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八前沢銅山の全容 (後編) [鉱物 (弥彦山周辺・八前沢銅山)]

そんなこんなで無事一ノ滝を越え、再び河原へ降り立ちました。

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そこから次の坑口が現れる前に、ちょっと怪しい地形に遭遇。
坑道が崩れた可能性も否めません。
もしくは露天掘り跡か。

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そして一ノ滝から約340m、やっと左岸に3つ目の坑口が現れました。

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内部はちょっと複雑な構造になっており、基本的には縦坑なのだけど、正面上部にも坑道は伸びています。
ただし天井は非常に低く、匍匐前進でないと進めないかも。
坑道はゆるく右にカーブしていますが、どこまで続いているかは不明。
そして、右下の方に縦坑があり、足場が悪いのでどのくらいの深さがあるのかは確認できませんでした。

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3つ目の坑口より約65mで、二つの坑口が重なり合っている地点へ到達。
小林氏の文書でいうところの”四の坑口”と”五の坑口”です。
下のそれは奥行きが浅く、内部の写真は撮りませんでした。

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こちらは上の坑口の内部。
かなり土が堆積しています。
坑道は右側にカーブしていますが、これ以上は視認できません。
土の堆積がないとしてもかなり天井は低く、北海道のコロボックルやハワイのメネフネ等の小人族が作業していたのではないかと真剣に考えました。

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そこから約35mで6つ目の坑口へ。
7つ目の坑口はこの先30mで出てきましたし、3つ目の坑口以降は割りと短い間隔で現れました。
ちなみに3つ目の坑口から先は沢の水がなくなり、大きなゴロタ石が階段状に重なり合っている中を登る格好になります。

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入り口はそれほど高さはありません。
やはりかなり土砂が堆積しているのでしょう。

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坑道は水平方向に伸びています。
ここも天井がそれほど高くなく、身長のある人は四つん這いにならないとダメかも。
中には入っていないので、この先どこまで続いているかは未確認です。

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そして、再び右岸に7つ目の坑口が現れました。

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小林氏は『八前沢銅山を尋ねて』の中で、「ここは坑内入り口2~3m先の右が横堀坑、左が縦堀坑である。」述べていますが、まさにその通りでした。
もうとっくに体力は尽きているのでこれ以上は歩かなかったですが、この先にも坑口が待ち構えている可能性はあるかもしれません。
また、3つ目の坑口が現れるそのちょっと手前で左手に細い沢が現れるのですが、その沢もなんとなくですが、坑口が出てきてもおかしくない雰囲気が漂っていました。
実はM君が”鉢前銅山跡・菜畑坑口”のページでアップしている坑口の写真、今回の探索に行く前までは一ノ滝から先の坑口のいずれかを写したものだろうと思っていたのです。
しかし、どうも違うような・・・
天井が高い坑口なんてなかったですし。
ひょっとしたら、彼はぼくが見送った左側の沢を登っていったのかもしれません。

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最近マンガン方解石を沢筋で多く見かけているので、今回も方解石がないか注意しながら歩きました。
たった2つだけではありますが、写真のような産状の方解石を発見。
おそらくこれもマンガン方解石だと思います。

「・・・鉱脈の種類は、鉢前の脂樋を除く他は方解石を脈石とする黄銅鉱の脈である。これらの鉱脈中に普通に出てくる鉱物は、1.方解石 2.石英 3.黄銅鉱 4.黄鉄鉱 5.方亜鉛鉱である。」
曽我俊二郎氏の論文の中からの抜粋です(口語体に置き換えました)。
鉢前の脂樋のみ脈石が石英であるとのことなので、脂樋がどの坑口を指すのかわからないながらも、石英がどこかに析出していないかもチェックしながら歩きました。
しかし、残念ながら石英は皆無。
それにしても、江戸時代の坑口(おそらく半分は江戸時代のものでしょう)を目の当たりにするのは不思議な感覚です。
探せばまだまだ弥彦&多宝山山中に、未知の坑口が埋もれていることでしょう。
弥彦山はロマンの宝庫です。







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八前沢銅山の全容 (前編) [鉱物 (弥彦山周辺・八前沢銅山)]

同じ弥彦山系にあったと言われる鮫銅山もそうなのですが、八前沢銅山(もしくは鉢前銅山)の名前が出てくる最も古い文献は「日本の鉱山文化」国立科学博物館1996発行に収録されている絵図です。
これらの絵図は明治6年に開催予定のウイーン万博に出品予定であることが、前の年に発表されたリストに載っていることから原本は江戸時代に作成されたものと推測することができます。
その絵図の注意書きとして、鉢前銅山から野積村まで一里、麓村まで半里と書いてあり、絵図に描かれている山並みと併せて考えると、弥彦山山頂から雨乞山にかけての稜線付近の谷にあったものと想像できます。
その他、八前沢銅山もしくは鉢前銅山について言及している資料をまとめてみます。

①間瀬郷土史と岩室村史
地元の今井義雄氏の語るそれを記録した文書。ここに収録されている絵図は誤りが多く、間瀬銅山のおそらくは八号坑が位置する地点に鉢前銅山があることになっている。
個々の銅山~太刀川・鉢前(=鉢前)・赤滝(=坂井)・間瀬~の概略についてはよくまとまっており、民俗史の観点からも貴重。

②「間瀬銅山の鉱脈についての観察大略」曽我俊二郎
曽我氏は地質学者であり、間瀬銅山全般における地質や鉱物についての学術的な記述はオンリーワンであり(弥彦&角田山系の地質についての論文は、平成以降書かれたものは複数あるが)、大変貴重。
間瀬銅山の各坑口と鮫銅山について詳しい。
発行年が明治34年なので、最盛期を迎えた大正時代初期の状況を反映した情報ではないので、その点注意。

③「八前沢銅山を尋ねて」小林孝~弥彦郷土史第19号より
実際に八前沢(現在の八枚沢)を踏破し、計7つもの坑口を発見。
それぞれの坑口の位置関係を記した図も載っており、大変有益。
また、麓村の本多庄左衛門家に伝わる文書を紹介しており、その点でも貴重。
明治21年9月、草倉銅山に出資し、古河財閥の基礎を作った古河市兵衛氏の代理人である青山氏と麓村との間で交わされた”八枚沢銅山示談約諾書”が紹介されている。

④「ミックンのつぶやき」
当ブログでも何回も取り上げている、また引用させてもらっているホームページです。
M君の情報収集力はその辺の学者を凌ぐものがあり、大変参考になります。
「日本の鉱山文化」収録の、鉢前銅山の絵図もM君のHPから見ることができます。

さて、鉢前銅山と八前沢銅山は同じなのか?
これについては、小林氏は別であるという立場のようです。
「・・・八前沢銅山は間瀬銅山の南東に位置し、この銅山の峰越えの北には間瀬の鉢前銅山がある位置になっている。」と、岩室村史の絵図に言及し、絵図の示す位置関係が正しいものとしてそのように結論付けています。
一方M君は同じという立場。
もっとも彼は八前沢銅山という単語を一度も使っていないので、小林氏の文章も読んでいないと思われますし、鉢前銅山しか眼中になかったようです。
そしてぼくですが、6割ぐらいしか確信はないのですが、両者は同じであるという意見です。
それより、M君は江戸時代に作成された絵図をもとに、鉢前鉱区ともう一つ菜畑鉱区があると考え、両方の坑口を探すことに成功しています。
ここで引っかかるのは、②の曽我氏の文書に書いてある次の内容。
「間瀬銅山事務所付近にして、間瀬にもまた多くの樋(ヒ=鉱脈)あり。そのうち間瀬のナバタケの樋は走行北八十度西傾斜西南に五十度なり。・・・」
この文書の冒頭でも氏は書いているのですが、間瀬銅山付近の区域を大きく3つに大別しているのです。
間瀬銅山事務所付近の区域、野積鮫ノ沢付近の区域、そして鉢前沢の区域です。
続いて間瀬銅山周辺の鉱脈を列挙しているのですが、そこで”間沢のナバタケの樋、間沢子午樋”というように間沢という接頭語を使っているのです。
つまりナバタケの樋は間沢沿いにあり、位置関係としては鉢前地区ではなく、間瀬銅山事務所付近に近いと読み取ることができます。
実際、「日本の鉱山文化」収録の絵図を見ても、鉢前の敷口(=坑口)と菜畑の敷口との間にはかなり隔たりがあるようです。
なにせ超大雑把な絵図なのでいかようにも解釈できるのですが、ナバタケと名の付く鉱脈が江戸時代からあったことは確かで、それは鉢前の坑口側から見たら相対的に間瀬銅山事務所の方向に位置するということは言えると思います。
そっち方面を1/2.5万の地形図でつぶさに眺めると、他に可能性のあるのは、ぼくが先日鉱山の名残りの数々を認めた滝壺ノ沢の源流部でしょうか。
その北は鮫ノ沢ですし、その向こうは間瀬本坑エリアの深ヶ沢水系になってしまうので、本当にナバタケの樋だけはどこにあったのかわかりません。
間沢ってどこ?
宝川のことを真沢とも言うのですが、真沢=間沢なのでしょうか。
う~ん、謎が多すぎる。

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去る13日、2020/04/04に続き、八前沢沿いを歩いてみました。
前回は一ノ滝で引き返したのですが、今回はどうにかこうにかこの滝もクリア。
小林氏が発見した7つの坑口を全てカメラに収めてきました。
今回は一ノ滝から下流部に位置する坑口の紹介です。
上の写真は下流部の風景。
昨年今年とかなりあちこち弥彦山系の沢を歩きましたが、最もヤブが深く、歩くのに疲れるのがこの沢です。

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最初に左岸に現れる坑口。
小林氏が言うところの”一の坑口”です。
尚、小林氏は右岸と左岸の使い方を間違っているので指摘しておきます。
上流側から下流を見て、右手が右岸左手が左岸です。

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内部は完全に水没。
今井氏の語るところによると、「坑口は丁度滝の横から掘り進み、坑内は水で作業困難のようであった。」とありますが、それがこの坑口を指すのかはわかりません。
郷土史の鉱山毎の坑道略図だと、それは滝下坑を指すものであると推測できます。
しかし、それほど大きな滝は横にはないし、そもそもかなり上流まで行かないと右岸に坑口は出てこないのです。
坑道略図には滝下坑の向かいに一号坑が記されているのですが、その位置関係が合わない・・・
先に、八前沢銅山イコール鉢前銅山であるとの確信度は6割であると書きましたが、この矛盾がなければ8割にアップしてもいいのですが。

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続いて二つ目の坑口。
尚、途中ここへ来るまでかなり大きな滝を高巻きしないとなりません。
小林氏の文書における”中の滝”です。
右岸に巻き道がうっすらと付いているので、注意すればわかると思います。

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実はこの坑道が一番長かったです。
内部へ侵入したわけではありませんが、どの坑道も狭くて天井も低く、四つん這いにならないと前へ進めないのは共通点。
その中ではこの坑道がわずかですが高さもあり、入り口から見通せる直線部分の長さがありました。
20~25mくらいあるでしょうか。
その先も左に曲がって続いているようです。

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これが名瀑・一ノ滝。
今回もここへ来るまで既に体力を半分以上使い果たし、ここでUターンしようかなと弱気になったことを告白します。

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やはりここも右岸を巻きます。
行くときは巻き道がわからず、最も斜度が緩そうな斜面を登ったのですが、登りすぎてしまいかなり苦労しました。
帰りは巻き道を見つけることができ、ほぼ忠実にトレースすることができました。
しかしながら踏み跡の幅は狭く、ところどころ路肩が崩壊してなくなっていたり、地を這うように樹木が道を塞いでいたりするのでそれなりに体力は消耗します。
沢登りの中級者以上のレベルでないと難しいかも。
で、これは帰りに撮った写真なのですが、巻き道の入り口の反対側にこの埋没した坑口が控えていました。
前回の記事でもここを写していますが、おそらく自然地形ではなく、坑口が埋もれてしまったものだと思います。
すぐ左にはここより小さいですが類似の地形があり、上部に7~8cmの隙間があったのでライトで照らしてみたところ、奥に空洞がありそうな気配でした。
尚、中の滝を超えると水量は一気に減りますが沢の斜度が増し、本格的な沢登りという風情になってきます。



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八前沢銅山へ [鉱物 (弥彦山周辺・八前沢銅山)]

3日、初めて弥彦山山麓の八前沢銅山へ行ってきました。
2月2日の記事でこの銅山近くの露天掘り跡を見つけ、記事にしていますが、坑口を訪ねるのは今回が初めてです。
その前に整理しておきたいのですが、似たような読み方(ハチマイ、ハチマエ)をする鉱山名が大きく二つあります。
ひとつは八前沢(or 八枚沢)、もうひとつは鉢前。
そもそも間瀬銅山に関する資料は乏しく、中でも最も詳しく書かれているそれは1954年発行の”間瀬郷土史”でしょう。
岩室村史も広く読まれていますが、多くは間瀬郷土史の焼き直しなので、興味ある方はぜひ間瀬郷土史を読まれることをお勧めします。
ところが、探せばわかるのですが、この本どこの図書館にも置いていないんです。
2ヶ月前、やっと新潟県立図書館にあることを知り、必要箇所をコピーしました。
といっても、普段は一般公開されていない書架の方に収蔵されているんです。
しかし係員にいえば持ってきてくれますし、コピーを取ることもできます。
それ以外では、間瀬銅山は新潟県地質図説明書でも無視されているし、学者の論文にも取り上げられていないため、本当に資料がないんです。

前置きが長くなりましたが、間瀬郷土史並びに岩室村史には間瀬銅山グループ?である赤滝、太刀川、鉢前、間瀬の4つの銅山の位置を記した略図が掲載されているのですが、この略図が曲者なのです。
鉢前も太刀川も場所が間違っているよと指摘しているのは、これら主要鉱山全てを訪れたHP「ミックンのつぶやき」のミックン。
鉢前銅山の場所はそこじゃないと言っている彼の根拠は、「日本の鉱山文化」(国立科学博物館)に掲載されている絵図、及びその説明文が現在の八枚沢を示しているというもの。
(注:この絵図は明治10年、第一回内国勧業博覧会に出品されたもの。ちなみに、ぼくもこの本を買いました。)
一方、間瀬郷土史における鉢前銅山の場所は正しく、八枚沢沿いにあった銅山は別物であると述べているのは、”八前沢銅山を尋ねて”という小文で、自身の平成15年における探索で7つ坑口があることを明らかにした小林孝氏(弥彦郷土誌・第19号)。
ここでツッコミを入れれば、小林氏はあとがきの中で「弥彦銅山と間瀬銅山、鉢前銅山と八枚沢銅山とが混同されやすく・・・」と書いていますが、その根拠は示していません。
そして間瀬郷土史にツッコミを入れさせてもらうと、p93における各銅山坑道略図で間瀬銅山、赤滝銅山、太刀川銅山、そして八前銅山の絵図を取り上げているのですが、p92での全体の略図では鉢前銅山と書いており、単語の統一がなされていません。
(もっとも、小林氏も八枚沢と言ってみたり八前沢と言ってみたり、統一がされていないのですが。)
そして、p93における絵図で”至 麓村”と書いているのですが、p92で場所が正しいならそっち方面に麓村はないのです。
これが八枚沢沿いにあるとなると、方角的には整合性が取れるのですが。
また、p92における場所が正しいとなると、鉢前銅山は深が沢沿いにある間瀬銅山の主要坑口と重なってしまうことになります。
なので、p92の略図は誤りであり、鉢前銅山はその表記にバリエーションがあるものの、基本的には雨乞山北部の八枚沢沿いにあったと解釈するのが合理的だと思います。

さて、今回のスタート地点は弥彦山八枚沢登山口駐車場。
まず歩き始めて閉口したのが、ボサとヤブの酷さ。
踏み跡はうっすらとですが一ノ滝までは残っています。
しかしながら遅々として進みません。
また、スタート地点より約450mで中の滝が出てくるのですが、高巻きを余儀なくされました。
そんなこんなでUターン地点に辿り着いた時、既に1時間半近くが経過していました。

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ぼくは最初の2つの坑口を訪れただけなのですが、場所は小林氏の図と合っています。
写真は”一の坑口”。
小林氏の距離表示を借りると、ここまで370m。
沢の右岸、やや高いところにあります。
最初通り過ぎてしまい、いったん引き返してやっと見つけました。
沢からこの坑口は見えないんです。
ただ、地形をよく観察するといかにもそこに坑口がありそうな雰囲気バンバンのところがあったので、そこへひと登りしたらやっぱりそこにありました。

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奥行きはなく、内部は水没状態となっています。
帰宅して改めて”ミックンのつぶやき”の鉢前銅山のページを見て気づいたのですが、この坑口はミックンのHPで紹介されている写真と同じ場所ですね。
実は実際に訪れるまで、ミックンが訪れたその場所が八枚沢沿いのこの坑口群であるか確信が持てなかったんです。

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最初の坑口を過ぎた辺りから本格的な沢歩きとなります。
そして、ほどなく最初の大きな滝(中ノ滝)が現れました。
ここは右岸を高巻き。
最初の取り付き部が悪かったですが、一応踏み跡は残っており、なんとか越せました。
しかし、その先もひたすらヤブとボサが続きます。
見通しが悪く、沢歩きの快感はあまりありません。

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スタート地点から約600m、二つ目の坑口が左岸に現れました。
実は行きは気づかず、通り過ぎてしまい、帰りに見つけました。
ところどころ沢はボサに覆われているため、よほど注意しないと坑口を見逃してしまうのです。
奥行きは25m前後あると思います。
今回明るいLEDライトを持っていき、ビーム光にして照らしてみたら思ったより奥が深かったです。
一応外付けのストロボを装着して写真を撮っていますが、全くストロボ光が最奥部まで届きません。
高さは低く、先へ進むには匍匐前進が必須。
10cmくらい水が溜まっており、入り口で写真を撮るだけにとどめました。

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これがUターン地点の一ノ滝(スタート地点から700m)。
落差は2段合わせて25~30mはありそう。
踏み跡はこの滝の手前で途切れました。
高巻きするならここから20mちょっと戻って、右岸をよじ登るしかないのだけど、帰りのことを考えるとザイルはあったほうがいいです。
てか、ザイルなしでここから先へ進むのは無謀であると判断。
体力もかなり消耗していたことだし、藪こぎで辟易していたのでここで撤退しました。

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一ノ滝の少し手前にあった露天掘り跡。
滝の落ち口の左岸側、直線距離で50mほど先の小沢に黒い坑口のようなものも視認できましたが、すでに撤退モードに入っていたので、登って確かめることはしませんでした。

それにしても、ミックンといい小林氏といい、あの滝を高巻きしてさらに上流へ行ったわけですよね。
ひたすら尊敬します。
そして、明治~大正時代(江戸時代の元禄期には既に開発されていた可能性も高い)にこれらの坑口で働いていた坑夫の人たち、やはりすごいです。
先日、夏目漱石の小説「坑夫」を読み終えたばかりなのですが(村上春樹の海辺のカフカで取り上げられていたため、読んでみたくなった。足尾銅山が舞台でもあるし)、匍匐前進で進まなければならない二番目の坑道を目の当たりにすると、坑夫の主人公が地底へほうほうの体で降りていった下りを思い出し、身が引き締まる思いがしました。




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八前沢銅山付近の露天掘り跡 [鉱物 (弥彦山周辺・八前沢銅山)]

かつて弥彦山山麓には6箇所前後の鉱山があったのですが、いずれも情報が少なく、坑口の位置が不明な鉱山がほとんど。
それでも鉢前鉱山に関してはおおよその位置をつきとめたのだけど、まずは現地に行って調査してみないことには何とも言えません。
珍しく晴れ間が覗いた2月2日、弥彦山麓を訪れました。
1時間ほどあっちの沢、こっちの尾根という具合に心当たりの場所を歩き回ったのですが、成果なし。
少し場所を変え、改めて道なき道を歩き始めたら、すぐ大きな岩場が目の前に出現。
これは怪しいと裏側に回り込んでみたら、ようやく露天掘りの跡を見つけました。

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結構高さがあるので、縦アングルで撮影。
ちょっと感動です。
これが鉢前鉱山のものかどうかはわからないけど、かなり古そう。
鉢前鉱山の歴史もあまり正確なことはわかっておらず、明治~大正年間にかけて稼働していたと思うのですが定かではありません。

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奥行きは3mくらいでしょうか。
ストロボを焚いて内部を撮影。

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基本的には銅を採っていた鉱山なのですが、ところどころ写真の緑色凝灰岩が見られました。
ある資料によると、間瀬の銅山産業が衰退し始めた頃、ある事業家が鉱山技術を生かして新しい事業を画策。
そこで考え出したのが、山中で見られる緑色の硬い材質の石を加工し、水石として売り出すこと。
この石の学名を緑色凝灰岩という、と資料には書いてあるので、多分これがそれではないかと。
要はグリーンタフのことなのですが、この岩場のそれは日本海側の田野浦海岸あたりに見られるグリーンタフとは違い、とても硬かったです。

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また、壁面のところどころに、ちょっと見づらいですが数ミリの針状の結晶が生えていました。
多いところでは何十本も。
触ると硬く、何かの鉱物だとは思うのですが、調べてもわかりませんでした。

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この洞窟、動物のすみかになっているみたいで、入り口にはこのような排泄物が・・・
弥彦山系には熊は生息しないので安心なのですが、何の動物かな?

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周辺の風景です。

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そこからやや上がったところに、もう一箇所の露天掘り跡がありました。
大きさは先の洞窟の1/3に満たないですが。
岩の種類は全く同じでした。

※2022/04/13追記:
おそらく鉢前銅山=八前沢銅山だと思います。




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