 木造の山元事務所も土砂崩れにより倒壊。
耐久性に優れた鉄筋コンクリート造にするため、当時の村上市役所の建築図面を借りて二階部分までを山元の作業員だけで建築。
かなりの支柱が被害を受けて運行不能だった索道も復旧し、ようやく採掘、販売を再会。
その後、5号坑から下部の6号坑、7号坑(大切坑)への開発を計画(1号坑~7号坑までの間隔は標高差で約30m、鉱山での採掘は基本的に下から上へ向けて削岩して発破。鉱石は自重で下に落ち、最下部の坑道に待機したトロッコに積まれて坑口へ。坑内に湧き出る水もやはり一番下の坑道へ。この主要な坑道を通洞と呼びます。この時点では5号坑が金丸長石鉱山の通洞で、大切坑でもあります)。
しかしながら鉱体下部は長石よりも珪石の割合が多く、長石の品位(アルミナ、アルカリ分)が低下する傾向がみられ、更には鉄分(磁鉄鉱)も増加し品質低下の恐れと資金難もあり開発を断念。
※長石、珪石中の鉄などの金属成分は窯業業界では嫌われます。鉄分が多いと焼成の際に茶色くなり、白い製品が出来なくなります。それ以外にも金属は導体のため、絶縁性が要求される碍子には使用出来ません。 坑内で時折産出される、タングステン、モリブデン鉱は、5号坑口から出て通常の小割、水洗の工程に行く前に大切坑横のズリ捨て場に直行します。
長石は金属鉱物と違い、相場に左右されない比較的安定した鉱石価格ですが、輸入長石の台頭による販売量の減少と羽越豪雨災害からの復旧の借入金が重荷になり赤字体質から脱却できず、 昭和60年に株式会社昭和鉱業(現昭和KDE)に経営権が移り、カナマル株式会社になるも販売先は同じ。
その頃、5号坑の鉱体の一部に鉄分が多く含まれ品質が低下するため、3号坑の残鉱も採掘(採掘の際に天井を支える為に鉱体を柱として残します。
地盤の固さにもよりますが、採掘出来るのは3割~5割、殆どが鉱柱として残ります。
人工的に支柱を作れば鉱石の回収率はupしますが費用対効果で判断。
平成2年に坑内優良鉱の減少、坑内環境の悪化と合理化のため露天採掘に切り換えました。
平成20(2008)年、海外の安価な輸入長石に市場を奪われ閉山。
平成2年当時の長石価格は特級鉱で1トンあたり約2万円前後(名古屋までの運搬費込み)。
輸入長石は、名古屋港に荷揚げして1トンあたり数千円~1万2千円でした。
その後円高がさらに進行したため、価格差はさらに広がっていると思われます。
※窯業業界が価格の安い輸入鉱石にすぐに飛び付いた訳ではありません。原料を混ぜて成形し、焼成する際に若干縮みます。産地が変わるとその収縮度合いも変わるため、ガラスのメーカーとは違い、トイレなどの衛生陶器、碍子などのメーカーは昔から原料(産地)の変更には慎重です。 某高級洋食器メーカー曰く「わが社は一流の製品を作っている。鉱石の価格は高くなっても構わないから、とにかく安定した品質の鉱石を、長期間供給して欲しい」 世の中こういう会社ばかりだと良かったのですが・・・
金属鉱山が次々と閉山していく中で、国内の非金属鉱山は平成の時代まで命脈を保ってこれました。

②長石の採掘量の推移を教えてください

退社してかなり年月が経過していて、当時の資料は殆どありません。
通商産業省・関東鉱山保安監督局の統計資料を調べたらわかるかもしれませんが、ネットでは見つかりません。申し訳ありません。
島根県の馬谷城山鉱山と金丸鉱山で国内の9割以上の長石生産量でした。
かなり古い資料では、上野三義「新潟県金丸鉱山のペグマタイト鉱床について」がネットで閲覧でき、1959~1965年までの生産量が記載されています。
私が勤務していた昭和62年~平成3年の頃の生産量(精鉱)は年1万トン程度でした。
※入社当時、金丸鉱山の仕事をする際に上記の論文が読みたくてあれこれ手を尽くし、やっと探しあてた閲覧場所が、栃木県益子の窯業試験所と国立国会図書館。それが今では簡単に閲覧できるのです。
ネットは本当に便利ですね。 上野三義氏は当時会社の顧問をしておられました。東京本社でお会いした際にご本人もこの資料を所持してなく、コピーを差し出すと「懐かしいね」と言いながら喜んで受けとっていただき、私が緊張して話す金丸鉱山の現況を、目を細めて終始笑顔で聴いておられたのを今でも思い起こせます。

③鉱山ではどのような仕事をされていましたか

私は大学の鉱山学部で採鉱を学んだので、坑内採掘から露天採掘に切り換えるための、 FS(事業化調査)を行い、 露天採掘の技術指導などをしていました。といっても卒業して始めての鉱山の現場ですので、先輩方から 教わりながらですが。

④鉱山付近の集落の様子を教えてください

 昭和の頃は鉱山山元に金丸小学校上ノ沢分校と集落が有りましたが、昭和50年頃廃校。
私が勤務していた昭和62年頃は鉱山に依存する集落は全く無く、 近辺では上ノ沢中流に越戸集落(山形県小国町)が有りましたが、羽越豪雨の被害で集団移転したそうです。
ここで昭和34年に原子燃料公社がウラン鉱を発見。
原子燃料公社小国駐在員事務所を新設して積極的に探鉱を行い、金丸鉱山も鉱区を出願していましたが、鉱山開発に至りませんでした。
昭和50年頃に索道を廃止してトラック輸送に切り替えてからは(鉱山に人々が通うようになったため、上ノ沢小学校は廃校へ)、金丸鉱山従業員は山形県小国町と新潟県関川村から、越後金丸駅横の鉱山事務所と選鉱場に出社。
採鉱員はここで会社所有のジープに乗り換え、上ノ沢上流の金丸鉱山に通勤していました。
豪雪地帯のため、冬季は鉱山までの 道路は通行不可。
冬場は採鉱員5名も、春~秋に貯鉱した長石を越後金丸駅横の選鉱場で選別します。
金丸小学校上ノ沢分校があった頃は冬季は麓の町とも交通途絶するため、食料、日用品、郵便などは索道で運搬していたそうです。
鉱石を越後金丸駅まで運搬して、帰りは空になった搬器に麓の町で調達した物資を運ぶのです。
人間は保安上の理由で索道には乗れませんが、こっそりと乗り込む人もいたそうです。
なにしろ山元(やまもと・鉱山のこと)から越後金丸駅まで狭い山道を約6キロ、国道を約3キロ歩かなければならないので、 かなりの数の大人達が通年で索道をこっそりと利用していたそうです。
バレたら大目玉を食らいますが。 山元から上の沢に沿って国道113号に至るまでの道路は人一人がやっと通れるくらいの悪路で、麓から歩いて帰ってきた、上ノ沢分校に赴任したばかりの若い教員が転落死するという 痛ましい事故もあったそうです。
そのようなこともあり、索道に便乗する人はかなりいたそうです。
索道は人間が乗る事を想定していないため、安全装置も無く、搬器から落下したら大怪我では済まないだろうし・・それにしても昔の人は強者ですね。
索道を廃止し(昭和50年頃?手元に資料有りません)、4トントラックが通行できるように道幅を拡張するまでは索道が鉱山の生命線でした。
全国に鉱山集落がありましたが、急峻な地形の鉱山の多くで鉱石運搬用の索道が物資の輸送と連絡用にも利用されていました。
今のように快適な舗装道路と性能の良いトラックが無い時代の輸送の主役は、山元では索道、平地では貨物列車でした。
戦前に金丸鉱山で産出されるタングステン、モリブデンは地元の山形県小国町の日本重化学工業で消費されましたが、 陶磁器原料の長石、珪石の大消費地は名古屋です。
米坂線が無ければ、運搬手段を持たない日本最大の長石鉱床もただの”石”です。
昭和11年の米坂線開業があってこそ金丸鉱山が誕生したといえます。

⑤また、写真がありましたら見せていただけるとありがたいです

当時はフィルムカメラで、現像と焼き付けが必要でした。
今のように気楽に写真を撮る時代でもなく、以前あった写真も今は見当たりません。申し訳ございません。
ご存知とは思いますが、ネットで、山元の事務所と選鉱場、金丸小学校上ノ沢分校跡、露天採掘場など見ることができます。
私の写真と年代が違うだけでほぼ同じ光景です。
ご質問の内容とは違いますが、金丸鉱山の採掘場は、山形県と新潟県の境界付近で、日本でも数少ない県境未確定地です。
とはいえ上ノ沢小学校は金丸小学校の分校ですから、行政上は新潟県という認識だと思います。
(※原子燃料公社の地質図では山形県になっています・2021年5月追記)
しかしながら鉱山に関係する税金の一部は山形県と新潟県の両方に払っていました。
県境未確定地だけでも珍しいことなのに、そこに鉱床が有り、鉱山が稼行されて税金の問題が持ち上がり、 両県の役人が互いに知恵を絞って駆け引きしたのか、それとも玉虫色の決着をしたのか・・・ なかなか他所では聞かない面白い話だと思います。


以上です。
個人的には、索道にこっそり乗って通勤?していた人達がかなりいたという下りが面白かったです。
ぼくの母は福島県山都町(現・喜多方市)船岡出身なのですが、喜多方市内の高校へ通勤するのに線路沿いを歩くことが多かったと聞いたことがあります。それが最短距離だったからだそうです。
道路はひとつの選択肢でしかなかったのです。
最後に、Kさんが大切坑手前のズリ
で採取したカリ長石の写真を掲載します。
カリ長石と黒雲母花崗岩との境が緑色に変色していますが、この部分がアマゾナイト。
結晶の大小を問わなかれば、ズリでは他にもガーネットや白雲母、黒雲母、曹長石、曹灰長石、燐灰石、磁鉄鉱、輝水鉛鉱、灰重石、鉄マンガン重石、ジルコン、方解石、石英など、いろいろ見つかるようです。

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金丸地区のウラン鉱床 [鉱物 (関川村・金丸鉱山)]

1955年11月、花崗岩上に分布する新第三系基底部の礫岩または砂岩中に、日本で初めて堆積型ウラン鉱床が発見されました。
以来次々と国内各地でウラン鉱床の発見が相次いだのですが、新潟山形県境に位置する小国・金丸地区でも195911月、新第三系基底部に数箇所のウラン露頭とその一部に燐灰ウラン石が発見されたのです。
金丸鉱山周辺では動燃により7箇所ほど試錐調査がなされ、文末で紹介する参考文献には3箇所のポイントが記述されています。
すなわち、第一・第二露頭とH露頭。
H露頭が最もウランの濃縮度が高く、昨年あたりから一度はそこへ行ってみたいと思うようになりました。
奇しくも最近知り合った、金丸鉱山で以前働いていらっしゃったKさんから金丸地区のウランについての新たな情報を得、H露頭の場所もわかったので5月11日金丸鉱山大切坑のズリを訪れた後、ここへ立ち寄ってみました。

引用します。
「この露頭(H露頭のこと)の上位のアルコーズ(砂岩)は層状に褐鉄化し、燐灰ウラン石が多量に鉱染している。またこの燐灰ウラン石の鉱染している部分を掘り下げ、新鮮なアルコーズの、特に放射能の強い黒色部分からコフィン石が検出されている。
 露頭付近の精査の結果では鉱床の層厚は約3m、ほぼ東西方向に約30mの間10°内外の南西傾斜で、層状をなして連続している。」
「小国・金丸地域におけるアルコーズ中の層状鉱床のウラン鉱物は、初生鉱物としてコフィン石と、酸化帯に見られる二次鉱物の燐灰ウラン石である。燐灰ウラン石はこれと密接に共生する褐鉄鉱と共に最も新しく晶出したものである。」
「H露頭では放射能異常部は3mの厚さで、特に燐灰ウラン石の濃集部は厚さ20~30cmの層を成している。」

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この沢の先にH露頭があります。

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文献にありますように、露頭は東西約30mの長さがあるのですが、まさにその通りでした。
花崗岩の上に砂岩層があり、その上に3m前後の堆積物が重なっています。
表面を観察すると褐鉄鉱が目立ちますが、素人目には燐灰ウラン石はわかりませんでした。
一応UVライトを持っていったのですが、ほとんど活躍することはなく・・・

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露頭上部。
今から思うと、熊手を持っていけばよかったと反省しています。
20cmくらい掘り起こしたら、或いは燐灰ウラン石が出てきたかも。

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この日のために買ったガイガーカウンター(放射線線量計)で計測すると、この露頭は概ね0.3~0.35の数値を示しました。
金丸鉱山への林道沿いでは0.15~0.18程度なので、やはり線量は高めです。
背景の石は褐鉄鉱。
このガイガーカウンターはあくまで空間の線量を測定するもので、石に近づけて石の発する放射線を測定するという使い方はできません。
安物なので、数値はあくまで参考です。

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H露頭東端部。
この先も50~70mほど沢を遡行しましたが、岩盤も堆積層もなくなり、線量もぐっと下がりました。

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これが褐鉄鉱。
燐灰ウラン石と共生関係にあり、燐灰ウラン石は褐鉄鉱に鉱染(鉱物が母岩中の細かい割れ目や微小な孔に散在していること)していると、文献で言及されている鉱物です。
風化がそれなりに進んでいるためとても脆く、力を加えると簡単に割れます。

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こちらは裏側。
石英と黒雲母がメインかなと思いますが、ひょっとしら1mm前後のコフィン石も混ざっているかもしれません(希望的観測)。

※参考文献
a:新潟山形両県境小国・金丸地区ウラン鉱床(島津光夫・徳永重元・小関幸治)
b:新潟・山形県境小国・金丸地域の地質とウラン鉱床(門田長夫)





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金丸鉱山大切坑ズリに異変あり [鉱物 (関川村・金丸鉱山)]

最近、金丸鉱山に数年間務めていたというKさんと知り合いになりました。
貴重なお話をたくさん聞かせて頂いたので、一般鉱物ファンにとって有意義となる情報を幾つか紹介したいと思います。
まずズリに関してですが、大切坑下のそれは坑内採掘及び山元選鉱で生じたもの。
よりズリの規模が大きい観世音沢のズリは、露天採掘の際に剥いだ表土が主体なので、各種鉱物が拾えるのは大切坑下のズリだそうです。
確かに後者は鉱石の品位が低く、単なる岩石も多いので、この話を聞いて納得。
探すなら大切坑下のズリですね。
というわけで風薫る新緑の5月11日、金丸鉱山へ行ってきました。
直近で訪れたのは2019年の11月ですが、そのときに比べると長石橋前後の林道の状態が悪化していました。
林道が終わって踏み跡に切り替わってからは特に変わったところはなく、ヤブも浅かったのですが、大切坑下のズリに着いて我が目を疑いました。

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なんと、大規模な土砂崩れが起きており、谷の3分の2が埋もれていました。
すぐ右横にある、ここより斜度のきつい斜面はセーフだったのですが、これは悲しい。

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こちらは大切坑ズリの上部です。

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この日の目的の一つに、対岸から露天掘り跡の大斜面の写真を撮るというのがありました。
標高550m前後に位置する広大な露天掘り跡へ山元から通じる道路は、とうにヤブどころか樹木が生い茂っており、そこを歩くのはほとんど苦行。
かといって観世音沢を詰めて行くルートも、(ぼくは2回試したのですが)あと一息というところで斜度がきつくなり、下りのことを考えると懸垂下降用のザイルが必要となり、容易には近づけずあきらめていました。
それならばせめてカメラで現状を写してみたいと思い、より現実的なプランを実行したのです。
大きな砂防堰堤手前の小沢に入り、標高420m地点まで遡行しました。
Kさんが言うには、坑内業員や自分も含め、金丸鉱山で自形結晶の水晶を見た人はいない。
しかしあれだけ大きなヤマなので、どこかにポイント水晶が成長している衛星鉱床がある可能性は否定できないと。
そういった衛星鉱床を素人が探すには、沢沿いをあたってみるしかありません。
ということで、まだ見ぬポイント水晶探しと露天掘り跡の大斜面の写真撮影を兼ね、山元の対岸の小沢を登ってみた次第。

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さて、これが露天掘り跡2021/Mayの最新画像です。
いつかは行ってみたいですね。
ちなみに、沢沿いはところどころ土砂の堆積が厚くなっており、おいしい露頭があったとしても埋まっている可能性が高く、水晶探しは不発に終わりました。
ここで、Kさんが教えてくれた金丸鉱山の鉱物情報をお知らします。

「金丸鉱山の輝水鉛鉱は石英の表面、長石と母岩(花崗岩)の境目に産することが多く、色もやや黒ずんだ感じで、触ると雲母がカサカサとした感じに対して、しっとりとしています。条痕色を見れば一発ですが・・特に長石特有の劈開面には白雲母が発達していました。
水鉛沢の山肌には何ヵ所か輝水鉛鉱の露頭と採掘跡が有りました。ガーネットはかなり小さいのが石英と共生していました。
長石では緑色のアマゾナイトが母岩の細粒黒雲母花崗岩との境目に僅かですが産します。石英は白い塊だけで、自形の所謂「水晶」は全く産しません。
長石を販売するようになると、タングステン、モリブデンは窯業原料としては不純物なので、ずりとして捨てられました。
鉄マンガン重石は山の反対側の長谷沢で多産。」

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この日、ぼくが持ち帰った鉱物は2個で、そのうちの一つがこれ。
Kさんが大切坑下のズリで拾ったというアマゾナイトの写真を見せてもらったのですが、それがあまりにも素晴らしく、似たような鉱石を見つけようと思っていたのです。
そのアマゾナイト(緑色の微斜長石)、カリ長石と細粒黒雲母花崗岩との境目が緑色になったもので、Kさんいわく、金丸型アマゾナイトだそうです。
結局、大切坑下のズリがあんなことになっていたのでチェックできる石の絶対数が少なく、思い描いていた鉱物は見つけることができませんでした。
そんな中でこれは、細粒黒雲母花崗岩の片鱗である黒雲母とカリ長石が合体しているもので、若干緑がかっている部分もあります。
もう一息というところ。



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金丸鉱山の関連施設跡 [鉱物 (関川村・金丸鉱山)]

改めて、ざっと金丸鉱山の歴史を概説します。
昭和7年、行者が上の沢の上流で光沢のある鉱物が付着した石を発見、それがのちにタングステン鉱石であることがわかり、昭和11年から採掘作業が開始されました。
第二次大戦による休業期間をはさみ、一帯に長石が多いことから長石の採掘を目的に日本窯業化学が上ノ沢鉱業所を昭和23年に開設。
翌年には上ノ沢と、越後金丸駅に隣接する選鉱所を結ぶ全長4650mの索道を建設、昭和25年より採掘を本格的に始めました。
上ノ沢には鉱山集落が形成され、昭和41年には38戸93人が生活していたといいます。
小中学校の分校も置かれていたのですが、長石需要の減少により昭和44年には中学校の分校が、昭和50年には小学校の分校が閉鎖され、住民も離村しました。
しかしながら鉱山は閉山せず、規模を縮小しながらも通いの従業員で細々と営業が継続され、完全に閉山となったのは平成8年のことでした。
金丸鉱山で採掘された長石は陶磁器の原料に使われ、それらの産業が盛んな名古屋方面に出荷されたとのことです。

さて、あるサイトを見て、索道の鉄塔が1基残っていることを知りました。
昨日の記事では越後金丸駅周辺にあった貯石場の広場からの星景写真を載せましたが、やはり昼間の風景をじっくり見てみたかったので翌日も現地を訪れました。

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荒川の対岸にその鉄塔は立っていました。
具体的には前瀬集落の外れです。
高さは30m近くあるでしょうか。
周囲は長石と石英の小さな破片が無数に散りばめられており、きれいな小石が拾えます。

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実は前瀬集落から400m上流の河原に”さざれ石”が見られると、今はなき金丸小学校のHPで見たもので、さざれ石の河原を探すべく、前瀬からさらに農道を進みました。
その農道が途中から、さっきの鉄塔周辺の広場と同じように小さな長石と石英のチップが敷き詰められており、この写真のようにこぶし大の石もそこかしこに点在していたのです。

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わ~い、ズリだ!
鉄塔周辺の広場にはこんな場所も。

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そこで見つけた質量800gほどの鉱石。
おそらく輝水鉛鉱だと思います。
黒雲母も多少付いているのかもしれません。
金丸鉱山の初期の頃は前述したように、タングステン及びモリブデン鉱石を採掘していたので、そのいずれかの石を見つけるのも目的でした。
山元でも少しは見かけましたが、これほどびっしりとメタルチックな鉱物に覆われた石は初めて見ました。
スキーのリフトに乗ると、鉄塔を通過するたびにガクンと小さな衝撃を受けますよね。
ですから、この索道の鉄塔を通過するたびにコンテナが揺れ、少しづつ鉱石がこぼれて鉄塔の周辺に巻かれたのではないかと推測します。
結局、さざれ石の河原には行けませんでした。
踏み跡がヤブに埋もれており、最初から戦意喪失。
軽装で来ていたので即Uターン。

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金丸集落の高台に、今は廃校となった金丸小学校の建物が残っています。
そのさらに後方に神社(写真)があります。
境内に名称を示すものはなかったのでネットで調べてみたら大蔵神社ということでした。
鳥居の右横に大きな岩が2つ並んでいるのですが、この黒い鉱物はそれらの岩に露出していました。
モリブデンの主な鉱石は、鉄重石、マンガン重石、灰重石、鉄マンガン重石。
タングステンの主な鉱石は、輝水鉛鉱、モリブデン鉛鉱。
これのいずれかだと思うのですが、手持ちの数冊の図鑑で調べた限り、鉄重石がもっとも似ていますかね。

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場所は変わって、採石場跡の大斜面です。
グーグルアースのストリートビューでこの前の道路がカバーされているので比べてみると、グーグルアースの画像に比べると圧倒的に現状はヤブに覆われているのがわかります。
左手に重機が10台前後置かれている広場があり、その前には道路をはさんでグーグルアースではなかったプレハブの事務所が立っています。
ですから、完全に採石場が閉鎖されたわけではないのだろうけど、事業規模はかなり縮小されているのでしょう。

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ここから越後金丸駅側に歩を進めると、左手に廃屋が現れます。
前日の夜に来たときは気づきませんでした。
調べてみると、金丸鉱山の事務所だったようです。

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昨日の記事の最後の写真で写っているのがこの建物(選鉱所跡)です。
その背後にまわってみたら、索道の鉄塔が視界に入りました。
そして、このときは気づかなかったのですが、PCで画像処理していると、金丸鉱山の標高570mにあった露頭上部が写り込んでいることを発見しました。
ナルホド、あそこからここまで一直線に見渡せるのですね。
索道のルートが一目瞭然。

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選鉱所の中はこんなになっています。
ここにも長石と石英の細かなチップがありました。
金丸鉱山ではカリ長石メインに、石英、灰曹長石、微斜長石、柘榴石(ガーネット)、白雲母、黒雲母、燐灰石、方解石、磁鉄鉱などが見つかっているので、この山をほじくり返せば何かお宝が見つかるかもしれませんよ。







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金丸鉱山の珪灰石 [鉱物 (関川村・金丸鉱山)]

昨年から今年にかけて、金丸鉱山(関川村)へは4回足を運びました。
しかし、JR越後金丸駅近くにある鉱山関係施設を訪れたことはなかったので、21日夜、越後金丸駅周辺を探索してみました。
もっとも、目的の半分は星景写真であり、もしズリが見つかればUVライトを照射してみて蛍光鉱物があるかどうか調べてみようという軽いノリで。
現地へ着いたのが薄明終了後だったので、周辺の地形はよくわからなかったです。
駅の南方に広大な採石場跡があるのですが、そこから越後金丸駅までの間を歩いてみました。

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夏草が生い茂っているところが多く、思ったより探索できる範囲は狭かったのですが、それでも写真の珪灰石(ウラストナイト)を見つけることができました。
幅10cm、質量315g。
珪灰石はここ2年間新潟市の海岸部の護岸地帯で、おそらく中国から捨石用に輸入されたであろうそれの破片を5~6個ゲットしましたが、こちらはまごうことなき新潟県産です。
「鉱山軌道・金丸鉱山」というウェブサイトによると、越後金丸駅のすぐ南には金丸鉱山の貯石場があったとされ、となるとこの珪灰石も駅から約4.5km離れた金丸鉱山から運ばれてきたものである可能性が大きいです。
もっとも、隣接して採石場がありますので(上のサイトによると、この採石場全域が金丸鉱山の貯石場ということになっていますが、ぼくの記憶でも実際に近年まで採石場は稼働していたので、貯石場として使われたのは駅に近い側の一部の広場だったのではないかと思っております)、そこから産出したものである可能性もあります。
いずれにしましても、関川村産であることは間違いありません。
新潟市の海岸部で見つけたそれはことごとく長波(365nm)の紫外線ライトで淡いイエローに蛍光するのですが、この珪灰石の蛍光度はそのどれよりも強い!

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結晶面のアップです。
新潟市の海岸産?の珪灰石に比べて風化の度合いが少なく、表面がみずみずしい光沢を保っています。

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この硅灰石を見つけた場所から2m離れたところでも、イエローに蛍光する石を発見。
UVライトを当てながら撮ってみました。
硅灰石の割れた破片(ぼくが割ったわけではない)がことごとく蛍光します。
しかも鮮やか。
ただし、一帯にズリと言えるほど岩石がたくさん落ちているわけではありません。
かなり丹念に探さないと見つからないでしょう。
それを見越した上で、あえて夜間に来てみたのです。
夜ならハイパワーのUVライトがあれば、蛍光鉱物は一発で見つかりますから。

IMGC0347p.jpg

EOS R改 + RF15-35mm F2.8L IS (共通)

ひっきりなしに薄雲が流れてくる状況だったので、今回は一発撮り。
中央やや左に採石場跡が見えています。
ちょうどその真上に天の川が立ち上がっています。
右上の明るい恒星はベガ。
その左に天の川を挟んでアルタイル、その斜め左下に土星。
上の硅灰石を拾った広場から写しました。

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その後一気に雲が増えてきたのですが、この建物をどうしても写したかったので。
ちなみに、右の重機は鉱山に関係ありません。
ちょうど背後の杉林の伐採が大々的に行われており、そのためのショベルカーなのです。
この廃墟と化している建物は、金丸鉱山の選鉱所跡。
現地にも選鉱所はあったのですが、現地の鉱山集落がなくなり、規模を大幅に縮小して営業を再開してからは選鉱所もこちらに移したようです。
背後に国道が走っており、その外灯の影響を受けています。
ただし幸いなことに、道路を行き交う車のヘッドライトは右手上部の林を照らすだけで、背後の林が光を遮ってくれるのでこの建物がこれ以上明るくなることはありません。
そろそろ夏の天の川の季節も終わりですけど、どちらの場所も星景写真にもってこいのポイントであると思いました。







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金丸鉱山の黒雲母 [鉱物 (関川村・金丸鉱山)]

先日、金丸鉱山(関川村)へ行った際、観世音沢上部で写真の石を拾いました。

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8cmほどの石ですが、ズリの表面に落ちていたものではなく、沢の側壁(次の写真)からほじくり出したものです。

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時間がなくてちょっと見ただけですが、赤谷鉱山の場割沢でも同様の地形があり、そこにはこれは!?と思えるような石が多数ありました。
今回見つけた石は発見時はもっと黒っぽく、1日サンポール液に浸して洗浄した結果黒っぽさが取れ、光沢面が現れました。
沢の側壁は宝の宝庫。
今年はもう一度行くとしたら晩秋になるかと思いますが、次回は側壁をもう少し調べてみたいと思います。

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樹脂光沢が特徴の黒い結晶は黒雲母。
これだけの塊は初めて見ました。
花崗岩のペグマタイト鉱床である金丸鉱山では不規則片状をなして産出することが多く、火山岩中のもののように6角形の輪郭を示すものはやや少ないようです。

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これも黒雲母。
風化作用で黒い結晶が分解し、その鉄分がしみ出して水酸化鉄となり、周囲の長石類が褐色に染まっています。
中央やや左斜上に見える、茶色の結晶は灰鉄柘榴石だと思います。
もう一箇所、同じようなサイズの灰鉄柘榴石が付いていました。

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一応長波のUVライトで蛍光実験も行いましたが、この部分のみ僅かに蛍光しました。
黒雲母の周囲を覆っている斜長石か方解石か何かが蛍光しているようです。

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黒雲母、マクロ撮影するとその独特な質感に目を見張らされます。
母岩は長石なのですが、一部石英や輝水鉛鉱も見られました。



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金丸鉱山のズリ [鉱物 (関川村・金丸鉱山)]

金丸鉱山へ行くのは今回が3回目(昨年2回)。
標高550m前後に展開する露天掘り跡や、幾つか残る坑口を見てみたいのは山々なれど、今回(22日)も昨年同様ズリの鉱石を見て回ってきました。

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金丸鉱山も現在急速に自然に還りつつあり、国土地理院の地形図なども林道が見直されてしかるべきです。
これは今回ぼくが幾つかの文献を元に作成した地図なのだけど、まず、林道は砂防堰堤横までで消えています。
その先もしばらくは踏み跡が残っていますが、GPS機器で記録した赤い軌跡の末端の辺りでほぼ消滅。
神社もとっくに祠の屋根が崩壊しており、周囲も深いヤブに覆われているので、4月中に行かないとその屋根でさえ見つけるのは容易でないと思います。
緑で囲った部分が今回訪れたズリ、黄緑で囲ったズリは今回は探索しませんでした。

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こちらは大成坑のズリ。
結構横幅があり、こちらは左側なのですが、右へ行けば行くほどやや傾斜が増します。
ここまでなら長石橋から歩いたとしても、所要30分で来ることができます。
今回気づいたのですが、観世音沢沿いのメインのズリよりはるかにカリ長石や石英の密度が高く、それらの石で良かったらこのズリを探し回ったほうが効率がいいです。
尚、昨年4月に初めて訪れたときは大成坑の施設の一部が視認できましたが、今回は葉っぱが生い茂っていたため視認できなかったです。


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こんな純白の石英がゴロゴロしています。
もう少し透明度が高いものがありますが、それらは灰色に濁っているものが多く、キレイなものはあまりありません。

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こちらは観世音沢の入り口付近(標高365m)。
5月の中旬ともなると、観世音沢の入り口が木々に埋もれて見えないので、初めて来る方は迷うと思います。
20mほどの藪こぎでこの地点へ来ることができます。
中央に古タイヤが見えますが、このタイヤが目印。
おそらくずっとこのタイヤはこの場所にあり続けると思うので、タイヤの有無を一応確認するといいでしょう。

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観世音沢上部です(標高415m)。
今回標高422m地点で引き返しましたが、この先で傾斜は一気に増し、沢沿いのズリ歩きはこの辺までです。
膨大な数の鉱石が散乱していますが、鉱物の種類はそれほど多くはありません。

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大きい方の石英で、横幅14cm。
アゼツライトの原石のような、非常に質感の高い石英は大切坑のズリで簡単に見つけることができます。

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金丸鉱山でよく見かける、輝水鉛鉱付きのカリ長石(こちらは観世音沢のズリにて)。
金丸鉱山の鉱床は、細粒黒雲母花崗岩とアプライト質岩から成るペグマタイト鉱床です。
ここで見られる鉱物は、黒雲母、白雲母、ざくろ石、曹長石、輝水鉛鉱、燐灰石、灰重石、鉄マンガン重石、石英、微斜長石、カリ長石など。
ただし、長石系と石英以外は丹念に探さないと見つからないかも。
鉱床は標高550~570m地点に露出し、1坑、2坑、及び3坑の坑道によって地表下約100mの深さまで開発されています。



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夜の金丸鉱山 [鉱物 (関川村・金丸鉱山)]

あえて暗くなってから金丸鉱山を訪ねたのにはわけがありました。
それは、UVライト(365nm)でズリ山を照らしてみたかったこと。
金丸鉱山はペグマタイト鉱床。
基本、蛍光鉱物はほとんどないものと思われますが、何かしらレアな鉱物が見つかることも考えられます。
(ただし、灰重石は短波でないと蛍光しないので、それは外す。)
さて、春に初めて訪れた時、舗装道路の終点から鉱山入り口に位置する最初のズリまでほとんどヤブはなかったと記憶していたのですが、予想以上に草丈は夏の間に伸びており、平均して腰の高さくらいまでのヤブこぎを強いられました。
とはいえヤブはそれほど密ではなく、終始視界にはっきりした踏み跡が入っていたので、夜ではありましたが25分で最初のズリに到達することが出来ました。

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かなり落ち葉が堆積していましたが、やはりここのズリは雰囲気がいいです。
奥のズリ山は石英と長石が半々くらいの割合だったと記憶にあるのですが、こちらのズリは長石は少なく、8割方石英です。
金丸鉱山の石英はアルミが若干含まれているせいか、艶のある(色温度のやや高い)白で、不純物も少ない個体が多いです。
残念ながらUVライトで照らしても、赤い疑似蛍光の光しか目に入らなかったので、すぐさま長石探しに専念。
前回来た時は長石に興味がなかったので石英しか拾わなかったけど、今回は長石ゲットが目的です。
それもすぐに達成でき、早めに現地を後にしました。
純白の石英は鉱山跡まで行かなくても、途中の林道脇にも無数に落ちています。
特に多いのは、春から夏にかけて林道改修工事が行われていた道路沿い、約300mの区間。
それと、林道の中程に河原へ出る砂利道があり、砂防ダムを造成途中であるかのような地形になっているのですが(この工事は中断しているけど、再開されるのかどうかは知りません)、その広場にも沢山石英が落ちています。
また、この広場では長石(金丸鉱山の長石はほとんどがカリ長石です)もそこそこ拾えます。

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これは4cmほどの小さなカリ長石(裏側は石英となっている)ですが、蛍光度合いが強かったので選びました。

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今回の一番のお宝はこのカリ長石。
ちょうどこぶし大のサイズですが、ところどころ銀色の何かが付いています。
他の角度から拡大撮影してみました。

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輝水鉛鉱 かな?それとも白雲母?
わかる方がおられましたら、ご一報ください。
さて、UVライトを当ててみます。

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ほとんどが疑似蛍光っぽいですが、複雑な陰影が個人的には美しいと思います。

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ところで、11月3日は福島潟マルシェが福島潟で行われました。
天然石工房キューさんが出展しており、テント裏の芝生広場でNPO法人鉱物友の会新潟支部の懇親会が同時開催されました。
9月から会員になっていたのですが、友の会主催のイベントはこれが初参加。
上の写真は、Kさんから頂いた水晶たち。
いずれもぼくが知っている採取地の玉髄やメノウなので、きっと蛍光するだろうと思ってUVライトを当ててみました。
結果はご覧の通り。
Kさん、どうもありがとうございました!
今回の懇親会では多くの石好きの方々と知り合いになることができ、大変楽しいひとときを過ごすことができました。
参加して良かった。
このような素敵な会を用意してくれたキューさんにも、心から感謝したいと思います。

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金丸鉱山跡を訪ねて [鉱物 (関川村・金丸鉱山)]

米坂線の越後金丸駅から北へ5kmほど入った山中で昭和7年(1932)、行者がタングステン鉱石を発見、昭和11年(1936)から観世音鉱山として操業を開始。
その後、太平洋戦争による休山をはさんで、昭和23年(1948)に日本窯業化学が上ノ沢鉱業所を開設、以後日本で最も高品質の長石を採取する鉱山として平成20年(2008)まで操業していました。
鉱山のあった上ノ沢には昭和41年(1966)10月の時点で38世帯93人が暮らし、60人が他地区から鉱山へ通っていたとか。
新潟県金丸鉱山のペグマタイト鉱床について」というPDF資料がネットにアップされているので、リンクを貼っておきます。
詳しい探訪記を探したけど、ネットでは見つけることができず、ここで拾ってきたという鉱物の写真をあるブログで見ることができたのみ。
さて、現状やいかに?


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国土地理院の1/2.5万地形図に長石橋という固有名詞が書いてありますが、そこまで車で入ることができました。
そこから先も林道は続いておりましたが、路肩を補修したり舗装したりなどの工事のため、一般車の通行はできません。
そこから7~8分も歩くと、林道脇に写真のような純白の石英が転がっているのが目に止まりました。
先日訪れた、新発田の千石鉱山もこのような白い石英が見られましたが、個人的に純白の石英は大好きなのでワクワク感が募ります。
上ノ沢の渓相も素晴らしく、鉱物探し抜きにしてもすぐれたハイキングコースたりうると感じました。

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途中右から大きな沢が3本ほど合流し、最後の沢を過ぎると林道はそこまでで、そこから先はご覧のように踏み跡だけとなります。
長石橋から25~30分ほどで最初のズリが左手に現れます。

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斜度もこの辺は緩く、好みの石捜しが簡単に行えます。
この辺は石英が最も多く、次いで長石でしょうか。
石英とよく似ているので見極めが難しいのですが、結晶質石灰岩もあるようです。
ぼくのように石英が目的なら、この先のズリよりこちらの方が石英の数が多く、質も高いものがごろごろしているので、最初のズリでUターンしても構わないと思います。
尚、このズリはかなり奥まで続いているのですが、時間の関係で奥の方は足を踏み入れていません。

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その後ヤブこぎがしばらく続き、そこを抜けると一気に展望が開けます。
右には大きな堰堤があり、その手前に電柱のようなものの残骸がありました。
そして、左手には大きなズリが現れます(上の写真)。
おそらくこれが観世音沢だと思います。
斜度は20度前後でしょうか。
傾斜はそれほどでもないので、どんどん上へ歩いていきます。
足場はしっかりしているので、思ったより歩きやすかったです。

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ズリの中間部。
まだ傾斜はそれほどきつくないので、どんどん先に進みます。
このズリは石英が長石より多く、両端にはかなり大きな石もあります。
ただし、ポイントが群集した水晶や、半透明な石英は皆無でした。

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観世音沢のズリ上部。
ここから30mも進むと両側が崖となり、そこで引き返しました。
例のPDF資料の地質図と照らし合わせると、3抗の南50m下で折り返したようです。

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長石です。
花崗岩のピンク色の部分はカリ長石ですが、それが肥大化したものです。
真っ白な石英に比べると暖色系の色合いなので、一目で見分けが付きます。


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こちらは石英もしくは珪石。
表面に銀色に光る物質が付いていますが、これは何?鏡鉄鉱?
銀色の細かな粒子は、長石にも付いているものがありました。
(2020/05/23 追記:輝水鉛鉱でした。)

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こんな感じで、ズリの端っこの方には大きな珪石がごろごろしています。


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1/2.5万地形図を見ると、最後の堰堤の左斜め上に神社マークがありますが、そこを突き止めるのがひとつの目的でした。
結果的によくわからなかったのですが、この廃屋がそうなのかな?
中には入っていないので、未確認ですが。
(2020/05/23 追記:神社でした。)

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ここから後ろを振り返ると、コンクリートの残骸の一部が視界に入りました。
位置的には、あのあたりが大切抗ではないかと。
PDF資料によると、鉱床上部は海抜約570mの地点に露出し、1抗、2抗および3抗の坑道によって地表下約100mの深さまで開発されうんぬん・・・とあります。
1/2.5万の地形図を見ると、道は標高520mのあたりまで続いていますが、間違いなくこの道は鉱床上部に至る道だったのでしょう。
現在はこの道は自然に帰してしまい、深いヤブに埋もれています。
もう2~3週間早かったっら、ひょっとするとトレースできたかもしれませんが。
PDF資料の地質図や坑内透視図を見ると、非常に大規模な鉱山だったことがわかります。
石英や長石以外にも様々な鉱物が採取されていたようですが、おそらくそれらの鉱物もあの広大なズリに見られたのでしょうけど、見てもわからないので写真は撮りませんでした。
できれば柘榴石は見つけたかったのですが。
帰宅後、改めてネットでいろいろ調べていたら、平成10年度に写された選考場の写真を見つけました。
リンクを貼っておきます。
今とは全然草木の生え方がちがいますね。
これなら地形がよくわかります。
それにしても、往時はここに上ノ沢分校があったんですね。
ちょっと信じられません。
時代は変わりました・・・

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帰り道、渓谷の写真を撮りながら歩きました。
沢歩きも楽しそうです。
沢沿いの岩壁には、水晶のポイントが隙間に生えているなんてことはないのかな?
支沢もいい感じだったので、いつか沢歩きしてみたいです。

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