広谷鉱山のすべて~稲村沢沿いの坑口群 [鉱物 (阿賀町・広谷鉱山)]
昨日の記事と重なるけど、大正時代に書かれた文献から今一度引用します(表現は現代風に訳しています)。
「主な鉱脈は天幸ヒ及び稲村ヒにありて、露頭付近における傾斜は5、60度なるも、下部に至るに従い急となる。
鉱脈は黄銅鉱及び石英であって、少量の黄鉄鉱を含む。一般に流紋岩中においては良好なれど、凝灰岩中においては小鉱脈に分岐する。その有り様は草倉銅山のそれに類似している。」
稲村沢は三番坑の先で蝉沢から分岐する沢で、蝉沢同様水はほとんど流れておりません。
傾斜は終始緩やかですが、中間部を過ぎるとこのようにダイナミックな渓相が展開します。
別な文献にも脈石は石英との記述があり、沢の転石にも石英がたくさんあって良さそうなものですが、全くといいほど見かけませんでした。
これは唯一見かけた石英。
緑がかっているのは珍しいので写真に収めました。
かなり上流に至ってようやく坑口出現。
ただしこれは奥行きが短く、狸掘りに類するものでした。
その近くでようやく本丸の坑口発見。
古い地質図によると稲村ヒは南北に伸びており、その長さも非常に長い。
主要なる2大鉱脈の1つだったという記述が頭をよぎります。
50度くらいの傾斜で落ち込んでいます。
文献の記述通りです。
左上の方に下っており、その先はかなり広い空間が拡がっている様子が肉眼では確認できました。
カメラではこの辺が限界です。
深い穴からは妖気が感じられました。
本当です。
念の為その先も70~80mほど歩いてみましたが、坑口はなさそうでした。
正面に大岩壁がそびえています。
地図によると、右の小ピークの標高が560m前後でしょうか。
ロッククライミングのゲレンデとして良さそうです。
「主な鉱脈は天幸ヒ及び稲村ヒにありて、露頭付近における傾斜は5、60度なるも、下部に至るに従い急となる。
鉱脈は黄銅鉱及び石英であって、少量の黄鉄鉱を含む。一般に流紋岩中においては良好なれど、凝灰岩中においては小鉱脈に分岐する。その有り様は草倉銅山のそれに類似している。」
稲村沢は三番坑の先で蝉沢から分岐する沢で、蝉沢同様水はほとんど流れておりません。
傾斜は終始緩やかですが、中間部を過ぎるとこのようにダイナミックな渓相が展開します。
別な文献にも脈石は石英との記述があり、沢の転石にも石英がたくさんあって良さそうなものですが、全くといいほど見かけませんでした。
これは唯一見かけた石英。
緑がかっているのは珍しいので写真に収めました。
かなり上流に至ってようやく坑口出現。
ただしこれは奥行きが短く、狸掘りに類するものでした。
その近くでようやく本丸の坑口発見。
古い地質図によると稲村ヒは南北に伸びており、その長さも非常に長い。
主要なる2大鉱脈の1つだったという記述が頭をよぎります。
50度くらいの傾斜で落ち込んでいます。
文献の記述通りです。
左上の方に下っており、その先はかなり広い空間が拡がっている様子が肉眼では確認できました。
カメラではこの辺が限界です。
深い穴からは妖気が感じられました。
本当です。
念の為その先も70~80mほど歩いてみましたが、坑口はなさそうでした。
正面に大岩壁がそびえています。
地図によると、右の小ピークの標高が560m前後でしょうか。
ロッククライミングのゲレンデとして良さそうです。
広谷鉱山のすべて~蝉沢沿いの坑口群 (b) [鉱物 (阿賀町・広谷鉱山)]
今回、蝉沢沿いを遡行したわけですが、河床から標高差で約30m上に位置すると思われる中ヒに該当する坑口は見つけておりません。
単純に、そこまで登る元気がなかったという・・・
中~上流部にかけての蝉沢。
やはり伏流水となっており、歩きやすいといえば歩きやすい。
このように直登できない滝も現れますが、なんとなく巻道が付いています。
そして、この沢で最大の坑口が右岸に現れました。
ぼくが持っている資料ではこの位置に岡坑と書かれた坑口があるのでそれだと思うのですが、他の資料では一番坑~三番坑と番号が振ってあり、これが何番坑にあたるのかはわかりません。
開口部は縦長で、ちょっと複雑な地形になっていました。
上に下にと様々な方向に坑道は伸びており、かなりの富鉱体に出会ったものと想像されます。
上の方まで脈を追って掘られていて、すごいスケール感!
上の写真では例外的に下の階層を写しています。
ある文献に、鉱脈中主要なるものは天幸ヒと稲村ヒ・・・とあるのですが、文字がかすれまくっている地質図には天幸ヒの文字が見当たりません。
となると、この坑口は天幸ヒに属するものではないかと思います。
単純に、そこまで登る元気がなかったという・・・
中~上流部にかけての蝉沢。
やはり伏流水となっており、歩きやすいといえば歩きやすい。
このように直登できない滝も現れますが、なんとなく巻道が付いています。
そして、この沢で最大の坑口が右岸に現れました。
ぼくが持っている資料ではこの位置に岡坑と書かれた坑口があるのでそれだと思うのですが、他の資料では一番坑~三番坑と番号が振ってあり、これが何番坑にあたるのかはわかりません。
開口部は縦長で、ちょっと複雑な地形になっていました。
上に下にと様々な方向に坑道は伸びており、かなりの富鉱体に出会ったものと想像されます。
上の方まで脈を追って掘られていて、すごいスケール感!
上の写真では例外的に下の階層を写しています。
ある文献に、鉱脈中主要なるものは天幸ヒと稲村ヒ・・・とあるのですが、文字がかすれまくっている地質図には天幸ヒの文字が見当たりません。
となると、この坑口は天幸ヒに属するものではないかと思います。
クレーン車でも使わないと、現代人にはこのような採掘は無理でしょう。
基本的に坑内の壁面には、採掘していた鉱種を連想させる鉱物は見当たらなかったです。
主に黄銅鉱を採掘してのですが、ここだけ珪孔雀石でしょうか、銅の二次鉱物がわずかに見られました。
広谷鉱山のすべて~蝉沢沿いの坑口群 (a) [鉱物 (阿賀町・広谷鉱山)]
昨年5月、広谷鉱山(阿賀町)について4本の記事をアップしましたが、特に4本目の記事で追っている鉱脈は広盛ヒのものであることがわかりました。
先月、文字はかすれて半分くらいしか読めないものの詳細な地質図を新たに入手。
それで一気に謎が解明し、2週間の間に3回調査に出向き、ほぼ全容を把握することができました。
もう一度簡単に沿革を述べます。
正確な起源は不詳なれど、明治6~7年頃に稼業を開始したと伝える文献が複数あります。
明治16年には古川市兵衛の所有するところとなり、本格に探鉱開始。
しかし明治時代末までに鉱脈のほとんどを掘り尽くし、大正3年休山。
大正5年再び稼業を開始し、昭和20年代までやっていたと言われています。
広谷鉱山の2大鉱脈は蝉沢と蛍沢に展開するものであり、各沢ごとに坑口をまとめてみました。
まずは蝉沢から。
蝉沢に属する鉱脈は次の通り。
前ヒ、中ヒ、奥ヒ、天幸ヒ、太吉ヒの5条。
蝉沢に入ってすぐ、よく見ると石垣が20m前後続いているのがわかりました。
一段高いところに坑口が現れました。
おそらく三番坑でしょう。
ある文献によると、全長が324mあるとのこと。
長いですね。
入ってすぐのところで崩落していますが、支保工はそれなりに太いです。
そこのすぐ上に別な坑口が控えていました。
でも奥行きは短く、試掘で終わったのかもしれません。
これらは前ヒを追っていた坑口群です。
蝉沢中流部。
水はほとんど流れていません。
大きな岩が累々と積み重なっており、しかしながら傾斜は緩いのでわりと歩きやすい。
これは蝉沢上流部左岸に位置する坑口で、太吉ヒを追って掘られました(もしくは稲村ヒの南端)。
内部は完全に崩落していますが、こちらにもひしゃげた支保工が何本も見えます。
先月、文字はかすれて半分くらいしか読めないものの詳細な地質図を新たに入手。
それで一気に謎が解明し、2週間の間に3回調査に出向き、ほぼ全容を把握することができました。
もう一度簡単に沿革を述べます。
正確な起源は不詳なれど、明治6~7年頃に稼業を開始したと伝える文献が複数あります。
明治16年には古川市兵衛の所有するところとなり、本格に探鉱開始。
しかし明治時代末までに鉱脈のほとんどを掘り尽くし、大正3年休山。
大正5年再び稼業を開始し、昭和20年代までやっていたと言われています。
広谷鉱山の2大鉱脈は蝉沢と蛍沢に展開するものであり、各沢ごとに坑口をまとめてみました。
まずは蝉沢から。
蝉沢に属する鉱脈は次の通り。
前ヒ、中ヒ、奥ヒ、天幸ヒ、太吉ヒの5条。
蝉沢に入ってすぐ、よく見ると石垣が20m前後続いているのがわかりました。
一段高いところに坑口が現れました。
おそらく三番坑でしょう。
ある文献によると、全長が324mあるとのこと。
長いですね。
入ってすぐのところで崩落していますが、支保工はそれなりに太いです。
そこのすぐ上に別な坑口が控えていました。
でも奥行きは短く、試掘で終わったのかもしれません。
これらは前ヒを追っていた坑口群です。
蝉沢中流部。
水はほとんど流れていません。
大きな岩が累々と積み重なっており、しかしながら傾斜は緩いのでわりと歩きやすい。
これは蝉沢上流部左岸に位置する坑口で、太吉ヒを追って掘られました(もしくは稲村ヒの南端)。
内部は完全に崩落していますが、こちらにもひしゃげた支保工が何本も見えます。
鹿瀬鉱山のすべて (5) [鉱物 (阿賀町・鹿瀬鉱山)]
鹿瀬鉱山のすべて (4) [鉱物 (阿賀町・鹿瀬鉱山)]
これから紹介する坑口群は、長盛ヒ・大正ヒ・新盛ヒのいずれかに属する坑口群です。
数が多いので、さらに2回に分けて掲載します。
これらの坑口群の発見に至ったのは、このズリからでした。
滞水していますが、その先には・・・
なんと、トロッコの木製レールが残っていました。
引立。
再び山中でズリを発見。
ズリを追って登ります。
とんでもない急斜面に坑口が現れました。
後ろにこれ以上引けないので、坑口の全体像は写せません。
ここを乗り越えないと先には行けないようです。
結構長い・・・
ここが引立でしょうか。
天井が高いです。
坑口を出たところ。
この先は踏み跡が途絶えていますが、ここまではピンポイントで急な岩場を縫うように踏み跡があったんです。
数が多いので、さらに2回に分けて掲載します。
これらの坑口群の発見に至ったのは、このズリからでした。
滞水していますが、その先には・・・
なんと、トロッコの木製レールが残っていました。
引立。
再び山中でズリを発見。
ズリを追って登ります。
とんでもない急斜面に坑口が現れました。
後ろにこれ以上引けないので、坑口の全体像は写せません。
ここを乗り越えないと先には行けないようです。
結構長い・・・
ここが引立でしょうか。
天井が高いです。
坑口を出たところ。
この先は踏み跡が途絶えていますが、ここまではピンポイントで急な岩場を縫うように踏み跡があったんです。
2024-05-13 10:13
鹿瀬鉱山のすべて (3) [鉱物 (阿賀町・鹿瀬鉱山)]
”本邦鉱業ノ趨勢”(大正7)からの抜粋です。
文章は現代語に訳してみました。
「5月から8月にかけて新たに通洞百八十尺(55m)を開墾し、鉱石や捨石の搬出に複胴式電気巻き上げ機の据付を計画。目下工事は進行中であり、大正7年4月竣工予定。」
鹿瀬鉱山で少なくとも10個以上の坑口を見つけてきましたが、唯一洋風の造りだったのがこの坑口。
レンガ造りの洒落た設計。
最下部にあり、これがくだんの文献に書かれている通洞ではないか、と睨んでいます。
内部は崩落していますが、右下にかろうじて15cmほどのスペースがあり、水がチョロチョロと流れています。
排水目的も兼ねていたのではないかと。
これが通洞坑であるなら、その先に上層階があるはず。
そして、通洞からの距離もおおむね50~70mの斜面に坑口が現れました。
入口は狭く、しばらくは危険なガレ場が続きます。
ここも5年後には入坑不可能になっているかも。
内部は立体的な構造で、あらゆる方向に採掘の手が及んでいます。
大正時代の職人芸が見られる地底空間。
鹿瀬鉱山、恐るべし。
坑道の隙間から下層階を写しました。
あれが通洞からの坑道でしょうか。
こちらは天井を写しています。
斜坑気味に下に伸びている坑道を辿って、通洞からの坑道に到達。
完全に水没していますが、坑木は太く長く、本来の坑道はかなり大きかったものと思われます。
別なルートを探して、最下層の坑道へ来てみました。
ここも30cmくらいしか隙間がなく、両手を伸ばしカメラだけを隙間に入れて写しています。
予想通り、通洞からの下層世界はかなりの規模であることがわかりました。
水深は80cm前後ありそう。
ちなみに、1枚目の通洞坑入口は前方左側奥になるはず。
今となっては確かめようもないですが。
文章は現代語に訳してみました。
「5月から8月にかけて新たに通洞百八十尺(55m)を開墾し、鉱石や捨石の搬出に複胴式電気巻き上げ機の据付を計画。目下工事は進行中であり、大正7年4月竣工予定。」
鹿瀬鉱山で少なくとも10個以上の坑口を見つけてきましたが、唯一洋風の造りだったのがこの坑口。
レンガ造りの洒落た設計。
最下部にあり、これがくだんの文献に書かれている通洞ではないか、と睨んでいます。
内部は崩落していますが、右下にかろうじて15cmほどのスペースがあり、水がチョロチョロと流れています。
排水目的も兼ねていたのではないかと。
これが通洞坑であるなら、その先に上層階があるはず。
そして、通洞からの距離もおおむね50~70mの斜面に坑口が現れました。
入口は狭く、しばらくは危険なガレ場が続きます。
ここも5年後には入坑不可能になっているかも。
内部は立体的な構造で、あらゆる方向に採掘の手が及んでいます。
大正時代の職人芸が見られる地底空間。
鹿瀬鉱山、恐るべし。
坑道の隙間から下層階を写しました。
あれが通洞からの坑道でしょうか。
こちらは天井を写しています。
斜坑気味に下に伸びている坑道を辿って、通洞からの坑道に到達。
完全に水没していますが、坑木は太く長く、本来の坑道はかなり大きかったものと思われます。
別なルートを探して、最下層の坑道へ来てみました。
ここも30cmくらいしか隙間がなく、両手を伸ばしカメラだけを隙間に入れて写しています。
予想通り、通洞からの下層世界はかなりの規模であることがわかりました。
水深は80cm前後ありそう。
ちなみに、1枚目の通洞坑入口は前方左側奥になるはず。
今となっては確かめようもないですが。
鹿瀬鉱山のすべて (2) [鉱物 (阿賀町・鹿瀬鉱山)]
下山坑下部の坑口。
入口はほとんど埋もれかけており、ひょっとしたらあと数年で完全に埋没してしまう可能性もあります。
坑内は縦横無尽に坑道が掘られており、支保工や坑木など、あちこちに多数散乱しています。
上部の坑道よりこちらの方が全体的に規模が一回り大きい。
こちらが下山1号坑なのでしょうか?
坑道にはトロッコ軌道の痕跡が残っています。
坑道は一直線というわけではなく、複雑に交差と分岐を繰り返します。
おそらくこれが主坑道なのだと思うけど、途中から斜坑となり、まだまだ続いているようでした。
とある分岐。
どちらの方向も崩落。
もしかすると正面の坑道の先に、一番上の坑口の途中から垣間見えた、下層レベルの坑道が待ち構えているのかもしれません。
立坑もありました。
中心部の広場の一部。
その広場の片隅に、幅1.5m四方のレンガ造りの建造物がありました。
レンガとレンガの間から銅の成分がにじみ出ていました。
坑内の複数箇所で青緑~緑~空色の銅の二次鉱物(孔雀石and珪孔雀石)が見られましたが、いずれも面積は小さく、数センチ程度。
ほとんど見るべき鉱物はなかったのですが、鉄錆に覆われているとはいえ、大きな水晶クラスターを見つけました。
かなり大きめの晶洞をたまたま見つけたのですが、その内側がびっしりと水晶に覆われていたのです。
それにしても鉄錆がひどい。
こういう産状ははじめて見ました。
鹿瀬鉱山のすべて (1) [鉱物 (阿賀町・鹿瀬鉱山)]
今年の春、4回に渡って調査した鹿瀬鉱山。
ほぼ全容が明らかになったので、数回に分けてレポートしたいと思います。
まずは沿革から。
開山は明治37年。
当初は美濃和鉱山と称していたが、大正2年に鹿瀬鉱山と改名。
銅の精鉱量は大正元年1.9t、大正2年36t、大正3年102t、大正4年207t。
正確な閉山時期は定かではありませんが、昭和2年までは銅の精鉱量のデータが有り、それによると昭和2年のそれは10t。
ピークは大正時代5~7年頃だっと見え、大正5年のそれは1532tとかなりの産量を誇っていました。
一方鉱業権者の変遷をみると、昭和14年に東京の高橋芳雄氏に鉱業権が移譲されているので、昭和初期まで稼行していたのは確かなようです。
大正5年の文献によると、主要な鉱脈は下山坑の1条だとあり、下山1号坑と2号坑を開発していた模様。
角神方面に向かって、長盛ヒ、大正ヒ、新盛ヒの3鉱脈を探鉱中であるとの記述が見られます。
4回の調査で、確かに角神方面にかけても幅広く、そして多くの坑口や狸掘り跡を確認しましたが、下山坑以外はそれぞれの鉱脈の範囲がわかりません。
なので、下山坑とそれ以外と2つに大別して紹介したいと思います。
まずは下山坑から。
今も残る選鉱場の廃墟。
隣接して大きな石垣が数段に分かれて残っています。
石垣と石垣の間には、それぞれこのような遺構が人知れず眠っています。
このガラス瓶も当時のもの(昭和初期?)でしょう。
一番上の坑口。
途中で下のレベルを垣間見ることのできる窓?が出現。
その先にも、左側に別な下層世界を覗ける展望スペース?が現れました。
ということは、この坑口より下にも坑口があるはず。
のちの調査でその坑口を発見することができました。
主坑道は途中で崩落。
ほぼ全容が明らかになったので、数回に分けてレポートしたいと思います。
まずは沿革から。
開山は明治37年。
当初は美濃和鉱山と称していたが、大正2年に鹿瀬鉱山と改名。
銅の精鉱量は大正元年1.9t、大正2年36t、大正3年102t、大正4年207t。
正確な閉山時期は定かではありませんが、昭和2年までは銅の精鉱量のデータが有り、それによると昭和2年のそれは10t。
ピークは大正時代5~7年頃だっと見え、大正5年のそれは1532tとかなりの産量を誇っていました。
一方鉱業権者の変遷をみると、昭和14年に東京の高橋芳雄氏に鉱業権が移譲されているので、昭和初期まで稼行していたのは確かなようです。
大正5年の文献によると、主要な鉱脈は下山坑の1条だとあり、下山1号坑と2号坑を開発していた模様。
角神方面に向かって、長盛ヒ、大正ヒ、新盛ヒの3鉱脈を探鉱中であるとの記述が見られます。
4回の調査で、確かに角神方面にかけても幅広く、そして多くの坑口や狸掘り跡を確認しましたが、下山坑以外はそれぞれの鉱脈の範囲がわかりません。
なので、下山坑とそれ以外と2つに大別して紹介したいと思います。
まずは下山坑から。
今も残る選鉱場の廃墟。
隣接して大きな石垣が数段に分かれて残っています。
石垣と石垣の間には、それぞれこのような遺構が人知れず眠っています。
このガラス瓶も当時のもの(昭和初期?)でしょう。
一番上の坑口。
途中で下のレベルを垣間見ることのできる窓?が出現。
その先にも、左側に別な下層世界を覗ける展望スペース?が現れました。
ということは、この坑口より下にも坑口があるはず。
のちの調査でその坑口を発見することができました。
主坑道は途中で崩落。
畑鉱山大盛坑 [鉱物 (関川村・畑鉱山)]
2022年11月に訪れたのを最後に、ご無沙汰していた畑鉱山(関川村)。
今年になって非常に貴重な同鉱山の地質図を入手、その時の調査で発見した大きな坑道が一号ヒ坑であることが判明しました。
今回入手した文献で出会う前までは、なぜあんな山奥に製錬所があったのかわからないままでしたが、この地質図を見て納得。
鉱山集落の外れに通洞坑がありますが、最も盛んに採掘されたのはこちら側ではなく、もっと東の方だったのです。
しかも、標高がかなり高い斜面に坑口が集中しており、全山ヤブに覆われつつある今となっては探索の敷居は高いものになってしまいました。
(※そっち側にある主要坑口:新盛坑、一番坑~四番坑、新坑など)
前回の記事で書いたように、畑鉱山周辺の山や沢ではあちこちでナンチャッテかぐや姫水晶を拾うことができるので、今回は石拾い目的で4月29日再訪。
そしたらなんと、一号ヒ坑よりさらに大きな坑口を偶然発見したのです。
あとで場所をくだんの地質図と照合してみたら、間違いなく大盛坑でした。
一号ヒ坑との位置関係も合致し、パズルのピースがハマりました。
入ってすぐ、右側の岩に”太生”と書かれていることに気づきました。
次の文字は読めないのですが、太生はたいしょうとも読めますから、=大正(大正時代の意)だと思うのです。
もしくは、大盛坑の本来の漢字は太生坑だった可能性もあります。
坑道の規格が大きいです。
分岐はそれほど多くはありませんが、それら枝坑道は落盤しているところが多かったものの、主坑道はなんだかんだとかなり歩くことができました。
こちらは立坑を覗いています。
例の地質図によると、この坑道は製錬所側の山まで伸びているのです。
思い切りアバウトですが、500~600mはありそう。
とはいえ、歩けた部分は80mくらいでしょうか。
その先は崩落が激しく、さすがにそれ以上は無理かなと思いましたが。
坑口を出て、本来の目的だった狭い谷間を探石活動。
おととし11月に訪れた時の印象とは裏腹に、それほど美麗な水晶は見当たらなかったです。
落ち葉がかなり堆積しており、あまり転石を見れなかったし。
おととしは豪雨の3ヶ月後だったから、それでフレッシュな露頭が見れたのかもしれない。
飯場とはかなり距離があるのに、古い茶碗のかけらを発見しました。
※2024/05/08追記:
”本邦鉱業ノ趨勢(大正7)”に畑鉱山の大盛坑についての記事がありました。
それによると、8月より大盛坑の探鉱を行ったら有望な鉱脈に出会ったので、40馬力エンジンを動力源とした削岩機を導入することにした、との由。
参考までに。
今年になって非常に貴重な同鉱山の地質図を入手、その時の調査で発見した大きな坑道が一号ヒ坑であることが判明しました。
今回入手した文献で出会う前までは、なぜあんな山奥に製錬所があったのかわからないままでしたが、この地質図を見て納得。
鉱山集落の外れに通洞坑がありますが、最も盛んに採掘されたのはこちら側ではなく、もっと東の方だったのです。
しかも、標高がかなり高い斜面に坑口が集中しており、全山ヤブに覆われつつある今となっては探索の敷居は高いものになってしまいました。
(※そっち側にある主要坑口:新盛坑、一番坑~四番坑、新坑など)
前回の記事で書いたように、畑鉱山周辺の山や沢ではあちこちでナンチャッテかぐや姫水晶を拾うことができるので、今回は石拾い目的で4月29日再訪。
そしたらなんと、一号ヒ坑よりさらに大きな坑口を偶然発見したのです。
あとで場所をくだんの地質図と照合してみたら、間違いなく大盛坑でした。
一号ヒ坑との位置関係も合致し、パズルのピースがハマりました。
入ってすぐ、右側の岩に”太生”と書かれていることに気づきました。
次の文字は読めないのですが、太生はたいしょうとも読めますから、=大正(大正時代の意)だと思うのです。
もしくは、大盛坑の本来の漢字は太生坑だった可能性もあります。
坑道の規格が大きいです。
分岐はそれほど多くはありませんが、それら枝坑道は落盤しているところが多かったものの、主坑道はなんだかんだとかなり歩くことができました。
こちらは立坑を覗いています。
例の地質図によると、この坑道は製錬所側の山まで伸びているのです。
思い切りアバウトですが、500~600mはありそう。
とはいえ、歩けた部分は80mくらいでしょうか。
その先は崩落が激しく、さすがにそれ以上は無理かなと思いましたが。
坑口を出て、本来の目的だった狭い谷間を探石活動。
おととし11月に訪れた時の印象とは裏腹に、それほど美麗な水晶は見当たらなかったです。
落ち葉がかなり堆積しており、あまり転石を見れなかったし。
おととしは豪雨の3ヶ月後だったから、それでフレッシュな露頭が見れたのかもしれない。
飯場とはかなり距離があるのに、古い茶碗のかけらを発見しました。
※2024/05/08追記:
”本邦鉱業ノ趨勢(大正7)”に畑鉱山の大盛坑についての記事がありました。
それによると、8月より大盛坑の探鉱を行ったら有望な鉱脈に出会ったので、40馬力エンジンを動力源とした削岩機を導入することにした、との由。
参考までに。
倉谷鉱山の通洞坑、他 (後篇) [鉱物 (阿賀町・倉谷鉱山)]
下部坑を出て、次なる目標の大切坑へ向かいました。
これが大変苦労しました。
鉱山道の踏み跡はどこにもなく、砂岩は急なゴルジュとなり、高巻きの連続。
灌木が密に生えており、展望も効きません。
高巻きの途中で写した、対岸の風景。
正面の広場に選鉱場が建っていたのです。
苦労が報われました。
この方角からだと、選鉱場跡の全容を拝むことができます。
驚くべきことに、かなり広範囲に渡り草木が生えていません。
来る時走ってきた林道がちらりと見えました。
水色の車がぼくの愛車です。
ちなみにこの林道、昨年の同時期に比べると、後半が一気に悪路と化していました。
この調子だと、2~3年後には通行できなくなるのでは?
やっと大切坑の前へ出ました。
このような赤茶色の排水は坑口から流れ出てきているもの。
しかも、その量が多いので坑口の規模の大きさも相当なものでしょう。
茶色の水の供給源はここ。
残念ながら完全に埋没しています。
念の為周辺の斜面も一通り探索したのですが、坑口はここにあったという結論に達しました。
大切坑直下のズリ。
そして、これが立坑中段。
ちょっと想像してものと違いましたが、場所的にはここで合っています。
実は立坑中段は注目していたんです。
日本金山誌に次のように書かれていたからです。
「・・・立坑中段坑ではAu 10~40g/tと金の随伴が認められ、中心部ではAu 112g/tと金の異常高を示し、金の特異な凝集が認められた。」
内部は完全崩落。
大正5~11年、及び昭和12~14年の生産量の表によるとAuの平均生産量は1~2gとなっており、「金・銅鉱床として注目に値する」という日本金山誌の記述を裏付けるものとなっています。
”東京鉱山監督局管内金属鉱山”の資料から引用します。
「・・・大正四年、天狗岩の露頭を発見してより始まる。(中略)天狗岩の露頭は長二十尺高五十尺にて、巾四尺位の内には輝銅鉱を含むものありたり。」
日本金山誌の記述によると、倉谷鉱山は大正五年(1916)久原鉱業㈱と田辺熊一との共同経営で始まり、その後は日本鉱業㈱が単独で開発した、との由。
そして、この岩峰がくだんの天狗岩なのです。
これが大変苦労しました。
鉱山道の踏み跡はどこにもなく、砂岩は急なゴルジュとなり、高巻きの連続。
灌木が密に生えており、展望も効きません。
高巻きの途中で写した、対岸の風景。
正面の広場に選鉱場が建っていたのです。
苦労が報われました。
この方角からだと、選鉱場跡の全容を拝むことができます。
驚くべきことに、かなり広範囲に渡り草木が生えていません。
来る時走ってきた林道がちらりと見えました。
水色の車がぼくの愛車です。
ちなみにこの林道、昨年の同時期に比べると、後半が一気に悪路と化していました。
この調子だと、2~3年後には通行できなくなるのでは?
やっと大切坑の前へ出ました。
このような赤茶色の排水は坑口から流れ出てきているもの。
しかも、その量が多いので坑口の規模の大きさも相当なものでしょう。
茶色の水の供給源はここ。
残念ながら完全に埋没しています。
念の為周辺の斜面も一通り探索したのですが、坑口はここにあったという結論に達しました。
大切坑直下のズリ。
そして、これが立坑中段。
ちょっと想像してものと違いましたが、場所的にはここで合っています。
実は立坑中段は注目していたんです。
日本金山誌に次のように書かれていたからです。
「・・・立坑中段坑ではAu 10~40g/tと金の随伴が認められ、中心部ではAu 112g/tと金の異常高を示し、金の特異な凝集が認められた。」
内部は完全崩落。
大正5~11年、及び昭和12~14年の生産量の表によるとAuの平均生産量は1~2gとなっており、「金・銅鉱床として注目に値する」という日本金山誌の記述を裏付けるものとなっています。
”東京鉱山監督局管内金属鉱山”の資料から引用します。
「・・・大正四年、天狗岩の露頭を発見してより始まる。(中略)天狗岩の露頭は長二十尺高五十尺にて、巾四尺位の内には輝銅鉱を含むものありたり。」
日本金山誌の記述によると、倉谷鉱山は大正五年(1916)久原鉱業㈱と田辺熊一との共同経営で始まり、その後は日本鉱業㈱が単独で開発した、との由。
そして、この岩峰がくだんの天狗岩なのです。