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顕になってきた大沢鉱山の全容 (3) [鉱物 (村上市・大沢鉱山)]

坑口が4つ開口していた大岩壁から、標高差にして10m弱北へ下っていったら、いかにも坑口が現れてきそうな地形に出ました。
そして予想に違わず、大沢鉱山エリアで遭遇した中では最も間口が大きな坑口が出現。

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坑道は高さがあり、背を屈めなくても歩くことができました。
これはすごい・・・

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坑道は10~12m先で二手に分岐しており、こちらは左側の部屋。
そうです、どちらの坑道も進むとすぐに長方形のホールが現れたのです。
左側の方で約4X5m、右側の方はそれよりやや大きく約5X6mといった感じ。
天井はどちらのホールも高く、2.5~3mありました。
右側のこのホール、よく見ると中央に2m四方の、コンクリートの水槽のようなものがあります。
あちこちに支保工や坑木が散乱し、往時の熱気が伝わってきます。

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今度は右側のホールへ行ってみます。

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『金銀山史の研究』小菅徹也著(高士書院)に、「・・・益坑ヒの西部は一体に鉱染鉱床と称するより、むしろ細脈分岐結合せる網状鉱床にして、目下判明せる幅員は約100mにわたり、細脈中に20グラム乃至80グラム程度のもの各所に介在す」とあります。
網状鉱床で思い出したのですが、猿田川の支流沿いにあったと言われる三面鉱山はやはり金を採掘していた鉱山として日本金山誌に書かれています。
引用します。
「鉱床は主として粘板岩中の網状鉱床で、部分的には鉱層状を示す。(中略)千畳敷坑は網状鉱体で、掘り跡は20mX20mの大空洞を形成している。」
なので、この坑口の鉱体も網状鉱床であり、従って掘り跡は四角いホールのような大空間となったと考えられるのです。

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ホールの天井にはコウモリが群生していました。
まだお眠りのようです。

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『金銀山史の研究』によると、大沢金山(=大沢鉱山)の主坑は益坑ヒであると書かれています(昭和13年当時)。
また、昭和12年から18年まで稼業した㈱大沢金山鉱業の取締役兼鉱山長であった成井氏は、「当社稼行の当初は、高品位鉱石の抜掘乃至箱掘をなす半面、低品位鉱石は250ポンド5本建及び350ポンド5本建搗鉱機(とうこうき)2台を使用し、60メッシュの網目を通しネコ流し比重選鉱を行い、粗鉱と共に尾去沢鉱山に売鉱せしが・・・」と述べています。
すなわち、このホールではまさにネコ流しが動力を用いて行われていたのではないかと。
この坑口が益坑ヒであるかどうかは情報不足でなんとも言えないのですが、ぼくがGPS機器を使って作成した坑口マップによると、この坑口は東西に長い大沢鉱山の区域のほぼ中心に位置するのです。
個人的にはこれこそが益坑ヒではないかと思っていますが、どうでしょう?










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顕になってきた大沢鉱山の全容 (2) [鉱物 (村上市・大沢鉱山)]

大沢鉱山エリアで最も大きな露天掘り跡を発見したあとは、一気に柴倉山の三等三角点(330.7m)を目指しました。

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その途中で坑口発見。
内部は崩落しており、3~4m先で閉塞していました。

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そして、念願の柴倉山山頂へ到着。
9合目から上は踏み跡も途絶え、樹木が生い茂っていて視界も効かず、山登り的には面白みがなかったです。
しかし、なぜか山頂にはピンクのテープが枝にぶら下がっており、全く人が来ないわけではないようでした。
ここから、最初に来た時に発見した江戸~明治時代のものであろう坑口群は北東方向に位置します。
ということで、空白域だった北斜面を踏破すべく、ヤブの薄そうなところを選んで下降開始。
ヤブが薄くなり始めたのは8合目に差し掛かった時。
そして、早速待望の坑口が現れました。

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時系列は前後しますが、最初に現れた大岩壁。
ここに坑口が2つ眠っていました。

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これはそのうちの1個。

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4m先で崩落しているようです。
なかなか入っていけそうな坑口は出てきません。

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さらに下っていくと、とんでもない地形に遭遇。
これも次の坑口の写真と時系列的には前後するのですが、さらなる大岩壁の出現です。
ここに坑口が4個もありました。
ただし見た目以上に斜度はきつく、上の坑口から下へ降りるのにこの日初めて補助ロープを使いました。

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坑口から漂ってくる波動がずっしりと重いです。
とはいえ決してネガティブな感じはせず、いい意味で身の引き締まる思いがしたというか、大地の深部のエネルギーを直に感じました。

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この大岩壁最下部に位置する坑口。
この坑口が最も大きかったです。

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ところが、入ってすぐのところで天盤から2mくらいの大きな岩が落ちてきたのか坑道を半ば塞いでいました。
這いつくばれば侵入できますが、さすがに本能的に危険を感じたので無茶はせず。

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なんと、斜坑に近い構造の立坑でした。
奥の方は物理的に見えません。
これらは全て8合目付近に出たきた坑口群の一部です。
初回の探索時に見つけた坑口群は7合目に位置しており、距離的にもここから100m近く離れています。
つまり、この100mの区間は未だ未探索。
意外と斜面は起伏が多く、雪解け直後でもそれほど遠くまでは見渡せないので、とにかくピンポイントで歩いてみるしかないのです。
そいいう意味では、まだ若干探索してみたい斜面が残っています。
面積的にはまだ2/5が未体験ゾーンなのです。







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顕になってきた大沢鉱山の全容 (1) [鉱物 (村上市・大沢鉱山)]

まさか、これほどの規模とは・・・
またまた大沢鉱山(=大沢金山)へ探検しに行ってきたのだけど、予想以上の成果がありました。

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全てはここから始まります。
ここが最大の石垣であり、鉱山の正面玄関なのです。

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大沢鉱山の区域はかなり広く、このような平坦地が何箇所もあります。
その中ではここが最もズリが多い。
さっきの石垣から上へ上へと伸びている踏み跡を辿っていくと、この膨大なズリ斜面へ出ます。
左側斜面はゆるく下り勾配になっており、そこがおそらく最大のズリ斜面。
踏み跡はズリ斜面の右端の杉林との境目に付けられています。
改めて周辺の斜面を丹念に探したけど、ここでは坑口は見つけられませんでした。
これらの鉱石の供給源は、7~8合目に多数存在する新旧(古いものは江戸時代、新しいものは明治~大正時代、一部昭和12~18年に開口のものある)の坑口だと思われます。

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まだ足を踏み入れたことのない斜面を登っていったら、かなりはっきりした踏み跡に遭遇。
それがこれ。
左側から登ってきて、この写真中央で右側に折り返し、ジグザグに斜面を登っていきました。
どこへ導かれるかとワクワクしながら。

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なんと、途中坑口も現れました。
しかしこれは脇役であり、この踏み跡のゴール地点は別にありそうです。

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もう山の8合目を過ぎ、9合目に差し掛かろうという辺りで再び膨大なズリが現れました。
残雪もそこかしこに残っています。

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そして、広大な露天掘り跡に出たのです。
4月4日の記事に書いた露天掘り跡とは別な場所。
こちらの方がはるかに標高が高く、規模が大きい。
面積的には2.5~3倍くらいあるのでは?
実はこの後、大沢鉱山を代表する坑口である”益坑”を発見するのですが、これで初めて日本金山誌における記述「・・・大沢金山は益坑上部を露天掘りにより採掘し、日本産金振興㈱日頃市製錬所(岩手県)に売鉱した。」が腑に落ちました。
4月4日の場所も確かに露天掘り跡なのですが、あそこだと益坑上部とは言えないからです。
ここなら益坑より確かに上であり、地理的要件を満たします。

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本当に面積が広く、上部は標高300mに達するほど。
ここもどこかに坑口があってもおかしくないのですが、坑口は見つけることはできませんでした(それなりに怪しい地形は2~3箇所あったけど)。






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大沢鉱山、その後の発見 [鉱物 (村上市・大沢鉱山)]

つい先日、図書館で大沢鉱山(村上市)について書かれた新たな文献に出会いました。
小菅徹也「金銀山史の研究」(高志書院)がそれ。
大沢鉱山や、近くの大毎金山に関しては最も詳しく書かれていると思います。
一部引用します。
「目下判明せる鉱床にして稼行中のものは益坑ヒなり。益坑ヒは当地区の西部にある石英鉱脈の一号ヒを中心とし、周囲に多数の平行脈が集まり、この総幅員約三十乃至五十メートルに及び、一大鉱染鉱脈にして走向北三十度にし、傾斜六十五度西をもって当鉱山の三角点を横断し、走向の既知延長四百十メートルなり。目下主として三角点より北部を稼行中なれども、三角点より南部方面に無名の旧坑多数存在し、二グラム乃至六グラム程度の旧ズリ数万トンに及ぶ状況より推察し、往時盛んに稼行せられたものと思考せられる。・・・」

益坑ヒの名前は他の文献にも出てきます。
「金銀山史の研究」では、大沢金山について「大沢金山の主坑である益坑ヒはトン当たり二十~八十グラムの高品位のところもあったが、『日本鉱山誌』によれば、昭和十六年度の三千八百トンの出鉱量の品位はトン当たり金四.七グラム、銀七.三グラムとなっている。」
このように主坑であると述べられているので、益坑ヒを特定することが何より大事。
しかし、いくつかの矛盾点もあり、とにかく現地へ行き、少しでも多く斜面を駆けずり回る意外に方法はありません。
というわけで、21日改めて大沢鉱山を訪れた次第。

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鉱区と平行して伸びている林道より、下の谷間2箇所をまず探索。
途中鉱山のものと思わしき錆びたワイヤーが出てきたので周辺部を丹念に探すも、坑口は見つからず。
後でもっと上の方で、これと類似のワイヤーを見つけたのですが、やはり周辺にこのワイヤーの用途を匂わせる何かを見つけることはできませんでした。

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林道より下のレベルで何も見つからなければ、前回見つけた石垣から上部へ踏み跡がないか探し、もしあればそれを辿ってみる作戦でした。
そして、下の斜面からこの石垣へ向かって登っていくと、なんとまたまた石垣に遭遇。
規模も前回のそれとほぼ同じ。
石垣の摩耗度、風化度から判断すると、江戸時代のものだと思うのですがどうでしょう?
やはりというか、ここから上部斜面に向かってうっすらと踏み跡があり、それを辿っていくと前回の石垣へ出たのでした。
そこまでの区間もひたすら大きめのズリがごろごろしている斜面で、坑口がいつ現れてもおかしくなかったのですが、現れず。
ただし、周辺で埋没してしまったのかもしれない坑口跡を2箇所見つけましたが、確信度は20%にすぎません。

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石垣から東の方にうっすらと伸びている新たな道の痕跡を辿っていくと、右手に怪しい地形が見えてきたのでひと登り。
そして坑口発見!
なんと、3つの坑口が集まっています。
スケールが予想以上に大きく、まさに圧巻。
今まで見つけた中で、最も東に位置する坑口になります。

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まずは最も大きな、一番下の坑口へ入ってみました。
内部は複雑な構造で、それぞれの坑道は短いものの、手当たり次第掘ったという感じ。

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左側の坑道の終点(といっても全長3mくらいですが)。

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二段になっている中央上部の坑道奥。

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右側の坑道。
水没しているけど、ひょっとしたら立坑の可能性もあります。
坑口からちょっと入ったところからでは見通せない部分もあり、坑道の全容は掴めませんでした。

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一旦坑口を出て、今度は上部の坑口へ。
ところが、写真からはわかりませんが坑口の正面に立つことが物理的に厳しいので、側面から。

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左側はすぐ閉塞。
右側は奥があるように見えましたが、高さが低く、この先に進むのは匍匐前進必須です。

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こちらは右側の坑口。
狸掘り跡のように見えますが、なだれ込んでいる土砂が左側にあったであろう坑口を覆い隠してしまった可能性も捨てきれません。
益坑跡はわからなかったけど、前回見つけた石垣奥がやはり怪しい。
あそこだと”南部方面に無名の旧坑多数存在し・・・”という金銀山史の研究で述べられている特徴と一致しますから。
この文献で書かれている”三角点”とは柴倉山の三等三角点を指すのではなく、前後の文脈からすると、どうも複数走っている鉱脈の中心を指しているように思うのです。
次回行くことがあれば、まだ探索したことのない柴倉山九合目まで登ってみたいです。










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大沢鉱山水没坑道の奥へ [鉱物 (村上市・大沢鉱山)]

慶長二年(1597)から正保二年(1645)の間に開坑されたと言われる大沢鉱山。
坑口は柴倉山の北斜面に分布しているけど、日本金山誌における同鉱山の位置を示す地図だと場所が西へかなりズレて表示されているのです。
(地質NAVIにおける地質図に鉱床を表記させてみると、もっと誤差が多くなる。大沢鉱山は川を挟んで対岸に表示されるのだから。元地図が20万分の1なのでしょうがないけど。)
日本金山誌の地図はいい加減なものが多いのですが、念のためその辺りの斜面も探索すべく、11日現地へ向かいました。

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前回廃林道脇で見つけた標柱によると、この林道の全長は4.6kmなのですが、起点と終点は明記されていないので不明。
今回最初に探索した、柴倉山山頂から直線距離で西北630~650mの斜面の取り付きにも、その古い林道が山肌を縫うように標高150m付近の斜面に伸びていたのです。
途中崩落したり、ヤブが濃かったりであと10年もしたら歩けなくなりそうな雰囲気でしたが、その林道から明神川支流に入り、急斜面を詰めたところで見つけた地形です。
落ち葉に埋もれていますが、落ち葉の下には残雪が埋もれています。
巨大な雪渓。
ちょうどこの辺りが日本金山誌で丸印が付けられた辺りだし、雰囲気的にも真正面の岩壁下部には雪渓の下に坑口が埋もれていそう。
こっち方面の斜面の探索はこれで切り上げ、次は前回見つけた大きな坑口より西側の斜面の探索に向かいました。

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等高線の間隔が緩やかな斜面に来ると、いろいろらしい地形が現れ始めます。
この窪地は明らかに人工地形。
赤茶色のレンガらしきものも見られます。

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その近くでかなり大きな石垣発見。

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石垣の左側の風景です。
おそらく坑口が埋没しているものと思われますが、定かではありません。
ここから標高240~250mの辺りをトラバースしながら、前回見つけた大きな坑口へと向かいました。
くだんの坑口のさらに上部、標高285mまで登りましたが、2箇所ほど埋もれてしまったのかもしれない坑口(確信は持てない)を見つけただけで、新たな発見はありませんでした。

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この日のもう一つの目標は、冠水している2本の坑道を奥まで歩いてみること。
坑口を入ってすぐ、坑道は3方向に分岐しており、中央の坑道と右側の坑道が途中から水没というと大袈裟だけど冠水しているので、そこを突っ切っていく予定。

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まずは中央の坑道へ。
水深はそれほど深くはなく、最大で15cmくらいだったでしょうか。
また、水量そのものも前回来たときよりわずかに減っていたように思います。

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全長は40mくらいでしょうか。
最奥部手前のカーブに坑木が何本か散乱していました。

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そして終点。
方角的にはこの先に左側の坑道が出会うはずで、ひょっとしたら本来はつながっていた可能性もあります。

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いったん入り口まで戻り、次は左側の坑道を進みます。
こちらは最大水深23~25cmありました。
しかし冠水している箇所はここまでで、この先は普通に歩けました。

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途中から左にカーブし、やがて終点。
黒いつぶつぶはコウモリの糞です。
全長約50m。
センターの坑道もそうだったように、途中テラス状に掘られた横穴がありました。
地質はどこも同じで、基本的には粘土質石英脈。
あと大沢鉱山エリアで未探索なのは、柴倉山のピーク直下の9合目から8合目にかけての斜面だけとなりました。
(山腹をトラバースしている廃林道より下の斜面は、まだ全く歩いておりませんが。)





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驚愕の大沢鉱山 (2) 近代の坑口発見 [鉱物 (村上市・大沢鉱山)]

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間口の大きさと奥行きは比例せず、このように短いものが大半でした。

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昨日の記事の坑口群とこれらの坑口はプラスマイナス20mの標高差の間に集中していたのですが、後述するようにここから約200m離れた斜面(標高はほぼ同じ)では3つの坑口を発見。
うち一つは坑道の総延長が少なくとも100m以上あり、昭和10年代に採掘された坑道ではないかと感じました。
大沢鉱山は”大沢金山鉱業株式会社”と”帝国鉱業株式会社”の2つの会社が別な鉱区で稼業したいたらしいので、200m離れた場所でそれぞれ坑口が集中していることを考え合わせると納得できます。

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一旦江戸時代エリア?の斜面から下の平坦な林に降り(行きで使った林道よりは上の斜面)、急斜面の取り付き部を横目でにらみながら西方向へとトラバース。
断続的にズリが現れ、ヤブも薄いことから採掘範囲は結構広範囲だったことが伺えます。
そして、上の写真の広場が現れました。
直感的に、これは飯場跡だと思いました。

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このあたりから再び上へ上へと登っていくと、久々に坑口出現。
間口は特に大きいということはないのですが、中へ入ってみるとそれまでのどの坑口より広さがありました。

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なんと、入ってすぐ坑道は3方向に分岐していたのです。
こちらは右側の坑道。

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こちらは真ん中の坑道。

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こちらは左側の坑道。
いずれの坑道も横幅や高さは酷似しており、左側の坑道以外は途中から15~20cmほど冠水しているのが共通点。

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冠水していない左側の坑道を歩いてみました。
ここが終点なのですが、ここまで約50mもありました。
日本金山誌に書いてあるように、粘土質石英脈を追って掘り進んだのでしょう。

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こちらは真ん中の坑道奥。
なんとなく行き止まりのようにも見えますが、カメラを構えている場所から30mくらいの距離があるので、行ってみないとわからないです。

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こちらは右側の坑道奥。
2m先から冠水しており、水深がかなり深そうなのでこちらも入り口から写真を撮るだけ。
坑道は左側へカーブしており、まだまだ続いていそうな雰囲気。

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部分的に支保工も残っていました。
日本金山誌には1号坑から11号坑までの存在が謳われており、さらには排水坑と新坑についても触れているのです。
一番長いのは1号坑でヒ押180m、2号坑は延長100mあるとのこと。
1号坑と7号坑は同じ鉱脈を稼行しており、同様に2号坑と11号坑も同じ鉱脈を稼行している。
また、1号坑には坑内に立坑がある。
日本金山誌からの記述をまとめるとこんな感じになるのですが、果たしてこの坑口は何号坑に当たるのでしょうか?
日本金山誌の当該ページには昭和16~17年にかけての、大沢鉱山の生産量を記した表が乗っているので、日本金山誌における大沢鉱山について書かれた文章は閉山間際の近代の様相を示していると考えられます。
江戸時代に栄えた金山のイメージが強い大沢鉱山ですが、実証するデータは少ないものの、昭和に入ってからの一時期隆盛を極めた鉱山だったようです。

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最初に訪れた江戸時代の坑口が集中している斜面と違い、こちらの斜面の坑口は近代の坑道の雰囲気が漂っています。
その周辺で別な2つの坑口(どちらも小さかったけど)を見つけたのですが、そろそろタイムアップだったので下山開始。
そして、この露天掘り跡に出くわしました。
日本金山誌からの抜粋です。
「・・・大沢金山は益坑上部を露天掘りにより採掘し、日本産金振興㈱日頃市製錬所(岩手県)に売鉱した。」
これがその露天掘り跡なのでしょうか?

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斜面の下には大量のズリ鉱石が散乱しており、その奥の谷間にはまだ残雪がありました。
この残雪の下にも坑口がありそうな雰囲気なので、2週間くらいしたらもう一度来てみたい。
日本金山誌に書かれている1号坑から11号坑までの坑口群は、江戸時代の坑口がたくさん見られた斜面ではなく、こちら側の斜面に存在するのではないかと考えています。
3方向に分岐する坑道を有する坑口の探検で時間を食ってしまったので、こちら側(西側)の斜面はほんのわずかしか歩いておりません。
また、日本金山誌に大沢金山跡を記した簡単な地図が載っているのですが、それによるともう一つ西側の尾根沿いにあることになります。
ただ、日本金山誌の、鉱山跡を記した地図は間違いが多いことで有名なので信憑性は低いですが、隣の尾根も探索してみる価値はありそうです。

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全体的に樹木に覆われており、道路から双眼鏡で覗いても坑口は一切視認できません。
登ってみると、坑口が集中している斜面はヤブが薄くて見通しがよく、ズリも広範囲に分布しており、驚きの連続でした。






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驚愕の大沢鉱山 (1) 江戸時代の坑口群 [鉱物 (村上市・大沢鉱山)]

旧山北町(現・村上市)に江戸時代に開坑され、昭和18年まで続いた金山がありました。
大沢金山もしくは大沢鉱山と言います。
ネットで調べてみた限りにおいては、この鉱山の坑口を実際に訪れたのは「ミックンのつぶやき」のサイト主・ミックンただ一人。
歴史や変革についても詳しく書かれており、ご一読をお勧めします。
もう一人、「サルナシの掘り掘り日記」のサルナシ氏も砂金の専門家だけあって詳しく背景が述べられており、とても参考になります。
これらのHP以外では、「日本金山誌」が唯一の情報源でしょうか。
1940年に編纂されたものですが、日本金山誌は今となってはほぼ入手不可能ですから、その場合は国立国会図書館とタイアップしている図書館へ出向き、「大沢鉱山 東京鉱山監督局管内金属鉱山 59-60 小山一郎(1940)」を国立国会図書館デジタルライブラリーから探してみるといいでしょう。
日本金山誌の文章はこれの引用だからです。
4月2日、初めてこの鉱山を訪れたのですが、現地で発見に継ぐ発見であっという間に時間がたってしまい、歩き回れなかった斜面が多々あります。
まだ多少残雪もあったので、あと2週間くらいしたら再訪したいなと考えている次第。

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柴倉山(330.9)の麓までは何度も来たことがあるのですが、大きな沢を挟んでいるため、雪代水の出ている今はできれば渡渉したくありません。
それに長い歴史を有する鉱山なので、鉱山道の名残が山中に残っているかもと、まずは踏み跡がどこかに残っていないかを探しました。
沢にかかる橋を渡ったところで、なんと古い林道が尾根に向かって伸びているのを発見。
その林道はヤブに埋もれていた標識によると、平成4~6年度に作られたもので、全長4.6kmあるらしい。
結局この林道は、もともとあった鉱山道をトレースして造成されたものだと思います。
山の中腹の緩斜面に広大なズリがあると複数の文献やサイトで読んだわけですが、ズリがあると睨んだ場所に向かって林道は伸びていたので、思ったより楽にアプローチできました。

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そして、いよいよ核心部の直下に差し掛かったかなと思った瞬間、大きな石垣が目に飛び込んできました。
左側にも同様に石垣が残っており、ここに何らかの施設があったことは確実ですし、この上部に坑口が控えている可能性が大きいです。
しかし、まずはこの林道がどこまで伸びているか(全長4.6kmはかなり距離が長いですから)の目星を付けたいと思ったので、もう少し林道を歩いてみました。
柴倉山の北斜面から東斜面に向かって、5合目あたりをほとんどアップダウンなく林道は伸びていました。
坑口はもっと上の方にあるはずなので途中から林道を外れ、いざ急斜面の直登開始。

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すぐに広大なズリが現れました。
ちょっと上の方には岩場も見えてきました。
そして、これらの岩場に坑口が密集していたのです。

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坑口はたくさん見つけたので、主なものだけ掲載します。

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内部はほとんどの坑道が3m前後しかなく、江戸時代の坑道だと考えると腑に落ちました。

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坑口は本当にあっちにもこっちにもあり、岩場の多い急斜面を10~20m単位で登ったり降りたり。
かなり体力を消耗しました。
さて、こちらは立坑でした。

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足場が悪く、奥の方をカメラに収めるため、かなり危険な体制で撮影。

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たくさんの土砂が流れ込んでいるようでしたが、それでも迫力十分。
ここは本当に足がすくみました。

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坑口はどれも入り口の表情が同じような感じなので、どれがどこにあったかはもう記憶にありません。

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天井が低い坑道がほとんどだったけど、どこも土砂の流入がそれなりに見られたので、本来はもっと天井が高かったのだろうと思います。

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大沢鉱山付近には草水・小川型花崗岩が広く分布しており、柴倉山の9合目から上は安山岩溶岩。
日本金山誌による記述では、鉱床は花崗岩中の含金銀石英脈であり、広く母岩一体に鉱染した鉱染状の鉱床ということです。
あとで取り上げる露天掘り跡や、ズリ及び坑道内で見かける鉱石はワンパターンで、上の写真の石がその典型。
じっくりズリや坑道の壁面の鉱物を観察する余裕がなかったので、突っ込んだことは言えないのですが、花崗岩は巨晶花崗岩っぽいものもかなり見られたので、ペグマタイト由来の鉱物も探せば見つかるのでは?と思っています。








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