SSブログ
旧市街(新発田市) ブログトップ

かつてそこに生活があった [旧市街(新発田市)]

本来なら新発田祭りの最終日である29日以降も、夕方になると旧市街を歩き回っていました。
残念ながら天候が不順で、15分間隔で雨が降ったり止んだりの繰り返しの日も。
それはそれで晩夏らしくてよかったのですが。
2014年に隅から隅まで新発田の旧市街を探索しましたが、この6年間の間にやはりというか、かなり様変わりしていました。
確実に空き地が増え、前回訪れた時は明かりが灯っていた古い家が空き家になっていたり・・・
それでも、やっぱり旧市街の散策はいいものです。
自分の原点に立ち還るような感覚を得ることができ、この町への感謝の念が沸き起こってきます。
ありがとう、名もなき路地裏よ・・・

IMG_4493.jpg

IMG_4499.jpg

大正~昭和32年にかけて遊郭が置かれていた旧三宜町周辺(御幸町2~3丁目)には、車が通れない狭い路地がそこかしこにあります。
それらを訪ねて歩くのも楽しいものです。

IMG_4519.jpg

ここは40年前のまんま。
この路地の先には家庭裁判所の裏庭(=テニスコート)があったのです。
その裏庭はぼくの縄張り?で、前庭同様、友人たちと毎日のように野球をしたり、木登りをしたりして遊びました。

IMG_4543.jpg

大栄町の一角。
傾きかけている2階部分。

IMG_4563.jpg

大野屋商店裏の路地。
トンボの看板がまだあり、うれしくなりました。

IMG_4558.jpg

その近くに花園を発見。
6年前の探索では存在しなかったお花畑。
素晴らしい!

IMG_4578.jpg

御幸町のとある路地。
今回はじめて発見。

IMG_4579.jpg

おっかなびっくり進んでみます。

IMG_4582.JPG

さらに奥へ。
いや~、ドキドキした~。
突き当りを右へ曲がると、この廃屋の裏まで行くことができたけど、そこで行き止まりでした。

IMG_4587.jpg

再び大栄町の裏通り。
前方にちらっと見えるのは新発田市役所。

IMG_4594.JPG

大栄町1丁目の商店街のメインストリート。
30年前の面影は全くなく、日没時を過ぎ、薄暗くなっても人家に明かりが灯ることはない。
左手一番奥に田上家商店があり、その手前隣に昔は吉井衣料品店がありました。
小学2年のときによく遊んだ友達の一人に吉井くんという人がいるのですが、彼がこの吉井衣料品店の店主のお孫さんで、ぼくは一度だけ吉井くんと一緒に吉井衣料品店へ遊びに行ったことがあります。
吉井くんはのちに中学校の先生になったと風の噂に聞きましたが、元気かなあ。
昔の住宅地図を見ると、田上家商店から和田雑穀店の間に、さらに吉井衣料品店、飯島縫製、ケーキのアンデルセン、小林衣料、松井商店が連なっていたのです。

IMG_4597.jpg

大栄町1丁目のメインストリート沿いにいつしか生まれた空き地から、市役所方面を望むの図。

IMG_4620.jpg

ラストは我が家の斜め迎えにあった新発田カトリック教会。
我が家は新しい道路敷設に伴い撤去されたので既にないのですが、カトリック教会は今でもそこにあります。
昔から関係者以外の人間の敷地内の出入りに関しては鷹揚ではなく、聖母幼稚園のグランドへ遊びに行く際、近道だった教会の敷地をよく横断したものですが、牧師さんに見つかるといつも怒られました。
今も周囲は鉄柵で囲まれており、自由に立ち入ることはできません。
なので、個人的にはこの教会に対して少し複雑な思いを抱いているのです。




nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

三宜町遊郭を偲ぶ [旧市街(新発田市)]

おもしろき こともなき世を おもしろく
すみなすものは 心なりけり
(高杉晋作 辞世の句)

28日も前日に引き続き、新発田の遊郭跡地をさまよい歩いてきました。
旭町遊郭は明治37年の大火で壊滅し、その後当時は野原だった伊勢堂地内(現・御幸町2丁目)が集団移転の候補地として挙げられたのです。
しかし、近隣の地主の多くが土地の提供を拒んだため事業は難航。
そんななか、伊勢堂地内で最大の土地所有者であった中村平吉氏が必要な面積33,400平方メートルを買収し、業者には新しい土地の購入に際し、購入資金の月賦返済を認めたのでした。
三宜町遊郭誕生の最大の功労者・中村平吉氏のお墓が中村家の菩提寺である福勝寺にあるのですが、大正15年建立の墓碑の碑文に、当時の貸座敷業者19名の連名が刻まれています。

IMG_4425.jpg

福勝寺は我が家の菩提寺でもあるので、墓参りついでにくだんの墓碑を先日探してみました。
正門をくぐってすぐ右側にその墓碑はありました。
予想以上に大きく、立派なものでした。

IMG_4428.jpg

右側に回り込むと、碑文が刻まれている壁面を見ることができます。
ぼくが昨日の記事を書くにあたり参照した、松田時次氏の「新発田の廓を語る」という小文に碑文の全文が書かれてていますが、ここでは省略(実際はかなり摩耗しており、判別不能の文字が多い)。
貸座敷業者の名称が下の方に書かれており、それはこの写真からも判別できると思います。
左下から”花菱楼、群亀楼、遊亀楼、山田楼、市川楼・・・”と書かれてあります。

2014年1月10日のブログ記事にも詳述しましたが、今回改めて図書館で資料を漁り、見落としている点がないかチェックしました。
大正2年10月に作成された三宜町朱印全図がやはり現存する唯一の見取り図なのですが、かなりデフォルメされているせいで現在の住宅地図にうまく合致しないのが、当時(2014年1月)記事を書くにあたり最も気になった点でした。
それを解決するには大正~昭和30年代前半までの間に作成された市街図を入手する必要があるのですが、今回も新発田歴史図書館の職員さんの手をお借りしたにも関わらず、新たな地図を発見することはできませんでした。
そこで、前回も使った”新発田町是”(大正6年刊)の附図をもとに、もう一度注意深く両方の地図を重ね合わせてみたのが次の図です。

IMG_4451.jpg

どうしてもうまく重ならないので、三宜町朱印全図は脇に掲載しました。
ベースとなっている地図は上が北ですが、三宜町朱印全図の向きをそれに合わせると大幅に道路の角度に違いが生じるのです。
さらにこれに現代の市街図を重ねてみると・・・

shibata_map_mix.jpg

意外や、”新発田町是”の附図上部に記載されている、東西に伸びている2本の幹線道路とそこから南西に伸びている、三宜町へと通じる道路が現代版市街図とまあまあ合致しました。
これならなんとなく地形の変遷がわかりますね。
幾つか明確なチェックポイントがあり、ひとつは池が2つあったこと。
大きな方の池が、弁天池もしくはひょうたん池と呼ばれていたらしいのです。
それが五叉路の交差点の近くにあったこと、を近所に住む知人のひいおばあちゃんが証言しています。
もうひとつ、次に掲げる古写真左側に写っている盆栽仕立ての松が現在も同じ場所にあり、その松の位置を定めることで地図の他の場所の位置関係も相対的に類推できるのです。

IMG_4452p.jpg

IMG_4370.JPG

2014年にも写しましたが、こちらはおととい撮ったばかりの最新画像。
そして、昨夜再度出没、古写真を撮った場所と同じと思わしき場所を推定し、そこから改めて写してみました。

IMG_4456.jpg

地図を重ね合わせてみてわかったのですが、戦後新たに作られたバイパス道路より、気持ち南西側に三宜町遊郭街のメインストリートは位置していたようです。

IMG_4434.jpg

別な角度から、往時の三宜町遊郭を偲ぶの図。
萬福さんのあたりから中央やや右側奥にかけて、池が縦に2つ連続していたようです。
上の写真左側の道幅の広い道路上に遊郭の建物は立っていたのではないでしょうか。
ぼくが今立っている場所は、おそらく曙があった辺りかと。左隣に招月、細い路地をはさみ、その奥に常磐、初音、若松と妓楼が連なっていたのです。

IMG_4459.jpg

正面左奥の鉄塔は、東北電力変電所の施設の一部です。
例の"新発田町是”(大正6年刊)の附図を見ると、当時既に変電所があったことがわかります。
小型車がぎりぎり通ることのできるこの狭い道は、おそらく大正時代かそれ以前からあったのではないでしょうか。
この道はゆるく右にカーブしており、曲がり切ったところが弁天池前。

IMG_4479.jpg

さて、上の写真の小道を反対方向へ進むと、ほどなく石佛神社(=稲荷神社)に出ます。
境内右に中世の頃に作られたと思わしき石仏が多数安置されており、そのうちの4体は天明年間(1780年代)由来のものとされていることから、古い歴史を持つ神社であることがわかります。
旧里山讃歌で、石仏神社の写真を撮ったのは2014年9月30日でした。
当時の記事を読み返していて気づいたのですが、路地に立っていた何軒もの古い建物が撤去され、空き地になっていることに気づきました。
変電所の敷地内にあった盆栽仕立ての松の木も数年前に枯れてしまったし、連綿と続いてきた人々の生活の気配がこの地から急速に失われつつあるようです。
それが大いに寂しくもあり・・・


遊郭の情緒、及び小ネタ(山田勝太郎氏の回想より)

※大門の両側に角燈がついていた。各楼の店頭にも六角形の天燈が立っていた。
このランプは夕方になると点き、深夜12時半に消灯した。

※旭町遊郭の頃の娼妓は「おやす」、「おきく」などと本名で呼んでいたが、三宜町時代になるとだんだん芸名(=源氏名)を使うようになってきた。

※娼妓の出身地は中蒲原方面が最も多かった。亀田、酒屋、袋津、早通などの貧農の子女が多く、北蒲原では中条の紫橋とか長浦(現豊栄市)の大月など、それに中蒲原(現豊浦町)の切梅、荒町、紫雲寺の小川、東蒲原の綱木、新屋が主だったという。

※なじみ客は、同じ店の別の妓は絶対に買うことができなかった。

※大部屋の貸座敷業者は、多くの娼妓の他に2~3人の芸者を個人で養成し、雇っていた。
5~6歳の小さい頃から三味線、横笛、太鼓、鼓を仕込まれ、お座敷一本で芸を売る、いわゆる”くるわ芸者”として自他共に誇っていた。町の宴会にも出張することがあり、町芸者とは一線を画し、一座の指導役を努めた。

※毎年8月12~13日になると、日没時から「ドンドン、ドドン、ドンドドン」と遊郭踊りに合わせる太鼓の音があたりに響き渡り、それが聞こえてくると近郷の若者たちは心がうきうきしてくるのを押さえられなかった。
そして夜が更けると、ねじり鉢巻や浴衣着流しの者から、腰にてぬぐい、鳥打帽の者など、町外れの三宜町にぞくぞく集まってくる。
廓の中ではどの座敷の門前も紅灯を競って映え、中央のひょうたん池の周囲は角灯やぼんぼりが松の緑を水面に映して、若者たちの気持ちを一層駆り立てた。
いつも禁足令の籠の鳥(娼妓のこと)も入念に化粧をし、艶を競って馴染みの客や野次馬客と池のまわりをにぎやかに、夜の更けるのも忘れて踊り狂った。
こうして20日頃までの1週間、廓の夜は千客万来の賑やかさで明け暮れるのであった。

参考文献:
「新発田の廓を語る」~松田時次








nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

旭町遊郭跡をさまよう [旧市街(新発田市)]

本来なら今月27~29日まで新発田まつりだけど、今年はナッシング。
27日夜、それでも賑わいの片鱗を求めて、足は諏訪神社へ向かう・・・

IMG_4319a.jpg

各町内からの台輪もない。
これは寂しい。
こんなときは人肌が恋しくなるもの。
自然とこのあと、足は旭町遊郭跡(諏訪町3丁目)へと向かうのでありました。

IMG_4422p1.jpg

2017年10月10~11日のブログで新発田に2箇所あった遊郭を取り上げているのだけれど、今回当時(明治30年代なかば)の各遊郭の配置図を現在の市街図にあてはめ、新たに作成してみました。
簡単に旭町遊郭の歴史を説明します。
近代公娼制度の成立は、明治5年(1872)のいわゆる芸娼妓解放令が端緒となったとされていますが、新発田においては少なくとも明治8年頃には居酒屋、茶店、すすり白玉屋などが旭町で営業していたようです。
明治12~13年になると店も増え、私娼の類もあちこちに出没するようになったので当局による取り締まりが行われました。
その際勾留された”新玉楼”の当主・坂井太郎吉氏は、同志をつのって公娼が必要なことを訴え、正式な許可を乞うたのです。
明治4年、陸軍東京鎮台歩兵第8番大隊を新発田城内新築兵舎に迎え入れたのを皮切りに、明治7年には歩兵第3連隊題大隊が、明治17年には歩兵第16連隊が設置され、若い兵隊さんの数が激増していました。
そういった事情も鑑み、当局は旭町を朱印地としての公娼制度を許可したのです。
ここは幕末から調馬場(馬の調教訓練を行った場所)として使われていた場所で、走馬路をそのまま道路にし、17戸の貸座敷業者が軒を連ねました。
明治37年6月3日、不幸にも新高楼から出火。
火は瞬く間に燃え広がり、翫月楼(がんげつろう)・山田楼・群亀楼を残して他は全焼。
上鉄砲町の50数戸と合わせると70余戸が焼失してしまったのです。
その後は、もともと旭町は住宅街であり、住宅街の一角に遊郭があるのはよろしくないと考える人が多く、当時は田んぼと野原だった伊勢堂地内(現在の御幸町2丁目)に集団移転しました。

新しい遊郭は三宜町遊郭を名乗りましたが、こちらは遊郭の中心にあった弁天池が幹線道路建設に伴い埋め立てられ、どの道路は限りなく直線道路として設計されたため周辺の路地も多くが消失し、現在の地形から往時を偲ぶことはできません。
ところが旭町は幕末以来まったくその区画が変わっておらず、ぼくが作成した地図をご覧になるとわかるように、明治時代の配置図をそのまま当てはめることができるのです。
これは奇跡と言えましょう。
昨年から改装工事のため休館してはおりますが、明治37年の火災後、花菱が市内のある屋敷を移築し、しばらくの間営業を続けたという石泉荘が一般公開されています。
石泉荘を含む旧旭町は清水園の南に位置し、歩いても5~6分。
清水園へ来る機会があったら、ついでにここにも足を伸ばしてみてください。

IMG_4330.jpg

今、岩名風呂跡を背に立っています。
右側には東京亭、宮城亭と計5つの遊郭が軒を連ね、左側にはみどり屋、舞鶴、花菱がありました。
石泉荘の入り口は当時の花菱の入り口にあたり、右側はしばた川にかかる小さな橋まで古い塀が続くのですが、通りの右側の佇まいは限りなく当時の面影を留めていると思います。
ちなみに、新高楼とえび屋が立っていたところは現在は駐車場になっています。
火元であった新高楼の立っていた場所は、ひょっとしたら今に至るまで建物はないままだったのかも。

IMG_4403.jpg

真後ろは新高楼があった辺り。
正面の小道を境に、左側に花菱(現・石泉荘)、右側に若月が立っていました。


IMG_4332.jpg

右がえび屋、左に新王(もしくは新王楼)が立っていた通りの入口に来ました。
通りの左側には当時と同じく、計5軒の家が立ち並んでいます。
右側は通りの奥に山田楼があったのですが、現在も山田楼が立っていた場所に家があるだけで、それ以外は空き地のままです。

IMG_4344.jpg

新王があった場所には、現在三峰教会の建物が立っています。
建物の作りはほとんど〇〇そのままなので、往時を偲ぶことができます。

IMG_4374.jpg

新王をすぎると、しばた川が流れています。
かつては水面に、新王楼~翫月楼に至る5軒の遊郭の照明がちらちらと映えていたことでしょう。

IMG_4379.jpg

橋から引き返し、えび屋と新王楼の間の小道を進んでいきます。
古地図には庭園と記されていますが、東側半分に今は建物が立っているものの、広場の西側半分は荒れ地のまま。
この写真は石塀の真ん中あたりで写したものですが、ひょっとしたら明治時代と同じ風景を目にしているのかもしれません。

IMG_4382.jpg

右手の建物が立っている場所に、かつては山田楼があったはず。
その奥に白っぽい建物が見えますが、あそこは群亀楼があった場所です。
今日の夜の散策はここまで。

IMG_5329.JPG

数年前に写した石泉荘の離れ座敷です。
明治37年6月の大火後、花菱は市内からこの建物を移築させ、旭町で営業を再開しました。
しかしながら前述したように、郊外の三宜町に集団移転した新しい遊郭街にはとうてい叶わず、ほどなく花菱も旭町に見切りをつけ、三宜町へ進出したのでした。
花菱から所有者は新津の製油業で財を成した石崎家に移り、現在に至っています。

※参考文献:
「新発田の廓を語る」~松田時次







nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
旧市街(新発田市) ブログトップ