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これが太刀川鉱山?それとも? [鉱物 (弥彦山周辺・太刀川鉱山)]

4月1日、弥彦山スカイラインが開通しました。
天気もいいので、早速上へ上がって双眼鏡片手に斜面をしらみつぶしにチェック。
多宝山への登山道がスカイラインを横切る地点に車1~2台停められる路肩がありますが、その辺りから宝川源流部や、弥彦山に連なる支尾根をじっくりと観望。
山頂駅手前の駐車場から眺めるともっとよくわかりますが、多宝山の西斜面、標高350~400mにかけて大岩壁が連なっています。
その下には、荒々しい地肌をさらけ出している大きなガレ場も見え、今日はその下まで宝川を遡行する予定。
宝川の源流部に目を転じると、青々とした草原が目に入り、細い流れに並行してはっきりとした踏み跡が沢に沿って伸びているのが見えました。
こんな上流部に明瞭な踏み跡が残っている・・・
昨年から間瀬銅山の一角をなす太刀川鉱山の場所を突き止めようとしているのですが、なにせ資料が間瀬郷土史&岩室村史以外に皆無なので手詰まりになっています。
確かなことは、坑口は宝川上流にあること、間瀬銅山(たぶん事務所起点)から東南に15町(約1600m)に位置することぐらい。
鉱区変遷の資料からは、太刀川藤十郎さんが所有しており、そこには多宝鉱山と記されています。
方角が正確なら、その位置にあるのは明神沢立坑。
まだそっち方面には行ったことがないので推測なのですが、郷土史の絵図には坑口が5つ記されています。
しかし、明神沢立坑口周辺で他に坑口を見たという情報はありません。
となると、もうひとつの可能性は、多宝山の西斜面に源を発する沢(こっちが宝川本流?)沿いに坑口があるのではないかと。
こちらなら多宝山のピークにもより近くなるので、多宝鉱山というネーミングがしっくり来るのです。
それで2月下旬に宝川と弥彦山への登山道が分かれる地点の周辺を下見、宝川本流方面にもかすかな踏み跡が付いていることを確認しました。
やはり一度は明神沢ではなく、宝川本流を詰める必要があります。

tachikawa.jpg

下流部は省略。
最終堰堤を過ぎても、踏み跡は部分的に残っています。
開放的な地形なのでどこを歩いてもよく、それで踏み跡があるようでないような状態なのでしょう。

IMG_8642.jpg

堰堤を過ぎてから数十メートル先の河原。
傾斜も緩く、歩きやすいです。
この日はフェルト底の沢靴ではなく、普通の登山靴で歩きましたが、今回歩いた範囲に限っては沢靴の必要性は感じませんでした。

IMG_8644.jpg

途中3つくらい滝らしい滝を通過したのですが、この滝が最も落差があり(約10m)、かなり気を使いました、特に下山時!
ここは左岸から高巻き。
上部1/3は、流れる水のすぐ右横を通過しました。

IMG_8652_53p.jpg

さて、いよいよ核心部に突入。
左斜め前方に、当初の目的地である大きながれ場が現れました。
この辺に限って、岩は赤茶色をしているものが多かったです。

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がれ場上部。
後述しますが、ここに坑口が存在していた可能性もあります。

IMG_8660.jpg

この先でやっと馴染みの鉱物を発見。
方解石です。
この岩の水中に没している部分に大きな脈が付いていました。
でも、これだけ。
白もしくは半透明な石しか探していませんし、時間の関係上立ち止まって探すことは一切する余裕がなかったので、今回カメラを向けたのはこの結晶だけです。

IMG_8663.jpg

今回の最終到達地点はここ(前方に見えている滝の手前)。
その先は足を濡らして滝を直登しないと上へ進めなかったので、今回はここで折り返しました。

IMG_8664.jpg

そして、帰りにここで坑口らしき地形を発見。
右手に小沢が合流しているのですが、合流点から30m先に四角い穴が・・・

IMG_8668.jpg

人工的に作られた地形のように思います。
自然の造形にしては真四角すぎる。
また、穴に至る沢筋もズリ石が積み重なっているような雰囲気が漂っていました。

IMG_8672.jpg

内部はすぐ塞がっていました。
しかしなんとなくですが、人の手によって塞がれたような気配が感じられるのです。

IMG_8677.jpg

そこから100mくらい下流の左岸にも、坑口らしきものがありました。
どうも縦長の二等辺三角形型に穴が空いているようで、しかしながら2/3ないしは4/5が厚い腐葉土に覆われています。
足に力を入れて踏み込んでみても、全く硬いものが足の裏に当たる感覚がなかったので、その厚みたるや数十センチでは利かないものと思われます。
そして、最初の地図を御覧頂きたいのですが(青い旗が今回見つけた坑口)、ちょうど真ん中の対岸にがれ場があり、そこに坑口があったとすると概ね絵図と一致するのです。
絵図の川の向きを地形図に合わせると、さらに一致度は高くなります。
といっても、今回はスカイライン上から双眼鏡で見た踏み跡のある斜面までは到達しておらず、もっと上の方に本来の坑口がある可能性もあります。
つまり、その踏み跡は坑口への通勤路として作られたという解釈で。

IMG_8679.jpg

これも帰りに気づいたのですが、最終堰堤の近くに石垣が残っていました。
それに沿って踏み跡らしき地形も残っていたのですが、そちらは不明瞭でして、ぼくがカメラを構えている地点により明瞭な踏み跡があります。
また、この右手、尾根に付け根にも尾根上部に向かって伸びている踏み跡が残っていました。
全体的な感想ですが、開放的な地形が連続するので、弥彦山系のぼくが遡行した沢の中ではもっとも快適な沢歩きができました。
この沢は坑口探し抜きにして、もう一度来てもいいかなあと思った次第。

※2023/03/30追記:
郷土資料の今井氏の記憶に頼って作成した絵地図だとこの沢が怪しいということで太刀川鉱山としましたが、間瀬銅山の鉱区変遷等の史料によると、多宝鉱山の鉱業権者が太刀川藤十郎となっており、それだと太刀川鉱山=多宝鉱山ということになります。
それに加えて、大正5年~大正10年まで記載がありますので(ただし、生産量は未記入)、そこそこの規模があった鉱山のはず。
今井氏の絵地図はそもそもデタラメに近いほどいい加減ですし、太刀川鉱山=多宝鉱山説を支持したいところです。この沢の探索記録は残しておきたいので、記事は削除しませんが。

※2024/02/01追記:
とうとう太刀川鉱山の場所がわかりました。
やはりこの沢の上流でした。
しかしながら、郷土史にも書かれている5つの坑口がある位置はもっと上流なので、ぼくが取り上げた怪しい地形は全て坑口ではありませんでした。

弥彦全体図_多宝.jpg

出典:採掘権第202号 鉱山名 多寶鉱山もしくは太刀川鉱山
明治37年宮川伝四郎設定、明治40年太刀川弥十郎へ譲渡、昭和3年太刀川藤一が相続、昭和9年放棄(消滅)

これで様々な疑問が一気に解消しました。






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