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五十母川最終堰堤へ [鉱物 (阿賀町・持倉鉱山)]

12月11日、9日に引き続いて持倉鉱山事務所跡を目指しました。
ただし、前回と違って今回は昼間の活動。
そして、目的は五十母川の最終堰堤までの旧道の状態を確かめること。
それに付随して、事務所跡から先、何回五十母川を渡渉しないといけないのか、渡渉する場合の水深は?などを調査すること。

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何度来ても、この場所へ来ると身が引き締まります。
どう切り取ったらいいかわからない。
まだ満足の行く写真を撮った試しがありません。

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今回の秘密兵器「かっぱの足」。
トレッキングシューズの上に重ね履きできるレインブーツです。
高さは39cmあり、これより上に水が来なければいいのですが。
ビニール製なので耐久性も心配。

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最終堰堤までは計6回渡渉しました。
これはマストです。
そして、最も水深が深かったのがココ。
事務所跡を過ぎ、一番始めに現れる渡渉地点が最も敷居が高かったです。
左の岩場沿いを行くと股下まで水が来るでしょう。
ぼくは斜めに浅そうな瀬を選んで渡ったのですが、膝まで水が来ました。
流れも早く、沢歩きに慣れていない人はここで詰まるかも。
雪代水の落ち着く5月中旬になれば或いは左の岩場沿いを遡行できるかもしれませんが、5月以降はヤマビルのシーズンに突入するので、そこがネックです。

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事務所跡を過ぎてから、およそ1時間でこの最終堰堤へ着きます。
最初の渡渉以外はスネまでの浅瀬を渡ることができたので、特に困難は感じませんでした。
鉱山道の名残もここまではきちんと残っているので(ただし、ヤブは深い)、道に迷うことはないでしょう。

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最終堰堤直下の河原です。
ここからさらに1.5時間ほど歩くと、持倉鉱山の本坑エリアに着きます。
来春そこへ行くつもりなので、下見を兼ねてここまで来てみたのですが、高低差が少ないためここまではそれほど疲労もありませんでした。
午後1時までずっと小雨模様だったので出発が遅くなり、現地での蛍石探しはできませんでしたが、この河原なんて良さそうですね。
問題はここから先です。
ここから15~20分歩いた辺りから右岸に再び鉱山道が現れるはずなので、そこから鉱山道を歩きます(最終堰堤でいったん鉱山道は途切れます)。
その先、鉱山道が完全に消失している箇所があるので、そこをどう乗り越えていくかが問題なのです。
さて”かっぱの足”ですが、どうもファスナーの防水が甘く、そこから水が侵入します。
実は今日も別な鉱山の坑道内で試してみたのですが、水深15cm以下のところしか歩かなかったけど、あっというう間に水が入ってきました。
といってもほんの1cmくらいなので、トレッキングシューズの内側に染み込むことはなかったのですが、やはりこの製品はおもちゃですね。
長所としましては、意外と耐久性がありました。
この時と今日と合わせて3時間位着用しましたが、どこも破けておりません。
ネットで類似の商品を調べてみると結構出てきます。
そのうち、ファスナー部分の防水がしっかりしていそうな製品を見つけました。
しかもその製品はXXLサイズまでラインナップしているし、高さが42cmと今回使った”かっぱの足”より3cm高いのでより実用度は高そう。
1480円と値段もまあまあなので早速ポチりました。
試すのは来春になると思いますが、その前にお風呂でテストしてみます。




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五十母川に異変あり [鉱物 (阿賀町・持倉鉱山)]

17日夕方、持倉鉱山事務所の廃墟をバックに星景写真を撮るべく現地へ向かいました。
ところが県道17号線に出たところで通行止め。
なんと、橋の付け根の所で道路が半分くらい陥没しているのでした。
これは復旧工事に時間がかかりそう。
間違いなく年越しですね。
そろそろ蛍石探しに、来週中に最終堰堤まで行こうと計画していたのですが肩透かし。
一応20分ほど歩いてから河原へ降り、1時間ほどUVライト片手に蛍石を探したのですが、7月の大雨の時に発生したのか、大量の土砂が左岸に流れ込んでおり、広範囲に渡って土砂が30cmくらい堆積していました。
土砂は安山岩や凝灰岩が主。
もちろん蛍石などあろうはずもなく。

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上流でも多かれ少なかれ土砂の流入はあっただろうから、河原での蛍石探し、難しくなりそうです。
通行止めの地点(チェーンで施錠されています)から歩くと、持倉鉱山事務所跡まで30分余分に歩かないといけません。
合計50分も見ておけば大丈夫なのですが、生々しい土砂の流入を目の当たりにし、意気消沈してしまったので早々に次の目的に向かったのでした・・・




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かつてここに小学校があった・・・ [鉱物 (阿賀町・持倉鉱山)]

これから紹介する写真は、HP「ミックンのつぶやき」の”亜鉛電気精錬(株)跡”という記事にアップされている写真と一部重なります。
ここへ行こうと思った動機は決して亜鉛電気精錬の廃墟を見たかったわけではなく、隣接していた尋常小学校分教場の名残があるかどうかを確かめるためでした。
ぼくが入手した地図には、分教場のあった場所が記載されており、それによると本山地区とここ亜鉛電気精錬のあった広場にそれぞれ建っていたことがわかります。
それ以外の資料でも、分教場は2箇所にあったことが書かれており、それらの資料を目にした瞬間から、持倉鉱山の坑口以上にその地を訪れてみたいと思ってきました。
場所は林道終点と事務所跡の廃墟が残っている場所との中間地点。

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事務所跡や、川を挟んで対岸にある製錬所(亜鉛電気精錬の製錬所とは別です)の写真はネットで無数に見られますが、亜鉛電気精錬の廃墟の写真は”ミックンのつぶやき”にアップされているそれがオンリーワン。
4月28日、満を持してこの地を訪れたのだけど、予想以上に広範囲に遺構が散らばっており、石垣の規模もかなり大きなものでした。
ぼくが入手した地図によると、亜鉛電気精錬の建物があったのは川に近い側で、そこからやや下手に小学校が建っていたようです(実際に現地を歩いてみた感じでは、山の神の北側にあったのではと思っています)。
ただし、非常にアバウトな地図なので、それがどのくらい正確なのかは判断材料がありません。
カラミレンガで出来た建物の部分的な遺構は、先に述べたように広範囲に分布していたので、ひょっとしたら小学校の建物もカラミレンガで作られていた可能性もあります。

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持倉鉱山が閉山してから植林されたであろう杉林の中には、踏み跡が幾重にも残っていました。
山際の方には道の痕跡も。
昔は持倉川左岸に道路があり、事務所跡の手前に架かっていた橋を渡って右岸に建っていた事務所へ到達したのです。
今はこの少し上流に大きな砂防堰堤があり、その堰堤でこの旧道は分断されていますが。

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ここに集落があったとなれば、人々の心の拠り所となった神社の祠も残っているはず。
ミックンのHPの内容はこの時点ではあまり細部の記憶がなく、実はそこにも山の神の写真が掲載されていることを知ったのは帰宅後でした。
先般訪れた水谷銀山の集落跡地もそうでしたが、ここも山の神に通じる明瞭な小道が残っていました。
境内入り口に立つ祠のひとつは、ミックンが倒れていたものを元に戻して整備したものなのです。
彼に心から敬意を表します。

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裏にはこう刻まれていました。
左右どちらの祠にも同じ名前が刻まれていましたが、どちらも等しく風化が進んでおり、完全には判読不能。

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小高い丘のどんづまりに鎮座しています。
ナムナム・・・

「本山には鉱夫及びその家族たちが住む飯場があり、集落を形成していた。食糧や坑木などは、山道を鉱夫たちが背負って運んだ。また、製錬所は、製錬の際に出る鉱滓(カラミ)を固めたレンガで造られ、その周りにも事務所や職員・鉱夫たちの住宅などが十五、六棟は建てられ、”金山(カナヤマ)”と称した集落を形成していた。最盛期には従業員数二百五十名ほどが働き、これらの集落には四、五十人の子どもたちが学ぶ小学校も、本山と製錬所と二校設置された。」
(”東蒲原郡史 通史編2 近現代”より抜粋)

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五十母川各支流の正式名称 [鉱物 (阿賀町・持倉鉱山)]

最近、持倉鉱山(阿賀町)の鉱山関係者が作成した複数の貴重な資料を入手しました。
それらを解析&解読していて気づいた点を列挙します。

①国土地理院の1/2.5万地形図に記載のない、ほとんどすべての沢に名前が付いている。
②金山と呼ばれる集落が形成されており、当時は小学校の分教場があったことは知っていたけど、なんと、分教場は2箇所あった。そのうち1箇所は思い切り山奥にあった。
③ネットで散見される五十母川水系の遡行記や登山記に出てくる沢の名称と違っている沢が多い。
④林道終点のすぐ先にある平成11年建造の砂防ダムができる前は、同じ場所に昭和34年竣工の砂防ダムがあり、それができる前までは、林道は五十母川の左岸に付いていた。
⑤同様に、昭和34年に竣工した砂防ダムができてから五十母川の河床が大幅にせり上がり、持倉鉱山のランドマークである事務所の廃墟が立つ広場の前の流路が変わってしまった。流路が変わることにより、昔の地図に出てくるL字型の建物が消失した(土砂に埋もれてしまったのか、流されてしまったのかは不明)。

坑口の位置は省略しますが、大正時代、鉱山関係者の間で通用していた沢の名称を地図に清書しましたので、それを掲載したいと思います。
そこに架空索道(鉄索)と、二校あった尋常小学校の分教場跡も参考までに記しておきました。

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鉄索の起点と終点の位置はアバウトです。
また、上流部の小学校跡の位置もかなりアバウトです。
尚、これらの小学校に通っていた生徒数は40~50名とのこと。
2校合わせての数字なのか、下流側の方の学校の数字なのかは判然としませんが。
もう一点、大正時代の地図では現在の大清水沢が五十母川の本流と記載されています。
細かいことですが、確かに全体の流路は大清水沢のほうが持倉沢より長いので、大清水沢を五十母川の本流とすべきだと思います。
現在登山関係者の間で用いられている沢の名称で、当時のそれと違いが多く見られます。
まず、モグラ沢というのはムグラ沢(葎沢)がなまったものと思われます。
マンダロク沢は昔も今も同じ名称が用いられていますが、次の赤松沢は大正時代の地図では下赤倉沢と上赤倉沢となっており、そこからさらに上流の日倉沢は当時の地図では大清水沢(五十母川本流)となっています。
もっとも、歴史ある町の名前でさえ、市町村合併によりあえなく全然関係ない名前にすげ替えられるご時世ですから目くじらを立てる必要はないのですが、かつて使われていた名称を明らかにするのはそれなりに意義があると思っています。
例えば、五頭山系の沢は阿賀野市が発行している「五頭連峰山岳観光マップ」に事細かに載っていますが、近年マイナーな沢の名称はどんどん国土地理院の地形図から削られる一方です。



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こちらは、流路の変化により失われてしまった建物の位置を記した資料(模写)。
オリジナルの地図がかなりデフォルメされているので正確ではありませんが、おおよそのイメージはつくでしょう。
この失われたL字型の建物に言及した資料は、少なくともネットではないようです。

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これは昨年12月23日、初めて持倉鉱山事務所跡を訪れた際に、例の砂防ダムから下流部を写した1枚です。
その頃はまだ上記のような事実を知らなかったので、深く考えずシャッターを押したもの。
おそらく、正面の杉林の向こうに亜鉛精錬所があったのでしょう。
そして、その隣に分教場があったものと思われます。
亜鉛精錬所の廃墟は、まだ一部現地に残っているみたいですね。
今年改めてこの場所も調査したいと考えています。
分教場の痕跡を示すものがあるかどうか。
土台がコンクリートなら残っているでしょうけど、多分土台も含めて木造建築だったでしょうから、痕跡は皆無だとは思いますが。
それと、この写真を見て初めて気づいたのですが、左岸に林道の跡が残っていますね。
当時はこの先で橋があり、橋を渡って右岸へと林道は続いていたらしいです。
林道の終点手前の河岸段丘に小学校の分教場があったこと、事務所の廃墟が残っている河原に、かつてはもう一棟建物があったこと。
近年観光名所化しつつある持倉鉱山事務所跡ですが、当時の光景を思い描く際の一助となれば幸いです。


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持倉産蛍石を愛でる [鉱物 (阿賀町・持倉鉱山)]

持倉沢(阿賀町)で拾ってきた蛍石(フローライト)の原石を自宅で計測してみると、質量5.5kg、大きさ24X19X9cmほどでした。

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これに365nmのUVライトを照射してみます。

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このように、全体的に蛍石の脈が、細々とではありますが走っていることがわかります。
あまりに蛍光の度合いが強いのですぐ輝度が飽和し、白飛びを起こしてしまいます。
むしろ昼間現地で撮った写真の方が、色の階調が出るので美しさを感じられます。
オリオンの大星雲を写す時のように、露光時間を変えて写し、それらをHDR風に合成させるともっと青の階調が出るとは思うのですが・・・


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時計回りに90度回転させてみました。
右側の縞々になっている部分が特に蛍石が凝集している箇所です。

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カメラの特性でどうしても赤紫に発色してしまうのですが、見た目は真っ青に蛍光します。
もちろん画像処理で見た目には近づけているのですが、すぐ色飽和してしまうので、忠実な再現は不可能。
この辺が限界です。

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最も蛍石が凝集している部分を大きく写してみました。

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そこの部分の蛍光写真。

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石の底面をよく見たら、ある程度透明感のある部分があり、そこを大きく写してみました。
赤いもこもこの結晶は何の鉱物でしょうか?
石英でよくこのようなもこもこ君を五頭山麓で見かけますが、やっぱり石英(レッドジャスパー)の一種なのかな?
それとも・・・

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この部分は特に強蛍光しました。
う~ん、蛍石ってすごいです。
まさに異次元の光。神秘的です。

ところで、今日か明日あたり、Win7のパソコンをWin10の新しいデスクトップPCに入れ替える作業をします。
今回も前回同様ドスパラさんでミニタワーのPCを買いました。
入れ替え作業、果たしてうまくいくかどうか・・・
Win10はウインドウズLiveメールをフォローしてないので、メールソフトはフリーソフトのサンダーバードを入れるつもり。
メールの設定がなにげに一番苦労しそうです。
すんなり1日で終わればいいのですが。
ということで、コメント欄にコメントを残されても、それに対する返信はすぐにはできないかもしれません。
予めご了承願います。

どうか皆様、良いお年をお迎え下さい。


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持倉沢で蛍石を発見! [鉱物 (阿賀町・持倉鉱山)]

29日、まだ行けるはずと(こないだ降った雪はここ2日間で溶けただろうと予想)、持倉鉱山事務所跡より上流へ再度チャレンジしてきました。
ただし、前回行きそびれた最終堰堤から上流を目指すのではなく、今回は事務所跡から200m先で出合うマンダロク沢を途中まで歩いてみるのが優先事項。

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前回はスルーした、対岸にある精錬所跡をまず見学してきました。
中へは入らなかったけど、川を渡渉して周囲をぐるりと一周。
このまま自然に還すのはもったいない遺構です。
この日、林道終点には車一台とバイクが一台。
バイクのお兄さんはすぐ入れ違いで帰っていったけど、車の人~女性~はぼくの前100mを歩いていました。
よくこんな時期に一人で来るなと感心。
やはり持倉鉱山事務所跡の見学が目的だったらしく、カメラ片手に写真を撮りまくっていました。

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対岸から見る鉱山の事務所跡の建物も絶品です。
みなさんが魅せられるのもわかりますね。
最近10年で一部のアーチが崩落したり、少しずつ自然に還りつつあるようです。
繰り返しますが、この遺構は非常に貴重だと思います。
後世に残したいですね。

さて、マンダロク沢は出合いから堰堤が3つ連続しています。
一つ目は右岸から、二つ目と三つ目は左岸から巻けます。
でも、一番神経を使ったのはマンダロク沢への入り口でした。
一応対岸にピンクのテープが枝にぶら下がっており、そこが目印。
しかし河岸段丘が一段高くなっていて、取り付きに苦労します。
ぼくは5m下手から這い上がりましたが、なにげにいやらしかったです。

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3つ目の堰堤を過ぎると、こんな感じの渓相が続きます。
新潟峡彩山岳会の方が作ったマンダロク沢の遡行図によると、最終堰堤の先に二つ小滝があり、そこを過ぎると長いゴロタ石の河原に出るはず。
そのゴロタ石の河原で蛍石探しをするつもりだったのですが、五十母川本流(持倉沢)の河原と違って、あまり石灰岩を見かけません。ましてや結晶質石灰岩や方解石は皆無。
黒っぽい、硬そうな岩が続きます。
なんか蛍石の気配が感じられない。
マンダロク沢沿いに坑口があるわけではないのですが、地質関係の専門的な資料によると、蛍石はこの辺の山中一帯に広く分布するとのこと。
五十島鉱山は持倉沢の左岸にあったらしいですし、同じ左岸に出合うマンダロク沢にも可能性はあるわけで。
それで遡行してみようと思い立った次第。
水温はさすがにこないだより低く、かなり堪えました。
そして、遡行図記載の二つ目の滝と思わしき場所でUターン。
そこを通過するには太ももまで水に浸かる必要があったのですが、膝から上は濡らしたくなかったので(体力消耗しますから)すぐに撤収を決めた次第。
その先には開放的な地形が現れるとは思うのですが、それはまたいつかのお楽しみということで。
15分後、本流との出合いまで戻ると、河岸段丘上の旧道は歩かず、できるだけ沢通しで上流を目指しました。
前回とは違い、石捜しをしながらゆっくりと。


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結局、事務所跡から数えて4つめ(多分)の堰堤まで行き、そこでUターン。
折り返し地点でどっかと腰を下ろし、しばしティーブレイク。
やはり本流は結晶質石灰岩が多いです。
こないだもそうだったけど、今回もとてもきれいな石を幾つも見つけました。
今回はUVライトを忘れずに持ってきたので、怪しいなと思う石があったらライトを照射してみましたが、そもそも怪しいと思う石がなかなか見つからなかったので、あまり使わなかったけど。
結晶質石灰岩に当てても、たまにピンク色に蛍光するだけで(そういうのは方解石ですね)、なかなかバーンと青く光る石にはお目にかかれません。
やはり最終堰堤から先へ行かないと難しいのかなと夢想しながら立ち上がり、帰途へつきました。
ほんの4~5m進んだその時です。
急に胸騒ぎがしてきて、足元の黒っぽい縞々の石に目が釘付けになりました。

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それがこの石。
実は地上に顔を出していたのは1/3ほどで、あとは地面に埋もれていました。
それを5分くらいかけて掘り出したあとに撮ったのがこの写真。
UVライトを当ててみたら、なんと青く蛍光したのです。
それも強蛍光。
横幅30センチはろうかという大きな石で、蛍石の部分の面積は小さいものの、石の四方八方に脈が出ています。

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片手でUVライトを持ちながら、なんとか蛍光写真を手持ちで撮ってみました。
新潟大学サイエンスミュージアムに展示されている五十島鉱山産の原石で縞々模様のそれがありますが(その原石が一番大きい)、あれと似たような模様が上の原石全体を撮った写真でいうと右端と左下に付いており、そこに蛍石の結晶が付いていたのです。
拾って持ち帰り、家で重さを量ってみたら5.5kgありました。
見てくれは美しくない石ですが、自分にとっては念願の、独力で見つけた初蛍石であり、一生の記念になる石です。

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帰りに、違う角度から精錬所跡をパチリ。
かくして初冬の夕暮れは静かに過ぎていくのでした。


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持倉鉱山事務所跡探訪記 (後編) [鉱物 (阿賀町・持倉鉱山)]

林道終点から持倉鉱山の事務所跡まで、所要17~8分で到着しました。
途中いやらしい箇所が2箇所ほどありました。
山肌が河川に浸食され、登山道が半分以上削られているのです。
そこにはロープが張られているので、斜面のトラバースの際ロープをつかみながら歩けばそれほど危険はないけど、かなり神経を使いました。
早い段階から足を濡らしたくなかったので、往路は気を使いながらロープ沿いに歩きましたが、復路はえいやと川の中にザブザブと入り、その斜面をエスケープ。
水深は20~30cmほどだったので、全然問題ありません。
次もこのパターンで行こう!

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神殿?はいきなり現れました。
思ったより小さかったですが、カラミ煉瓦の質感は思った通りで、思わず声にならない声を上げてしまいました。
川をはさんで対岸には精錬所跡の、これまた非現実的な雰囲気の建物が岩場と共生するようにそびえており、探索意欲をそそられました。
今回は最終堰堤まで行くという目的があるので、精錬所跡の見学はスルー。
すぐさま上流へ向かいます。

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ほどなく右手には堰堤を伴うマンダロク沢が現れ、左手にモグラ沢(上の写真)が出合います。
五十母川本流、つまり持倉沢を詰めていくとやがては大池手前の稜線に抜けるのですが、そのルートを取った場合は帰路にモグラ沢を降りるのが常套手段のようです。
滝が一つもないそうで、難なくこの出合い地点まで下山できるとのこと。
確かに出合いの渓相は穏やかで、この沢だったら楽勝で降りられるかなと思いました。

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右岸と左岸の河岸段丘を縫うように、旧道(鉱山道)は伸びています。
ところどころ途切れていますが、ピンクのテープが要所に取り付けられており、道をロストすることはないでしょう。
ただし、それも11~12月及び4月限定の話です。
今でこそ見通しはいいのですが、6月以降のヤブの深さは想像するにあまりあります。
ぼくはヒルと出合いたくないので夏場に来ることは絶対ないですが、もし来ざるを得ない時は早々に川に入り、ひたすら川をこざいて遡行するでしょう。
水深は特に深い所はなく、最終堰堤を迎えるまではひたすら穏やかな渓相が続きます。
事務所跡から最終堰堤まで、堰堤の数は合計6つ。
上の写真のそれのように、木でできているものとコンクリートでできている堰堤が半々ずつありますが、堰堤はどれも大きくないので簡単に越せます。
そして、どの堰堤の前後の河原にも多数の石ころが散らばっているので、きれいな石ころ探しには最適。

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今回ゆっくり探している余裕がなかったので、石ころ探し(=蛍石探し)にあてた探索時間は15分ほどしか取れませんでした。
それでも、上流へ行けば行くほど、写真のような結晶質石灰岩の石ころが目立つようになっていったような印象があります。
これなんか赤みがかっている部分もあり、白の部分は純白でとてもきれいな石でした。
拾おうと思ったら地中に埋まっている部分がよほど大きいのかびくともせず、お持ち帰りはあきらめましたが。

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5つめの堰堤手70~80mの河原で、こぶし大よりやや大きな怪しい石を発見。
一見、片麻岩のようでもあり、結晶質石灰岩のようでもあります。
新潟市の日和山海岸で拾ったマンガン方解石の巨晶に似ていなくもない。
透明度がそこそこ高い部分もあり、ひょっとすると蛍石が部分的に含まれているのではないかと。
外見が新大のサイエンスミュージアムに展示してあった、五十島鉱山産の原石と似ていたものですから。
こういう時UVライトがあるといいのだけど、残念ながら持ってくるのを忘れてしまいました。
蛍石かどうかの判断は、従って帰宅後まで待たないといけません。
まあ、違うとは思いますが。

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この石を拾ったのはこの河原です。
向こうに見えているのが5つめの堰堤。
6つめの最終堰堤まで行くのが目的でしたが、少し前から雨が降ってきたのでこの河原でUターンしました。
ここまで事務所跡から30分弱。
難所は一箇所もなく、スムーズに遡行できました。
幾つかの遡行記録を読むと、最終堰堤を越えた先に出合う赤松沢、そこから400m上流で出合う日倉沢あたりまでは川通しで遡行できるようです。
事務所跡から上流部では石灰岩や結晶質石灰岩が目立ち、あとアプライトや花崗斑岩なども見られます。
鉱山付近の地質ですが、古生代の石灰岩に花崗岩が貫入した接触交代鉱床(スカルン)であるとのこと。
複数の資料に、鉱山跡には結晶質石灰岩の大きな塊や、石灰岩の巨大な露頭も遠望できるとの記述が見られることからすると、粒の大きい結晶質石灰岩が多く見られるのはいい前兆と言えるでしょう。
花崗斑岩に関しても、かつて日本最大の蛍石の産出量を誇った平岩鉱山(岐阜県)では、花崗斑岩を母岩として産出するパターンが多いようなので、これも良い組み合わせなのです。
まあ飯場跡や坑口まで行かなくても、じっくり河原を探せばきっと自生結晶の蛍石が見つかるのではないかと思う次第。

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さて、1個だけ持ち帰った、結晶質石灰岩と片麻岩もしくは方解石とのあいのこのような石を、自宅で改めて写真を撮ってみました。
先日買い換えたキャノンのミラーレス機・M6 Mark IIには、フォーカスシフト撮影の機能が付いています。
オリ機のようにその場で合成されるわけではなく、キャノンの画像処理ソフトDPPを使わないといけません。
とはいえ、フォーカスシフトの機能自体は本格的なものであり(PowerShotシリーズにもフォーカスシフトがなにげに付いている機種があるのだけど、こちらは最大撮影枚数が3枚までという制限がある。撮ってみるとわかるが、3枚では全く効果が感じられない)、この機能を使ってみたかったのです。
撮影枚数は6枚で撮りましたが(それ以外の数値はデフォのまま)、結果はバッチリ。
新たに用意した黒の塩ビの板の効果もあり、見違えるような結晶写真が撮れました。

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水色には蛍光しなかったけど、暗めのサーモンピンクに蛍光しました。
マンガン成分でも含まれているのでしょうか?
ということは方解石でしょうか。


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持倉鉱山事務所跡探訪記 (前編) [鉱物 (阿賀町・持倉鉱山)]

23日、来年春にと考えていた持倉鉱山の廃墟跡へ行ってきました。
既に今年2回途中まで下見しているので、準備は万端。
水温の低さを考慮し、2足持っているウェーディングシューズのうち、ウェットスーツの生地でできたアユ釣り用のそれを今回初めて持参。
シマノのこのシューズ、2mm厚のやはりウェットスーツの生地でできたソックスが付属しており、これだと濡れてもそれほど冷えないのではないかと。

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結果は正解。
水温がそれほど低くなかったせいもありますが、足元の冷えを感じることは2時間の行動時間の間まったくなかったです。
水量はすねまでで、膝から上を濡らすことはありませんでした。
さて、遡行記に入るまでに、持倉鉱山について簡単に調べたことを書きます。
テレビ朝日の「ナニコレ珍百景」で取り上げられたこともあり、近年脚光を浴びている持倉鉱山。
開発の歴史は古く、江戸時代(1700年代)まで遡ります。
最初は銀、続いて銅が採掘され、明治以降は亜鉛も採掘されるようになりました。
また、明治36年には蛍石(フローライト)が発見され、蛍石も若干採掘されていたようです。
今から思うと信じられないのですが、この持倉鉱山の事務所跡でさえ十分人里離れた山奥に立地するのですが、大正年間にはここからさらに沢を上流へ遡った所に抗夫とその家族が住まう居住地区が設けられていたようです。
山奥故に、悲劇がこの居住地区や関連施設を何度も襲います。
以下、ある資料からの抜粋。

*大正3年2月10日 暖気による雪崩のため鉱山建物1棟倒壊、20余名埋没、死者6名負傷者12名。
*大正4年3月8日 裏山約17尺の所からの雪崩で物置小屋が半壊、作業中の1名死亡。
*大正7年1月30日 雪崩で4名が1丈6尺余も下に突き落とされ埋没したが、救出された。
*大正8年1月11日 雪崩で飯場1棟が倒壊、戸内にいた人夫は外に逃げたが埋没、約30分後までに掘り出すが死者3名負傷5名。約300間の箇所より幅3間厚さ2尺余の雪崩。

休山は大正9年。
第一次世界大戦(大正3~7年)終戦後バブルがはじけ、銅の価格が暴落。
また、持倉鉱山における金属鉱床はほぼ採り尽くされたので休山とあいなったらしいです。
もちろん、大正年間に入り、何度も飯場が雪崩に襲われ多数の死者を出したので、それも影響しているものと思われます。
さて、しばらくは放置されていた持倉鉱山の事務所の建物ですが、昭和14~17年に再び探鉱が開始され、使われるようになりました。
その頃は蛍石メインに採掘していたようです。
坑口はそこからさらに2時間前後歩いた山奥にあったのですが、採掘現場から事務所までは人間が鉱石を背負って運搬(男性で50~100kg、女性で30~40kg)。
事務所から五十島駅までは牛馬で運搬していたとのこと。
事務所は鉱石の保管場所として利用されていました。
昭和30年代に入ると採掘現場からの搬出には架空索道が使われたらしいです。
第二次世界大戦中は再び休山になりましたが、昭和32年探鉱再開。
蛍石の産出量は年間800~1000トンほど。
昭和38年、俗に言うサンパチ豪雪による被害のため完全に閉山。
蛍石を採り尽くしての閉山ではないため、今でも坑口まで辿りつければおこぼれにありつける可能性があります(と睨んでいます)。
しかしながら、一帯はヤマビルの群生地なのでそこがネックです。

ところで、持倉鉱山と五十島鉱山は別会社であり、戦後蛍石を採掘していたのは後者の方です。
鉱区は隣接しているとのことですが、ネットでいくら探しても坑口の位置が記載された地図は見つけることができません。
昭和52年版の新潟県地質図説明書にも記載はありませんでした。
どれが持倉鉱山でどれが五十島鉱山のものかはわからないのですが、ネットや各種資料で名前が出てきた坑口名を列挙します。

*水上坑、掛居坑、山神坑、葎沢坑、虚空蔵坑、北星坑、東華坑、北華坑、通洞坑、本山坑、大通洞坑

また、「蛍石、及び蛍石鉱床」という資料には、第一号坑、第二号坑、第三号坑、第四号坑などの固有名詞が出てきます。これらは五十島鉱山に属する坑口のようです。
もうひとつわかったのは、五十島鉱山は持倉沢の左岸にあったらしいこと。
ただこれとて、五十島鉱山の全ての坑口が左岸にあったとの確証はないのですが。
ぼくは蛍石探しが目的で、持倉鉱山及び五十島鉱山のことを調べ始めました。
新大のサイエンスミュージアムに五十島鉱山産の蛍石の原石が幾つか展示してあるのですが、どれもちゃんと蛍光現象を示すし、本当に素晴らしい結晶です。
今年、最も魅せられてのは蛍石なのです。
この結晶達に巡り会う可能性というか手段として、最もお手軽なのは沢の転石を探すこと。
ただ、五十母(いそも)川はご多分にもれず堰堤が多く、実際に現地へ行ってみないとどの辺の河原に蛍石の川ズレ原石が転がっていそうか、想像がつきません。
それで今回持倉鉱山の事務所跡を訪ねたわけです。
ギリシャ神殿のような神々しさを誇る事務所跡の建物を見るのももちろん興味はありましたが、第一の目的は川の状況視察でした。
付け加えると、持倉鉱山の事務所跡が立っている五十母川は、上流で赤松沢、日倉沢を右岸側に分け、本流は持倉沢と名を変え、日本平山手前の大池近くの支稜に源を発しています。
いざ実際の坑口付近まで足を伸ばしてみたいといった場合、上流部の渓相がどうなっているか、沢登りの本格的な道具を必要か、難易度はどうかなども事前に調べておく必要があります。
で、その点に関しては新潟峡彩山岳会の方の遡行記が参考になりました。
ブログに遡行図までアップしてくれてあります。
持倉沢だけでなく、赤松沢とマンダロク沢のそれまで。
五十島鉱山の実際の坑口がどこにあったのか、確乎とした資料がないので想像の域にすぎないのですが、1/2.5万地形図をつぶさに観察すると怪しい箇所が2箇所ほどあるのです。
それらのうち、標高の低い方の場所で標高約400mあるのですが、例の遡行記、及び遡行図と照合してみるとそこに至るまで高巻きを少なくとも2回こなさなければなりません。
ただ、日倉沢出合いまでは容易に行けそうなので、そこまでの区間で転石探しを来年春行ってみたいと考えています。

さて、前置きが長くなりましたが、今回はできれば最終堰堤まで行ってみたいと思っていました。
先の遡行図や国土地理院の地形図を見ると、林道終点から事務所跡まで一つ、事務所跡からはさらに6つの堰堤があることがわかります。
新潟峡彩山岳会の方の遡行記によると、事務所跡から最終堰堤まで1時間を要したとあります。
林道終点は小型車2台しか駐車できません。
そこは面積が思いの外小さく、1台が広場の中央に停まっていたら、転回できない可能性もあります。
その場合は150mほど手前の路肩に1台分の駐車スペースがあるので、そこに停めるといいでしょう。
ただそこは落石の危険のある場所なので、安全のことを考えるとさらに150mくらい手前に2台停められる、割と広めの路肩がありますから、最初からそこに停めた方が無難かも。
道幅は狭いので、いざ終点まで行って停められなかったからバックで戻るとなると難行苦行が強いられますから。
林道終点から歩き始めてすぐ、大きな堰堤が現れます。
平成11年に完成した、流域で最も大きな堰堤です。

IMG_0271.JPG

河原の転石探しをするなら、この堰堤から上流部へ行った方が良さそう。
下流部~前回夜に訪れ、UVライト片手に探索した河原~は、事務所前後の河原と比べるとらしい雰囲気を漂わせる石が少ないのです。
この堰堤から上手は結晶質石灰岩が多く、また花崗岩も結晶の粒が大きいものが多かったです。
河原に降りるのも、実は下流部よりこの堰堤から上手の方がより簡単に降りられます。
(続く)

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遙かなる五十島鉱山 [鉱物 (阿賀町・持倉鉱山)]

鉱物趣味を始める前から、そう10数年前からなんとなく五十島鉱山のことが気になっていたのでした。
隣接する持倉鉱山ではなく、あくまで蛍石を採取していた五十島鉱山の方です。
最近国内産の蛍石の原石を入手してからますます蛍石のことが好きになり、五十母川の川ズリ原石でいいから当地の蛍石をこの目で見てみたいと思うようになりました。
ここ2ヶ月ばかり徹底的に持倉&五十島鉱山のことを図書館やネットで調べていたのですが、坑口の場所を記した地図は見当たらず(つくば市の地質調査総合センターへ行けば、そこに保管してある某資料に記載があるかもしれないけど)、現実的なのは事務所跡の前後の河原で転石をチェックすることではないかと。
もうひとつ、あえて暗くなってから行き、UVライト片手に河原を探し回るのも考えられます。
来年4月から五十母川の探索を開始するつもりだったのですが、12月1日、昼間の予定が早く終了したので夕方急遽現地へ駆けつけてみました。

IMG_1086.jpg


2ヶ月くらい前に一度林道終点まで下見に来たことがあり、そのとき目を付けていた河原(林道終点より200m程手前)へ降り立ちました。
ここは容易に河原へ出られるので既に多くの人が探しまくっているだろうなあと思いながらも、365nmの高出力UVライトで照らせば効率よく蛍石を見つけることができるのではないかという淡い思いを抱きつつ・・・
現実はやはり厳しかったです。
水量は少なかったので150mほど沢シューズを履いて遡行しましたが、その間蛍石はおろか、1個も蛍光を発する石はなかったです。
石はほとんどが石灰岩系と花崗岩。
このあと、五十母川の支流(11月6日の記事の場所)も1時間ほど探索したけど、こちらも光る石は皆無。
やはり最終堰堤の上まで行かなければ見つけることは難しいのでは?
ただし、JaxmanのUVライトは単四電池3個使用の一般的な375nmのそれとは違ってやはりパワーがあり、屈まなくても十分3~4m四方を照らし出すことができました。
これは快適でした。効率の良さは絶大。
しょせん紫外線なので高出力といっても照度は低く、これだけで河原を歩き回ることはさすがにできませんでしたが。

補足すると、林道終点から事務所跡まで、1/2.5万地形図によると4つの砂防堰堤があり、さらにその先にも2つの堰堤が見られます。
(新潟峡彩山岳会の遡行図によると、事務所跡から先に6つの堰堤があることになっています。マンダロク沢も下部に小さな堰堤が3つ連なっています。)
どの堰堤を指すのかわからないけど(多分、事務所跡手前の堰堤?)、そのうちの一つである大きな砂防堰堤は昭和34年に作られたもの。
鉱山が完全に閉鎖されたのが昭和38年1月なので、最終堰堤とまでは言わずとも、できれば事務所跡前の河原まで行きたいところです。
以下、防備録なのですが、ネットで見つけた資料のリンクを貼っておきます。

※五十母川の遡行記録
五十母川持倉沢
五十母川赤松沢右俣遡行~マンダロク沢下降 (以上、新潟峡彩山岳会)

実際に山奥にひっそり眠る坑口まで鉱石を採りに行ったという記録は少ないです。
少ないながらもそれらの記録を包括すると、沢沿いに一目で蛍石とわかるような転石はほとんどなく、坑口付近まで行ってもズリはない。
ズリがあったと思わしき場所の地面を10cmくらい掘ると、やっと蛍石を含むズリが顔を出す。
事務所跡から先、踏み跡は深いヤブに覆われており、沢歩きする方が快適。
歩行時間はどこまで行くか、その人の沢登りの経験値にもよるが、選考所跡&居住地跡まで2~3時間かかる。
上部の坑口へ行くには、五十母川沿いに沢を遡行するより、日本平山への登山道からクライムダウンする方が手っ取り早い(どっちのルートも常人以上の体力を要す~私の感想)。
選考所跡と居住地跡は離れている可能性がある。
持倉鉱山と五十島鉱山の区域は一部重複しているので、坑口を見つけたとしてもそこがどの坑口なのかは詳細な地質図がない限り判別不能。
事務所跡から最も近い坑口は大通洞坑(近くに石灰岩の巨岩があるのが目印)。
しかし大通洞坑は内部が完全に水没している。

なので、我々シロートが頑張って2時間以上歩いて五十母川上流へ行ったとしても、蛍石を見つけることは不可能に近いと思います。
マンダロク沢下流部にはゴーロ状の河原が長く続く箇所があるので(地形図を見ても等高線は緩やか)、マンダロク沢下流部の探索も面白いかもしれません。
赤松沢出合いまで事務所跡から徒歩1時間なので、赤松沢から400m手前に位置するマンダロク沢出合いまでだったら40分くらいで到達できそう。
マンダロク沢のゴーロ地帯へ出るには3つの小さな堰堤と2つの小滝を超えなければならないが、おそらく高巻きせずとも行けるのでは?
この辺の地質を詳述した複数の本によると、蛍石は五十母川流域のみならず、近傍の山塊に広く分布するようなので、マンダロク沢でも蛍石の川ズレ転石を見つけることができる可能性は大いにあります。
五十母川本流は上流部へ行くに従ってヤブ沢と化すらしいし、途中ゴルジュ地帯を通過するので、沢登りの経験者でないと難しそう。
事務所跡から先はどこを目指すにせよ充分な準備と体力が必要そうですが、最終堰堤を越えたあたりの河原までなら比較的容易に行けそうなので、来年4月、まずは最終堰堤を目指して行ってみたいと思います。


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