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二倉鉱山 [鉱物 (阿賀町・二倉鉱山)]

今年に入ってから、一般には知られていない超マイナー鉱山をあちこち訪ね歩いているけど、二倉鉱山(採487号)もそんな鉱山の一つ。
昭和26年に書かれたある文献に、沿革は不詳とあります。
なので、令和の今となっては知るよしもなく。
別な文献には、昔は山元で精錬を行っていたという記述がありますが、実地調査をしてみてその場所はなんとなくわかりました。
鉱種は黄銅鉱と黄鉄鉱。
地質ですが、第三紀層の凝灰岩、凝灰岩質頁岩・泥岩、及びこれらに挟まれる真珠岩と、これらを貫く流紋岩などの酸性火成岩類からなるそうです。
鉱床は浅熱水性鉱床で、鉱脈型銅鉱床とされています。
※高出鉱山と二倉鉱山は同じ鉱山です。

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国土地理院の地形図にも載っていない砂防堰堤が2つ現れ、面食らいました。
かなりの大高巻きを強いられ、一苦労。

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再び沢に降り立つと、ようやく渓流らしい渓相が展開します。
踏み跡はあったりなかったり。

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ここが直感的に製錬所があったのでは?と勘ぐった場所。

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いよいよ坑口が現れてもおかしくない区域に着くやいなや、沢の水が赤茶色に変化しました。
間違いありません。
この沢で採掘活動が行われていたようです。

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さらにひと登りすると、採掘区と思われる屏風岩(仮称)直下に出ました。
これはすごい・・・
右側に3つある坑口の中で最上部に位置するそれがあるはずなのですが、完全に埋没しているようでした。

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右隣の斜面も探してみました。
こちらには2つ目の坑口がありそうなのですが、やはりわかりませんでした。

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隣の谷も探索しましたが、やはり最初の屏風岩付近が一番怪しい。
そして、ここが埋没した坑口跡かもしれません。
最上部ではなく、上から二番目に位置する坑口の。












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日ノ出鉱山 [鉱物 (阿賀町・日ノ出鉱山)]

日之出鉱山が最初に文献に出てくるのは大正5年のこと。
本邦鉱業の趨勢(大正5)に、7月操業に着手し、もっぱら探鉱中である、書いてあります。
しかし、昭和27年に出された「新潟県鉱業の趨勢」には名前が載っておりません。
従っていつ頃閉山したのか定かではありませんが、昭和初期までは少なくとも稼業していたように思います。
大正5年の資料によると、鉱業権者は五泉の実業家である小出淳太氏。
氏は持倉鉱山を発展させた功労者としても知られています。
なので、それなりに資金が投入されたとは思いますが、隣接する日出谷鉱山同様、戦後までは持たなかったようです。
ちなみに、新潟県鉱業の趨勢(1952)に載っている、日出谷村の旧廃止金属鉱山一覧を挙げておきましょう。
日豊水鉛鉱山、当麻鉱山、大日ビール鉱山、日出谷鉱山(湯本氏の方)、日出谷鉱山(日新鉱業株式会社の方)。
他に、この時点でまだ稼業していた鉱山として、マンガンを採掘していた大豊鉱山があります。
このように、正確な沿革はよくわかっていない日ノ出鉱山ですが、坑口が控えているらしい場所を特定できたので探索してみました(調査日:4月13日)。

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標高はそれほどでもないのに、深山幽谷にいるかのような、ある意味牧歌的な風景がそこに拡がっていました。
ひと目で気に入りました。

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おそらくこの坑口は川前坑だと思うのですが、なんとトロッコが走っていたようで枕木の跡が残っていました。

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この鉱山の地質ですが、古生層及び第三紀層からなるそうです。
前者は粘板岩を母岩とし、後者は頁岩、砂岩、片岩、凝灰岩から成る。
この坑道に関しては頁岩が目立ったように思います。

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引立。
坑道の終点のことを引立(ひったて)と言います。
まだ掘り進んでいる坑道の場合には切羽(きりは)と呼びます。

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坑口の真上、標高差で7~8m上の斜面に小さな坑口がありました。
中を覗いてみると立坑でした。
さっきの坑道のどこかに繋がっているんでしょうね。

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最初の滝を越えてさらに遡行すると、鉄の構造物が河原に散乱していました。

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周囲を見渡すと、古い落石防止柵がずっと上の方まで続いています。
それの一部が崩れ落ちていたのです。
昭和20年代の建造物と判断しました。
尚、ここから標高差で150~200m上の尾根に深谷坑(=真弓坑)があるはずなのですが、今よりさらに傾斜が増すので沢沿いの遡行は不可能でしょう。
痩せ尾根にトレース可能な鉱山道が残っていない限り、そこへたどり着ける可能性はゼロに等しいと思います。

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灰鉄輝石です。
黄銅鉱と硫化鉄鉱を採掘していた鉱山ですが、随伴鉱物として灰鉄輝石、珪灰鉄鉱、柘榴石、方解石、石英の名が挙がっています。

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下越の他の地方では見たことのない、独特の質感の水晶。

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このような針水晶は普通に見られました。
ただし、サイズは小さいものばかりでしたが。









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宮川のチューリップ [チューリップ]

山菜採りの帰りに、久々に宮川(胎内市)のチューリップ畑を見に行ってきました。
カメラは、ホタル写真以外ではほとんど使うことがなくなったEOS RとEF 100mm F2.8L IS MACRO USMの組み合わせ。
それにしても作付面積が減りましたね。
チューリップの写真をアップする度に同じことをつぶやいている気がするけど。

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真正面に二王子岳が見えていたのだけど、ぼかしすぎて山並みが消えてしまいました。



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為田文太郎最期の地・古小屋鉱山 [鉱物 (五泉市・古小屋鉱山)]

旧川内村には明治~大正時代にかけて多くの鉱山がありました。
大正6年9月に書かれた文献には、次の鉱山が記されています。
「山本鉱山、小俣鉱山、富倉鉱山、有倉鉱山、丸子鉱山、白滝鉱山、大清水鉱山、旭鉱山、古小屋鉱山、慶石鉱山・・・etc」
しかし、大正9年3月から始まった経済恐慌で金属価格が暴落し、ほとんどの鉱山は閉山・休山の憂き目にあいます。
それぞれの鉱山の沿革などを調べていく過程で、ちょっと気になる鉱山が2つありました。
「多額の蛍石を産出した」という富倉鉱山と、為田文太郎が発破の事故で亡くなった古小屋鉱山です。
富倉鉱山は思い切り山奥だし、蛍石の露頭が明らかではなく、この鉱山の探索は現実的ではありません。
そこで古小屋鉱山なのですが、為田文太郎のことについて少し解説します。
この方は北アルプスの富山県側登山道を切り開いた先駆者として有名なのですが、当時日本有数の金鉱山だった鷲ノ巣鉱山、並びに足尾銅山を上回る銅の埋蔵量を誇った大黒鉱山を経営する実業家としての顔もありました。
その文太郎さんの最期ですが、同様に経営していた古小屋鉱山で火薬を調合中、引火事故で命を落とします。
明治45年6月30日のことでした。

(1)沿革
江戸時代の安政年間(1855~1860)、大字川内の山田清作が発見。
一時盛んに採掘したが、鉱脈が尽きたため天保12年(1841)廃坑となった。
※年代が矛盾していますが、文献の記述をそのまま引用しました。
出典:中蒲原郡誌村松町編(1986)
再び文献に出てくるのは明治31年、鉱業権者は桃井徳太郎(外一名)。
桃井氏たちは明治39年まで稼行していた模様。
その後、為田文太郎氏が事業を再開したのが明治43年。
為田氏が事故で亡くなってからは合資会社浅田銀行が鉱業権を引き継ぎ、大正11年まで稼行していたようです。

(2)鉱種
銅と砒鉱が主。
経営が浅田銀行に移ってからは、上記の他に銀、鉛、亜鉛が加わっています。

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道すがら、山の神を発見しました。
新しい御札が添えられていることから、今でも尊崇を集めているようです。

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仙見川の水面(みなも)。
ゴルジュ地帯が連続します。

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木の枝が邪魔なので判然としませんが、これも坑口でしょうか。
それとも露天掘り跡?

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かなり苦労して坑口群を発見しました。
右側に大きな露天掘り跡、左側には少なくとも3つ程坑口があるようです。
江戸時代のものか明治時代のものか微妙なところですが、水量が多く対岸へ渡ることができないため何とも言えません。
雪代水の落ち着く5月下旬以降、もう一度来てみたいと思います。

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右岸は無理なので、左岸側で坑口を探したら1つだけ見つけました。
対岸に見える坑口より一回り大きいので、こちらは明治時代の坑口でしょうか。

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結構長かったです。
特に枝坑道とかはなかったと思いますが。

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坑口を見下ろす位置にご神木発見。
ぼくが勝手にご神木呼ばわりしているだけですが、この木は坑夫さんたちの働きの一部始終を目撃してきたはず。
今度ゆっくり交信してみたいです。





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高倉鉱山 [鉱物 (村上市・高倉鉱山)]

高倉鉱山を見に行ってきました。
この鉱山の存在を知ったのは、村上市の図書館でたまたま見つけた郷土資料からです。
国会図書館のHPで検索しても出てこない貴重な情報が書いてありましたので、要約して抜粋します。

「この鉱山は銅や亜鉛が採掘され、明治40年代から大正の初め頃には製錬所もあった。しかし大正8年頃には賑わった採掘も細り、閉山となった。この頃の製錬所や飯場、事務所跡などは今でも跡地を確認することができる。
その後、15年を経て経営者も変わり再開された。従来とは違う場所に坑道を掘り、選鉱場や事務所、飯場も新たに設置した。坑道からはトロッコで鉱石が運び出され、これを選鉱場で片手ハンマーで手割りし、十三貫五百匁ずつ南京袋に詰め、背負って集落内の鉱石置き場まで運んだ。ここの銅は純度が高く、経営者を喜ばせ、時には桑川の丸一旅館で宴会を開いたこともあった。
運び出された鉱石は今川から桑川で船で運び、桑川から村上までは貨物列車で運ばれ、村上の製錬所で製錬された。」

昭和56年度広域調査報告書には、沿革として「明治43年頃まで稼行。その他不明。」の一言で片付けられているので、こういった地元の郷土資料は貴重です。
また別な資料(本邦鉱業の趨勢・昭和12年)には、もう少し詳しく沿革が書かれているので要約・引用します。

「昭和10年頃、東京の人が上部の銅鉱を採掘したが、下部に行くに従って鉛や亜鉛の割合が増え、質が低下したので休山した。昭和10年村上町の佐藤某が事業を再開、翌11年末、現鉱業権者に譲渡。昭和12年3月、試掘探鉱に着手した。」
とあり、その時の従業員数は65名だったそうです。

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林道が途中で崩落していました。
おそらく一昨年の豪雨のためでしょう。
豪雨の爪痕は鉱区に至るあちこちで見受けられました。

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石英塊です。
この鉱山では黄銅鉱と閃亜鉛鉱、少量の方鉛鉱を採掘しており、脈石は石英とあります。
そのためもあってか、鉱区に至る沢の転石はもちろん、ズリでもひたすら石英だらけでした。
ただし、自形の水晶は皆無でしたが。
図面に坑口が3つ描かれているのですが、一番下の坑口はもちろんのこと、2つ目の坑口もおそらく埋没しているのでしょう、その存在を確認することはできませんでした。

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ここは2つ目の坑口があったはずの斜面。
絵に書いたようなズリが拡がっており、無数の石英が散らばっています。

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一番上の坑口はおそらくここにあったと思います。
写真では伝わらないと思いますが、とても大きな坑口です。

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それでも上の方にわずかな隙間があり、内部の様子を垣間見ることができました。

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広い!
一番坑確定です。

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坑口のあった窪地を出て、見晴らしの利く岩場によじ登ると、なんと小さな谷間の向こうに穴が見えました。
地質図には載っていない坑口です。

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急峻な岩場の向こうにあるので行けるかどうか不安でしたが、幸いルートを発見することができました。
ピンポイントでちゃんと行けるようになっているのです。
鉱夫さんたちもこのルートで入坑したのだと思います。
これも大きな坑口です。

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ところが入ってすぐ、豪快に崩落していました。

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坑口前から、横断してきた沢の上流部を写してみました。
なんとなく右岸の上部にもう一つくらい坑口が潜んでいそうでしたが、時間切れ、スタミナ枯渇につき撤退。

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坑口近くで見かけた珪孔雀石と閃亜鉛鉱(黒い部分)。
普通の孔雀石(あくまでÇ級品です)も一個だけありました。
やはり良質の銅が採れていたというのは本当だったかもしれません。
銅を採掘していた鉱山は下越にもたくさんありますが、その多くは現地を訪れても採掘した鉱種を連想させる鉱物が全く見つからないケースが一般的ですから。












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2024年葡萄鉱山の今 (4) [鉱物 (村上市・葡萄鉱山)]

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念願の巻ノ沢第3坑を発見しました。
これはその近くの斜面。

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そして、最も標高の高い場所に開口していたと思われる第3坑を発見。

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ここは竪坑を封鎖した跡だと思いますが、定かではありません。

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坑内の特定の場所で、このような羽毛状の白い鉱物?を見かけました。
あとで専門家の方に写真を見せたら、硫酸塩鉱物の一種であるエプソマイトと思われると指摘されました。
化学的には硫酸マグネシウムと同一。
硫酸マグネシウムと言ったら、ぼくは入浴剤として2年前からエプソムソルトを愛用しているのですが、なんだ、あれのことかと知り、親近感が湧きました。

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また、ある場所の天井にこのような青~水色の部分が見られましたが、くだんの専門家の方によると右側の青いそれは青鉛鉱であるとのこと。
近くに鉛の元となった方鉛鉱があると思われます、との指摘を受けましたが、そこまでは調べませんでした。
中尾山の本坑エリアでは閃亜鉛鉱を主に採掘していましたが、巻ノ沢坑では主として方鉛鉱を採掘したのです。
ぼくももっと勉強しないといけません。

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第3坑からやや下の方で、巻ノ沢中切坑と思われる坑口を見つけました。
入口がほとんど埋没していますが、ライトで中を照らすと坑道が現れました。

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坑道の向かう先は、さっきの第3坑方面。
葡萄鉱山シリーズはとりあえずこれで完結です。




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中外笹川鉱山 [鉱物 (村上市・中外笹川鉱山)]

新潟県北部の葡萄山地には、笹川鉱山と称する鉱山が2つか3つあるようなのだけど、ここでは唯一素性の知れた鉱山である中外笹川鉱山を取り上げます。
日本会社史総覧(1954年)に㈱中外鉱業が載っており、それによると同社の設立は昭和7年。
金・銀・マンガン・鉛の採掘精錬、蝋石・銅・硫黄の採掘、並びにマンガンを原料とするフェロマンガンの製造を手掛けている会社。
資本金が4億円とありますから、立派な大企業ですね。
新潟県では村上市の村上製錬所と、この笹川鉱山を経営していたようです。
この鉱山に関してそれ以外は情報がなきに等しく、黄銅鉱や黄鉄鉱を採掘していたことぐらいしかわかりません。

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標高の低い里山地帯に位置しているせいもあってか、周辺は笹薮がひどい。
イバラも生い茂っているので、坑口を探すのはそれほど簡単ではありませんでした。

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坑道は二手に分かれていましたが、どちらも長くはなかったです。

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サンショウウオでしょうか。
少なくとも3匹はいた。
土足で踏み込んでいってスミマセン。

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坑口を出て上を見上げると、思ったよりこの岩場が大きいことを知りました。
標高差で15~20m上にも、ひょっとしたら坑口があるのかもしれません。
そんな地形が見えたのだけど、探索はまたの機会に持ち越しです。







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岩井堂鉱山で新たな坑口発見 [鉱物 (新発田市・岩井堂鉱山)]

先月入手した文献に、岩井堂鉱山(新発田市)について興味深いことが書いてありました。
それによると、坑口は3つあり、坑道の総延長は約60mあると。
露頭についての記述はぼくの調査結果と同じ事実を指し示しており、信頼できる内容であることは疑いありません。
であるならば、再三歩き回った岩井堂山ではあるけど、笹薮が深いエリアは完全に踏破していないところもあることから今月8日、再び現地へ足を運びました。

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山頂に立つ神社。
忘れもしない、小学2年生の時の春の遠足の目的地がここでした。
今では地元の子供はおろか、訪れる人はほとんどありません。
素敵な山なのに・・・

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普通坑口の周囲にはそこに至る踏み跡が残っているものですが、今回発見の坑口については既知の坑口より倍くらい大きな坑口だったにも関わらず、踏み跡らしい踏み跡はありませんでした。
坑口はここから10m先に控えていました。

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坑道は途中から一段低くなっています。
天井はそこそこ高く、四つん這いにならなくても進めました。

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坑道終点です。
なぜに古いタイヤが捨てられていました。
鉱山稼働時は岩井堂山の北東麓8合目あたりまで、軽トラが通行できるレベルの鉱山道が伸びており、現在でもそこは車では入っていけないけど、歩くことは可能。
しかし、鉱山道終点からここまではそれなりに距離も高低差もあり、なぜここにタイヤがあるのか全く理解不能、意味不明。

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黒鉱の露頭。
これで坑口を2つ発見したことになるけど、2つ合わせて総延長は約15mあるかないかなので、もう一つ、30m以上の長さを持つ坑道がないといけません。
そんなに長い坑道を持つ坑口がどこかに眠っているとは到底思えないのだけど、晩秋になったらもう一度探してみます。





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坑口という名の芸術・草倉銅山滑滝鉱区 (3) [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

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奥ヒを採掘していたのが、ここ冠一番坑。
滑滝鉱区の坑口群では、この坑口が最も大きく、風格がありました。

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坑口入口。
何もかも迫力満点。

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途中から立坑に近い斜坑となっており、すぐ行き止まりになりました。

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入ってすぐ坑道は二手に分かれるのですが、右の坑道を進むと今度は立坑の真下に出ます。
これは上を見上げて撮っています。
と、この風景を見た時ぴ~んと来ました。
草倉銅山滑滝坑のパイオニアであるM君がブログに次のように書いています。
「・・・当時の道を通らずに尾根道をまったりと歩いて獣道を強引に降りたら、危うく竪坑?に落ちる所でした。剣呑。奥ヒの延長かな?資料の地図と違う・・・予定地点よりかなり手前にあったので驚愕。」
そうです、確かにここは奥ヒの延長。
彼が落ちそうになったのはこの真上の辺りだったのでしょう。

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冠一番坑のすぐ左側にも坑口がありました。
水平坑道でしたが、15mくらいまでしか掘っていませんでした。

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不動沢の河原に目をやると、右岸の下の方にも坑口が・・・
これは疎水坑道かな?

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その上の斜面。
前ヒや滑滝本口をはじめとする多くの坑口があちこちに開口しています。

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鉱山道がどこまで伸びているか、確かめました。
滑滝を過ぎ、30mくらい進んだところで途切れていました。
別に橋がかかっていたわけではなく、元々こういう地形だったと思います。
沢を渡るとすぐ左岸に鉱山道は移り、その先は山神堂エリアを経て通洞坑まで続いているのです。
やる気と体力さえあれば、滑滝から草倉本坑エリアぐまでぐるりと一周することも可能。
ただし本当にヤブが非常にうるさい区間があるので、早春と晩秋限定ですが。






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坑口という名の芸術・草倉銅山滑滝鉱区 (2) [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

本ヒを採掘していたのが滑滝本口。

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圧巻の佇まい。
どこをどう切り取ったらいいか、わからない。
足をすべらせたら一巻の終わりなので、構図を考えるのも構えるのも全神経を使う。

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それにしても、どうやってあそこまでよじ登ってタガネをふるったのだろう?
軽業師でないと無理な所業。

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対岸にも多くの坑口が見えました。
地質図には第一坑道ひとつしか描かれてないけど、そんなものじゃないです。
これはそのうちの一つで、何やら鉄製の機械が写っています。
拡大します。

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なんだろう?

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かなり上の方に縦長の坑口。
そして視線をさらに上に泳がすと、また別な坑口が目に飛び込んできました。

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おお、これは品ヶ谷銅山の坑口に違いありません。
とんでもない場所にあるんだけど、どういうルートであそこまで鉱夫さんは出勤していたのだろう?

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後日、品ヶ谷銅山のものと思われる坑口を目指して強引に大川前第通洞側からアタックしたのだけど、全く歯が立たず撤退しました。
これはその時写した、角神不動滝”二の滝”。
ルートファインディングを誤り、かなり尾根の下の方に出てしまったのです。
ここは絶壁の中間部なので、もっと高いところを通過しないとならなかったのに。








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