鹿瀬鉱山のすべて (5) [鉱物 (阿賀町・鹿瀬鉱山)]
鹿瀬鉱山シリーズ最終回。
この岩峰の左右に坑口群があります。
どれが長盛ヒ、大正ヒ、新盛ヒなのかはわからないけれど、まあ壮大です。
奥行き5mくらいしかありませんでした。
このような狸掘りに毛の生えたような坑道がたくさんあります。
こちらもそう。
まだまだたくさんあったのですが、きりがないので写真は撮りませんでした。
こちらは長そうです。
そして引立。
これは鉄索の土台でしょうか、それとも?
20年前までは渡ろうと思えば渡れたのですが、今はもうダメですね。
この岩峰の左右に坑口群があります。
どれが長盛ヒ、大正ヒ、新盛ヒなのかはわからないけれど、まあ壮大です。
奥行き5mくらいしかありませんでした。
このような狸掘りに毛の生えたような坑道がたくさんあります。
こちらもそう。
まだまだたくさんあったのですが、きりがないので写真は撮りませんでした。
こちらは長そうです。
そして引立。
これは鉄索の土台でしょうか、それとも?
20年前までは渡ろうと思えば渡れたのですが、今はもうダメですね。
鹿瀬鉱山のすべて (4) [鉱物 (阿賀町・鹿瀬鉱山)]
これから紹介する坑口群は、長盛ヒ・大正ヒ・新盛ヒのいずれかに属する坑口群です。
数が多いので、さらに2回に分けて掲載します。
これらの坑口群の発見に至ったのは、このズリからでした。
滞水していますが、その先には・・・
なんと、トロッコの木製レールが残っていました。
引立。
再び山中でズリを発見。
ズリを追って登ります。
とんでもない急斜面に坑口が現れました。
後ろにこれ以上引けないので、坑口の全体像は写せません。
ここを乗り越えないと先には行けないようです。
結構長い・・・
ここが引立でしょうか。
天井が高いです。
坑口を出たところ。
この先は踏み跡が途絶えていますが、ここまではピンポイントで急な岩場を縫うように踏み跡があったんです。
数が多いので、さらに2回に分けて掲載します。
これらの坑口群の発見に至ったのは、このズリからでした。
滞水していますが、その先には・・・
なんと、トロッコの木製レールが残っていました。
引立。
再び山中でズリを発見。
ズリを追って登ります。
とんでもない急斜面に坑口が現れました。
後ろにこれ以上引けないので、坑口の全体像は写せません。
ここを乗り越えないと先には行けないようです。
結構長い・・・
ここが引立でしょうか。
天井が高いです。
坑口を出たところ。
この先は踏み跡が途絶えていますが、ここまではピンポイントで急な岩場を縫うように踏み跡があったんです。
2024-05-13 10:13
鹿瀬鉱山のすべて (3) [鉱物 (阿賀町・鹿瀬鉱山)]
”本邦鉱業ノ趨勢”(大正7)からの抜粋です。
文章は現代語に訳してみました。
「5月から8月にかけて新たに通洞百八十尺(55m)を開墾し、鉱石や捨石の搬出に複胴式電気巻き上げ機の据付を計画。目下工事は進行中であり、大正7年4月竣工予定。」
鹿瀬鉱山で少なくとも10個以上の坑口を見つけてきましたが、唯一洋風の造りだったのがこの坑口。
レンガ造りの洒落た設計。
最下部にあり、これがくだんの文献に書かれている通洞ではないか、と睨んでいます。
内部は崩落していますが、右下にかろうじて15cmほどのスペースがあり、水がチョロチョロと流れています。
排水目的も兼ねていたのではないかと。
これが通洞坑であるなら、その先に上層階があるはず。
そして、通洞からの距離もおおむね50~70mの斜面に坑口が現れました。
入口は狭く、しばらくは危険なガレ場が続きます。
ここも5年後には入坑不可能になっているかも。
内部は立体的な構造で、あらゆる方向に採掘の手が及んでいます。
大正時代の職人芸が見られる地底空間。
鹿瀬鉱山、恐るべし。
坑道の隙間から下層階を写しました。
あれが通洞からの坑道でしょうか。
こちらは天井を写しています。
斜坑気味に下に伸びている坑道を辿って、通洞からの坑道に到達。
完全に水没していますが、坑木は太く長く、本来の坑道はかなり大きかったものと思われます。
別なルートを探して、最下層の坑道へ来てみました。
ここも30cmくらいしか隙間がなく、両手を伸ばしカメラだけを隙間に入れて写しています。
予想通り、通洞からの下層世界はかなりの規模であることがわかりました。
水深は80cm前後ありそう。
ちなみに、1枚目の通洞坑入口は前方左側奥になるはず。
今となっては確かめようもないですが。
文章は現代語に訳してみました。
「5月から8月にかけて新たに通洞百八十尺(55m)を開墾し、鉱石や捨石の搬出に複胴式電気巻き上げ機の据付を計画。目下工事は進行中であり、大正7年4月竣工予定。」
鹿瀬鉱山で少なくとも10個以上の坑口を見つけてきましたが、唯一洋風の造りだったのがこの坑口。
レンガ造りの洒落た設計。
最下部にあり、これがくだんの文献に書かれている通洞ではないか、と睨んでいます。
内部は崩落していますが、右下にかろうじて15cmほどのスペースがあり、水がチョロチョロと流れています。
排水目的も兼ねていたのではないかと。
これが通洞坑であるなら、その先に上層階があるはず。
そして、通洞からの距離もおおむね50~70mの斜面に坑口が現れました。
入口は狭く、しばらくは危険なガレ場が続きます。
ここも5年後には入坑不可能になっているかも。
内部は立体的な構造で、あらゆる方向に採掘の手が及んでいます。
大正時代の職人芸が見られる地底空間。
鹿瀬鉱山、恐るべし。
坑道の隙間から下層階を写しました。
あれが通洞からの坑道でしょうか。
こちらは天井を写しています。
斜坑気味に下に伸びている坑道を辿って、通洞からの坑道に到達。
完全に水没していますが、坑木は太く長く、本来の坑道はかなり大きかったものと思われます。
別なルートを探して、最下層の坑道へ来てみました。
ここも30cmくらいしか隙間がなく、両手を伸ばしカメラだけを隙間に入れて写しています。
予想通り、通洞からの下層世界はかなりの規模であることがわかりました。
水深は80cm前後ありそう。
ちなみに、1枚目の通洞坑入口は前方左側奥になるはず。
今となっては確かめようもないですが。
鹿瀬鉱山のすべて (2) [鉱物 (阿賀町・鹿瀬鉱山)]
下山坑下部の坑口。
入口はほとんど埋もれかけており、ひょっとしたらあと数年で完全に埋没してしまう可能性もあります。
坑内は縦横無尽に坑道が掘られており、支保工や坑木など、あちこちに多数散乱しています。
上部の坑道よりこちらの方が全体的に規模が一回り大きい。
こちらが下山1号坑なのでしょうか?
坑道にはトロッコ軌道の痕跡が残っています。
坑道は一直線というわけではなく、複雑に交差と分岐を繰り返します。
おそらくこれが主坑道なのだと思うけど、途中から斜坑となり、まだまだ続いているようでした。
とある分岐。
どちらの方向も崩落。
もしかすると正面の坑道の先に、一番上の坑口の途中から垣間見えた、下層レベルの坑道が待ち構えているのかもしれません。
立坑もありました。
中心部の広場の一部。
その広場の片隅に、幅1.5m四方のレンガ造りの建造物がありました。
レンガとレンガの間から銅の成分がにじみ出ていました。
坑内の複数箇所で青緑~緑~空色の銅の二次鉱物(孔雀石and珪孔雀石)が見られましたが、いずれも面積は小さく、数センチ程度。
ほとんど見るべき鉱物はなかったのですが、鉄錆に覆われているとはいえ、大きな水晶クラスターを見つけました。
かなり大きめの晶洞をたまたま見つけたのですが、その内側がびっしりと水晶に覆われていたのです。
それにしても鉄錆がひどい。
こういう産状ははじめて見ました。
鹿瀬鉱山のすべて (1) [鉱物 (阿賀町・鹿瀬鉱山)]
今年の春、4回に渡って調査した鹿瀬鉱山。
ほぼ全容が明らかになったので、数回に分けてレポートしたいと思います。
まずは沿革から。
開山は明治37年。
当初は美濃和鉱山と称していたが、大正2年に鹿瀬鉱山と改名。
銅の精鉱量は大正元年1.9t、大正2年36t、大正3年102t、大正4年207t。
正確な閉山時期は定かではありませんが、昭和2年までは銅の精鉱量のデータが有り、それによると昭和2年のそれは10t。
ピークは大正時代5~7年頃だっと見え、大正5年のそれは1532tとかなりの産量を誇っていました。
一方鉱業権者の変遷をみると、昭和14年に東京の高橋芳雄氏に鉱業権が移譲されているので、昭和初期まで稼行していたのは確かなようです。
大正5年の文献によると、主要な鉱脈は下山坑の1条だとあり、下山1号坑と2号坑を開発していた模様。
角神方面に向かって、長盛ヒ、大正ヒ、新盛ヒの3鉱脈を探鉱中であるとの記述が見られます。
4回の調査で、確かに角神方面にかけても幅広く、そして多くの坑口や狸掘り跡を確認しましたが、下山坑以外はそれぞれの鉱脈の範囲がわかりません。
なので、下山坑とそれ以外と2つに大別して紹介したいと思います。
まずは下山坑から。
今も残る選鉱場の廃墟。
隣接して大きな石垣が数段に分かれて残っています。
石垣と石垣の間には、それぞれこのような遺構が人知れず眠っています。
このガラス瓶も当時のもの(昭和初期?)でしょう。
一番上の坑口。
途中で下のレベルを垣間見ることのできる窓?が出現。
その先にも、左側に別な下層世界を覗ける展望スペース?が現れました。
ということは、この坑口より下にも坑口があるはず。
のちの調査でその坑口を発見することができました。
主坑道は途中で崩落。
ほぼ全容が明らかになったので、数回に分けてレポートしたいと思います。
まずは沿革から。
開山は明治37年。
当初は美濃和鉱山と称していたが、大正2年に鹿瀬鉱山と改名。
銅の精鉱量は大正元年1.9t、大正2年36t、大正3年102t、大正4年207t。
正確な閉山時期は定かではありませんが、昭和2年までは銅の精鉱量のデータが有り、それによると昭和2年のそれは10t。
ピークは大正時代5~7年頃だっと見え、大正5年のそれは1532tとかなりの産量を誇っていました。
一方鉱業権者の変遷をみると、昭和14年に東京の高橋芳雄氏に鉱業権が移譲されているので、昭和初期まで稼行していたのは確かなようです。
大正5年の文献によると、主要な鉱脈は下山坑の1条だとあり、下山1号坑と2号坑を開発していた模様。
角神方面に向かって、長盛ヒ、大正ヒ、新盛ヒの3鉱脈を探鉱中であるとの記述が見られます。
4回の調査で、確かに角神方面にかけても幅広く、そして多くの坑口や狸掘り跡を確認しましたが、下山坑以外はそれぞれの鉱脈の範囲がわかりません。
なので、下山坑とそれ以外と2つに大別して紹介したいと思います。
まずは下山坑から。
今も残る選鉱場の廃墟。
隣接して大きな石垣が数段に分かれて残っています。
石垣と石垣の間には、それぞれこのような遺構が人知れず眠っています。
このガラス瓶も当時のもの(昭和初期?)でしょう。
一番上の坑口。
途中で下のレベルを垣間見ることのできる窓?が出現。
その先にも、左側に別な下層世界を覗ける展望スペース?が現れました。
ということは、この坑口より下にも坑口があるはず。
のちの調査でその坑口を発見することができました。
主坑道は途中で崩落。