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まだまだ出てくる大毎金山の坑口 [鉱物 (村上市・大毎金山)]

今まではマンニモ山の7~9合目を主体に探索してきたけれど、どうももっと標高の低い斜面が気になって仕方がありません。
大毎金山にはマンニモ山の他に、十貫山というもう一つの鉱区があり、こちらではまだ一つも坑口を見つけていなかったのも心残りでした。
こないだ入手した『金銀山史の研究』に、一つだけ新たな情報が記載されていました。
それによると、十貫山に非常に大きな旧坑(数百年前のもの)があるというのです。
地質はマンニモ山のそれと同じだけれど、一種の岩脈状態をなし、方々掘り尽くされて風化の跡が甚だしいので断言はできないが、銀を採掘してのが明らかであるとのこと。
こんな文章を読むと余計に十貫山への追慕が増し、5月1日、現地へ馳せ参じました。

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今回は標高300m付近まで下りましたが、途中から明確な踏み跡がところどころ現れました。
そして、段々畑の痕跡があちこちに見えてきました。
大毎の棚田には強い思い入れがあり、ここ10数年間、天体写真や星景写真を撮りに、或いはゲンジボタルの観察をしに足繁く通ったものです。
あとでガーミンのログを落とし込んだカシミール3Dの地図を見ると、大毎の棚田上部からここまで農道が伸びているように思いました。
十貫山の北に365mの小ピークがあり、その周辺に今は休耕田となってしまった田んぼが存在します。
ここはそこよりさらに山奥。
ちょっと感無量です。

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地形図を見ると、十貫山の350mラインに絶壁に近い急斜面があるので、その下辺りの斜面を目指して歩きました。
踏み跡もジグザグに伸びていて、いよいよ急斜面の直下まで来ました。
坑口が出てきそうな気配100%です。

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岩壁の取り付きには大きなズリ鉱石も散乱しており、待望の坑口が現れました。
ただし奥行きはなく、どうも崩落してしまった様子。
そして、本来の坑口は実は左側、大きなズリが積み重なっている方だったかもしれず、こちらはわずかな隙間からより広い空間が奥に拡がっている様子が伺えました。
『金銀山史の研究』p150に載っている十貫山の旧坑の写真とは岩場のディテールが違うので、”非常に大きな旧坑”はこの場所ではないようです。

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そこの近くでもう一つ、上の写真の坑口を発見しましたが、そこまででした。
万策尽きたので、さてどうしようかと思案し始めたところ、小沢(=金子沢)を挟んで対岸に坑口を見つけました。

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そして、さらなるサプライズが待っていました。

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これはでかい・・・
かなり急な崖の途中に開口しています。
なんとか行けそうな気がするのですが。

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マンニモ山と十貫山の境を流れる金子沢です。
こんな山奥まで治山治水工事が行われているんですね。
沢を渡って、いざ対岸に見えていた坑口へ。

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やはり大きな坑口でした。
しかし、水没しています。

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足を踏み入れてみないとなんとも言えませんが、水深30cmはありそう。
粘土質の泥が厚く堆積しており、ウェーダーでも履かないと入っていく気になれません。

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当然と言えば当然ですが、坑道はやはり長かったです。
最低でも25~30mはありそう。

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望遠レンズで撮ってみると、どうやら支保工が2本立っているようです。
坑道はゆるく右にカーブしており、まだまだ続いているものと思われます。
なにげに中間部はひょっとしたら二段構造になっているかもしれず、天井が高い部分もありました。
その後はマンニモ山の8合目に出て、古い坑口が集中している斜面を横切りながら見落としがないか、注意しながら歩きました。
雪解け直後だったので非常に見通しが良く、過去2回ほど歩いたルートでしたが、新たに2つの坑口を発見。

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この僅かな隙間からライトを照らしてみたら、なんと立坑内部の様子が一部垣間見えたのです。
それほど大きな空間ではなかったけれど、近くにこの立坑の別な入り口があるはず。
しかしもう夕闇が迫っており、今回はここまで。
昭和12~18年まで再度稼行した大沢金山に比べ、こちらは大正時代前半で閉山と、江戸~明治時代の古い坑口主体の鉱山です。
それだけに今回かなり大きな坑道を発見したことは意外でした。




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大毎金山の核心部 [鉱物 (村上市・大毎金山)]

前回大毎金山へ行った時の記事のタイトルが「5度目の大毎金山探索」なので、これで6度目ということになるでしょうか。
過去の記事で散々書いたけど、唯一心残りだったのは、「人が通れる高さ・広さがあり、その間には多数の枝坑道もある」(佐藤貞治1999)ほどの坑道をまだ見つけていないことでした。
ガーミンで記録したGPSの軌跡を管理しているカシミール3Dのマップを見ていると、どうしても歩いてみたい区画があったので、その隙間を埋めてきました。

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これが大毎金山の舞台、マンニモ山。
既に山腹をぐるりと一周しているけど、坑口は西斜面にも東斜面にも見られます。
でも、おそらくメインは西斜面だったのではないかと想像。
石碑のある飯場跡が北斜面にあり、そこから西の山腹をトラバースする踏み跡が見られるからです。

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未知のルートを辿ってみたはいいけど、そのルート上には何もなくて、どこをどう歩いたのか、気が付くとこの坑口へ来ていました。
なんとなく見覚えのある坑口だったので、帰宅後調べてみたら、やはり一昨年の9月下旬に来ています。
リンクさせたページでは坑口の中へ侵入していますが、今回は8月の豪雨でかなりの土砂がなだれ込んだのか、とても入れる状況ではありませんでした。
手前にも新たな土砂が堆積しているし、内部も天井が低くなっており、奥の空間がなくなっている様子でした。

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そこから右手方向へトラバースしていくと、これまた見覚えのある坑口が。
ここへは昨年の4月30日に来ています。
その時の写真と比べてみると、思い切りシダ類が生い茂っているのがわかります。
この坑口に関しては不思議と土砂の流入はなく、写した内部の写真を比べてみると違いは見つかりませんでした。

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この坑口を出てから、なんとなく右手斜め前方になにかあると第六感が働いたので、そちらへ前進。
約30m先でかなり大きな坑口発見。

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完全に土砂で埋まっていますが、或いは20年前だったらどうでしょう?
大人の身長と同じ高さは絶対にあったと思うのです。
さらにその右にも大きな坑口出現。
この日見た中で最大かもしれません。
横長で、入り口は2箇所あります。
さっきの坑口と、もしかしたら坑道の奥でつながっている可能性もあります。

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内部から小さい方の入り口を写してみました。

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坑道は左側へ伸びていたようです。
大毎金山の坑口は、どれも入口部分が斜坑とは行かないまでも若干下方向へ傾いている坑道がほとんどであり、それゆえ土砂が入りやすいのです。

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この坑口前には大量のズリが拡がっており、その中には珍しく石英が混じっている鉱石もありました。
佐藤貞治氏の「金銀山史の研究」によると、”地質は花崗岩、及び噴気作用のため甚だしく珪質化せる安山岩より成る。鉱床は後者の割れ目を充填せる含金銀石英脈にして、母岩は甚だしく変質作用を受けて頁岩状態を示す”とのこと。
この石もひょっとしたら砂金が混じっているのかもしれません。

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さらに10m右横に、もう一つ大きな坑口が出現。
これもあまり近づくと坑口らしい表情が消えてしまうので、シダ類が邪魔ではあるけど少し引いて写しました。
この坑口も下半分が土砂に埋もれてしまっていますが、おそらく昔は2mほどの高さがあったものと推定します。

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坑道内部。
この坑口前にもズリが拡がっていました。
十貫山にも鉱脈はあったそうですが、そちらでは露天掘りに徹していたのか、坑道掘りを行っていたのかが不明確であり、まだ調査していません。
計6回の調査に及んだマンニモ山周辺に関して言えば、ほとんどの坑口が入ってすぐのところで土砂に埋没しているので、狸掘り跡、露天掘り跡と境界線を引くのが困難です。
なので、坑口や狸掘り跡などを一括りにすると、計10箇所ほどそれらの場所が見られます。
慶長2年(1597)「越後国瀬波郡絵図」に既に存在していたことが伺われ、明治時代におそらく最盛期を迎えていたと思われる大毎金山(閉山は大正2年)、当初の予想以上にかつてここに鉱山があったことの印が山中に多数残っていました。





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5度目の大毎金山探索 [鉱物 (村上市・大毎金山)]

昨年4月28日に引き続き、今年も早春の大毎金山へ足を運びました。
ここはマンニモ山(450)と十貫山(403)の山裾に拡がっている、江戸時代から大正時代にかけて金を採掘していた鉱山。
今年の冬は新潟県は豪雪に見舞われましたが、その後は雪解けが一気に進み、4月30日の今日も昨年4月28日と同じような残雪の残り具合でした。
つまり、標高300mから上の道路は、ごく僅かに日陰部分にほんの少し残雪が残っているけど、斜面にはほとんど雪がない状態。
ある文献に書いてあった「・・・マンニモ山の山裾から斜面の多くの坑道は25~30mの奥行きがあって、人が通れる高さ・広さがあり、その間には多数の枝坑道もある。」の一文がぼくの心を鷲掴みにし、以来おととしから大毎金山の坑道探しに没頭しているのです。
坑口も露天掘り跡もかなり見つけたけど、奥行きが20m以上ありそうな坑口はまだ1個しか見つけていません。
GPS機器でログを取っているので、まだ肉眼で確かめていない斜面はごくわずかになっています。
そのごくわずかに残されたエリアを歩いてみたくて、30日現地へ馳せ参じました。

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昨年までは標高380~420mの斜面を中心に探索を重ねてきましたが、今回はもう少し上のレベル、420~430mの辺りをつぶさに観察するつもり。
カメラを忘れてきたので、スマホでの撮影になります。
こういう時って、たいてい成果がないのですが、やっぱりそのジンクスは生きていた・・・
上の写真の斜面、まだ歩いていないと思っていたけど、この坑口の写真を昨年4月28日に撮ったそれと比べてみたら同じ坑口のようでした。
全然奥行きがなく、単なる露天掘りの跡なのですけど。

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そして、この坑口。
見つけた時はまさにガッツポーズでしたが、やはり奥行きはなく、露天掘り跡でした。
そして、この坑口も昨年4月28日の記事に取り上げている。

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結局この日新たに見つけた新規の坑口は、これが唯一のもの。
堅坑というほどではないけど、縦に掘られています。
ここの5m上にも類似の地形がありました。
マンニモ山の西~北西斜面は450~430mにかけては密な広葉樹林帯となっており、踏み跡の痕跡も見られません。
一方、それより下のレベル、420~380mにかけての杉林は非常に見通しが良く、2~3段にベンチカットされている段の上の方に坑口が空いているパターンが多いのです。
まだ450mのピークの東斜面は未開拓ですが、それ以外はほぼくまなく探索したので、もし長さ25m前後の坑道が残っているとしたら、可能性としてはもっと低いレベル、370~320mの斜面にあるとしか考えられません。

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まだ一個も坑口や露天掘り跡を見つけていない十貫山周辺ですが、今回は前回より下のレベル、390~350mの斜面を探索。
350mまで下ったところで引き返したのですが、右手の奥の方にコンクリート製の細い用水路を発見。
ここから直線距離で400m北には田んぼがあるので、そこへ水を引き込むためのものなのでしょうけど、その先が少し気になります。
でも今回である程度の達成感は得たので、大毎金山シリーズはこれでひとまず完結。
また来年4月末あたりに来るかもしれませんが。





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大毎金山再び [鉱物 (村上市・大毎金山)]

4回目となる大毎金山(村上市)調査へ行ってきました。
大毎金山の歴史をかいつまんで説明します。
正確な開山の日付はわかりませんが、慶長2年(1597)の史料(越後国瀬波郡絵図)に記載があることから、歴史の古い鉱山であることは確かです。
大正2年に休山。
尚、過去記事(2020/04/10)で、林道沿いに古い機械が散乱していたので、ひょっとしたら昭和に入ってから再び採掘が行われたのではないかと書きましたが、どうやらそれらの機械は林業用のそれだったみたいです。
ですから大正年間に操業を終えたと見るのが妥当でしょう。
もう一点、訂正があります。
2020/05/05の記事で、山中に横たわる墓碑を集落があった証拠だと書きましたが、それらの墓碑は落盤事故の犠牲者を弔うためのもので、飯場の住人の墓碑ではないようです。
墓碑の数は10基ありますから、かなり悲惨な事故だったようですね。
ちなみに、墓碑の建立年代は明治時代とのこと。
※参考文献:佐藤貞治「大毎・大沢・沼・机差金山の調査報告」

1回目の調査でマンニモ山南麓、標高約420m付近で3つの坑口が並んでいるのを見つけたのですが、そのとき入り口まで行ったのは一番左の坑口だけで、右の2つは多分地形的に坑口があるだろうと想像しただけで、実際には未確認のままでした。
今回それら2つの坑口の入口へなんとか辿り着くことができ、坑口の大きさを確認することができました。

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最初の記事では坑口が3つあるようだと書きましたが、実際には全部で4つありました。
これは右から2番めに位置している坑口。
一番左端のそれを除き、間口の大きさはどれも似たようなもので、8~9割方土砂で入り口が上端部を除きふさがっていました(一番右端のそれは完全に水没)。
多分この坑口も、本来は間口の高さが1m前後あったのではないでしょうか。

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坑口上部の岩壁。
地質は金・銀などを胎胞する、珪質化を伴う安山岩。

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これは一番左側に位置する坑口。
結局これが最も間口が大きかったです。
ここも土砂の堆積が激しいですが、右側の方は高さが50cmほどあり、腹ばいになればなんとか潜り込めます。
意を決し、坑道の奥行きを確認すべく泥だらけになりながら潜り込んだのですが・・・

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2m先で行き止まりでした。
左手にもこの半分くらいの空間があり、入口に近い側でつながっています。
写真には写っていませんが、左側の入口付近には鉱石が堆積していました。
大毎金山の金の脈幅は0.15~0.9mmとのこと。
ぼくはちまちました作業は嫌いなので、砂金をこれらの鉱石から採取しようという気にはなれませんが。

「・・・金山遺構はマンニモ山、十貫山の二つの山にかけて分布する。マンニモ山(450~460m)の山裾から斜面の多くの坑道は25~30mの奥行きがあって、人が通れる高さ・広さがあり、その間には多数の枝坑道もある。」
これは佐藤貞治氏の調査資料からの抜粋です。
また、大毎金山の最後の鉱業権者となった岸野氏の資料には、明治45&大正元年度現況の坑内実測裁面図があり、そこには7つの坑道が記載されているそうです。
ぼくはマンニモ山の周囲を、おおむね標高400~410mのレベルを、北の一部を除きぐるりと一周しているのですが、一つの例外を除き、まだ坑道の延長が20m以上ありそうなそれは発見できておりません。
4月に探査を開始したときは雪解け直後だったので林内の見晴らしもよく、上の斜面もチェックしたつもりなのですが・・・
もっとも、どの坑口も間口は狭いのでよほど近づかないと気づかない可能性もあります。
今年の晩秋か来春には、標高430m前後のレベルをトラバースしながらもう一度坑道探しをしてみたいと思っています。






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大毎金山の飯場跡発見 [鉱物 (村上市・大毎金山)]

先日、早くも3回目となる大毎金山の調査へ行ってきました。
これで金山があったと言われるマンニモ山山麓(8合目~山頂にかけて)の9割を探索したことになります。
まずは、ある文献に、山頂に露天掘り跡があったと書いてあるマンニモ山(450m)の山頂へ。

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ある程度予想はしていましたが、なんにもありません。
ちょうどピークに鉄塔が建っており、鉄塔を建設する際、山頂にあった岩場を撤去したのかもしれません。
幹線道路からここまでは実に気持ちのよい登山道が付いており( 登山道というより、鉄塔監視用の道ですが)、斜度もゆるく、山頂からの眺めは抜群。
10分で登ってこられるコースですが、とても気に入りました。

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登山道は山頂で終わっているかなと思いきや、北北東の尾根沿いに伸びていたので、Uターンはせずそのまま尾根沿いの踏み跡をたどりました。
ある程度下ると踏み跡はほぼ消失、左右どちらに進もうか迷いましたが、左手側にトラバースしていくことにしました。
こんな感じの斜面となり、視線を上下に泳がせつつ、坑口らしきものがないか歩いていきます。
単純な地形だったのはここだけで、ある程度進むとかなり複雑な様相を見せ始め、GPSを見ながら歩いてもどこを歩いているのかよくわからない状況。
そして、予期せぬ場所でいきなり坑口に出くわしました。

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夏になったら壮絶なヤブとなることでしょう。
穴の直径は1mくらい。

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ライトを照射してみると、斜め右下方向に坑道は続いているようでした。
入り口の雰囲気とは裏腹に結構長そうです。
間口が狭いので、ここから先に体を潜り込ませるのは大変。
下には土砂や腐葉土が厚く堆積しています。

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ここの近くに露天掘り跡もありました。

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山菜採りの誘惑を押しのけ、時に藪こぎをしながら道なき道を進みます。
ところどころ、このような人工的な地形が現れるようになりました。
そして、これまた予期せぬ光景が目に飛び込んできました。

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なんと、墓石です。
江戸時代~明治初期のものでしょう。かなり古そうです。
マンニモ山の北西、標高384m付近。

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南無妙法蓮華経と刻まれています。
背面は摩耗していて判読できませんでした。

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周囲はなだらかな地形となっており、ここに飯場があったと考えて良さそうです。
大毎金山の資料は極めて乏しく、その限られた文献を読む限りにおいてはどこにも飯場があったなどとは書かれておりません。
なんか、鬼の首を取ったような、誇らしげな気分に一瞬なりました。

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改めて周辺を物色してみると、左斜め上の斜面に露天掘り跡。
過去2回の調査と総合して考え合わせると、マンニモ山の北西斜面は江戸時代~明治にかけて探鉱され、南東斜面は大正~昭和30年代?頃に探鉱されたのではないかと思います。
雰囲気が両者では全然違うからです、それぞれ一つずつ見つかった坑口や、複数の露天掘り跡の雰囲気を比較すると。
今回も、十貫山周辺ではなんの遺構~坑口や露天掘り跡~を見つけることはできませんでした。
「日本の金銀山遺跡」萩原三雄著によると、”十貫山”の主たる鉱脈は安山岩の割れ目に満たされた含金石英脈や粘土脈でウンヌンと書いてあるのですが、山腹に出てくる安山岩も大きいものはなかったし、ごく小規模な露天掘りで稼行していたとしか考えられません。
一方、マンニモ山周辺では大きな岩場がたくさん出てきますし、露天掘り跡も幾つも見られます。
坑口も南南西斜面で3つ、北斜面で1つ見つけました。
従って、あくまで大毎金山の主鉱床は、マンニモ山の山腹(標高380~430m付近)にあったのではないかと推察します。

※2020/09/27追記:
上記の墓石は、落盤事故の犠牲者のものであることがわかりました。
ここに集落があったわけではありません。
大規模な落盤事故だったようで、地元の伝説にもなっているほど。
ここに訂正させていただきます。






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大毎金山、再び [鉱物 (村上市・大毎金山)]

4月10日に引き続き、27日、大毎金山(村上市)へ行ってきました。
今回はマンニモ山~十貫山の西斜面を歩き回ってみました。

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こちら側の斜面には、おそらく昭和30年代まで現役だったであろう段々畑(もしくはミニ棚田)があり、そこに朽ちた小屋がありました。
ヒトの生活の匂いがまだ僅かに残っています。

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金子沢を渡渉していよいよ西斜面に取り付きます。
基本的に杉林なのですが、ヤブは薄く見通しはいいです。
標高差で10mも登ると、大きな岩が連続して現れました。

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奇岩のオンパレード。
これは凄い。
当然のことながら坑口への期待が高まります。
しかし、周辺には露天掘りの跡でさえ見当たりません。残念。

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斜面を北東にやや下りながらトラバースしていくと、テラス状の人工的な地形が現れ、かすかな踏み跡が現れました。
その踏み跡を辿っていくと、写真の坑口に出ました。

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ただ、近寄ってみると奥行きは浅く、露天掘り跡といった方が正しいのかも。
これは坑口内部の写真です。

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10m離れたところにも露天掘り跡。
こちらも奥行きは浅く、1.5m弱しかない。

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人工的な凹み地形。
おそらくはマンニモ山中腹をぐるりと一周するように踏み跡は続いているのだろうけど、時間の関係で探索は1時間半で終了。
GPSの軌跡を見ると、まだ総面積の半分くらいしか見ていません。
本当にまだまだ坑口は残っているのだろうか?
最後に、大毎金山の地質について「日本の金銀山遺跡」高志書院~から引用します。
「周りの岩石は石英安山岩(金・銀などを胚胎する)。主たる鉱脈は安山岩の割れ目に満たされた含金石英脈や粘土脈で、脈幅は0.15~0.6mmという・・・」

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大毎金山へ [鉱物 (村上市・大毎金山)]

今年2月、新潟県立図書館でとても興味深い本に出会いました。
それは「日本の金銀山遺跡」萩原三雄著です。
県北の金山や鉱山に関しては、度々当ブログで言及しているHP”ミックンのつぶやき”と、ブログ”サルナシの掘り掘り日記”が詳しいです。
それらのサイトで紹介されている参考書として、”金銀山史の研究”や”日本金山誌”などが挙げられるのですが、残念ながらどちらも国立国会図書館のデジタルコレクションに収録されていないため、また現時点では古本屋にも在庫がないため入手不可能。
ぼくもまだ読んでいません。
「日本の金銀山遺跡」は出版年が2013年と新しく、内容も充実しているため、この本に出会ってから一気に県北の金山や鉱山に対する関心が強まったのです。
そこにきて、つい先日新たに”羽越地域の花崗岩類と鉱化作用”(地質調査所月報・第34巻第1号)を入手。
これは全16pの論文なのですが、地質に関するマニアックな記述は別にしても、大泉・葡萄・大毎・大沢・岩船・鍋倉・塩野町・鷺沢・能化山・鼠ヶ関などの鉱山鉱床について詳述されており、この論文にしか書かれていないことも多く、とても参考になりました。

さて、大毎金山ですが、地質や歴史についてはサルナシさんのブログが最も詳しく、かつ的確にまとめられているのでそちらを一読されることをお勧めします。
サルナシさんのブログのサブタイトルは~越後黄金山の砂金を訪ねて~。
そう、地質のスペシャリストでもある同氏がライフワークとして取り組んでいる対象が新潟県北部の金山なので、気合の入り方が違うのです。
大毎金山について簡単に言うと、江戸時代初期には既に稼行していたらしく、大正年間に閉山するまで長い歴史を誇る金山です。
しかし、県北では鳴海金山の知名度は高いものの、その影に隠れてか、それ以外の鉱山は世間的には全く無名。
大毎金山の位置は「日本の金銀山遺跡」に詳しく記してあるので、正確な場所を知りたい方はこの本をご一読されてみてください。
サルナシ氏のHPでも書かれているように、鉱山遺構はマンニモ山と十貫山にかけて分布しています。
「日本の金銀山遺跡」によると、25~30mの奥行きを持つ多数の坑道があるとのことなので、探検意欲をそそられます。
標高400m地点にあるのですが、そろそろ道路の雪も溶けただろうと、4月9日初めて大毎金山を訪れました。

まず、道路の雪は完全には溶けていなかったです。
十貫山を過ぎるとすぐに道路が10~20cmの残雪で覆われており、そこで行き止まり。
ぎりぎり金山の入り口までは車で行けたので支障はなかったですが・・・
「日本の金銀山遺跡」では、金山の位置がマンニモ山の北西斜面に丸印で記されているのですが、反対側の南東斜面に鉱山道と思わしき寂れた林道が目に止まったので、まずその林道を歩いてみました。

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すると、おお、遺構がどんどん出てきます。
大正年間に操業を終えたことになっていますが、戦後も再開していたみたいですね。
かなり機械が新しいです。

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鉱山につきものの、写真のような窪地(専門用語でなんというのか知らない)もあちこちに見られ、大体6つはあったと思います。
そして、350~400mくらい歩いたところで、いかにも坑口が潜んでいそうな地形に出会いました。

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それがここ。
林道から数メートル斜面を上ったところから写しています。
ここには3つの坑口が写っています。
間口が最も広いのは左端の坑口。
斜度もそこが一番ゆるく、といっても結構急でしたが、真ん中と右端の坑口は左側から斜面をトラバースしてアプローチできるだろうと判断。
まずは左端の坑口へ。

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雪解け直後なのか、たっぷり水分を含んだ地面はとても滑りやすく、なにげにいやらしい地形で、やっとの思いで写真を撮りました。

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身体を潜り込ませようとすると泥だらけになるので、腕だけ伸ばして撮影。
実はヘッドライトを車の中へ置いてきたので、坑口の奥行きや深さはよく確認していません。
写真を見ると左右に広いですが、正面の奥行きはなさそう。
そして、右側手前は水没しています。
右側はさらに奥がありそうな気配でしたが・・・

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真ん中の坑口が最も雰囲気的に長さがありそうだったので是非覗いてみたかったのですが、5本の倒木がただでさえ狭い足場を塞いでおり、あと少しのところで足が踏み出せません。
補助ロープも持ってきていなかったし、ここで撤収。

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これは林道終点近くの斜面で見つけた露天掘り跡。

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その内部。
手前側に多数のズリ。
林道の総延長は450~470mほどでした。
最近何度か足を運んだ弥彦山の沢に比べたら、シダ類が多いため林の中の見通しはいいです。
道のない斜面を歩くのも、滑りやすいのには閉口しましたがそれほど苦にはなりません(スパイク付きの長靴がいいかも)。
時間の関係で、マンニモ山の南東斜面のみの探索に終わりましたが、十貫山のすぐ北に、やはり鉱山道と思しき小道を見つけたので、今度はそこからアプローチしてみたいです。
名前を上げた参考図書?によると、全部で8つの鉱脈があり、7個の坑道が残っているらしい。
鉱物的には、砂金以外では黄鉄鉱、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、方解石、石英、アンケライトなどが採れたとのこと。
尚、マンニモ山の頂上には鉄塔が建っており、監視用の小道がマンニモ山の痩せ尾根沿いに伸びています。
途中まで歩いたけど、視界も広くとても歩きやすかった。
山頂には古い露天掘りの跡が残っているみたいなので(そのときは知らなかった)、距離も短いですし、この次行くことがあったら山頂まで往復してみたいと思っています。

※2020/09/27追記:
林道沿いに放置されていた機械は、林業用のものである可能性が高いことがわかりました。
文献によると大毎金山は大正2年に休山したことになっていますが、それ以降稼働を再開したことを匂わせる資料はありません。なので、大正時代の閉山と考えるのが自然です。








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