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広谷鉱山蝉匕三番坑とその周辺 [鉱物 (阿賀町・広谷鉱山)]

①広谷鉱山でこないだ見つけた坑口群は蝉匕のものか、それとも蛍匕のものか?
②また、長さ30mほどのトレンチの延長線上に坑口はないのか(あるとすれば二番坑)?
③対岸から見える坑口の正確な場所を突き止め、可能ならば入ってみる
④蛍匕の手がかりを掴む

直感で今まで見つけた坑口群は蝉匕のものではないかと思っていましたが、25日の3回目の実地調査により、ほぼそれが確実となりました。

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慰霊碑の立つ広場からおよそ600mほど登山道を歩き、対岸に何か坑跡はないかをまず調べたのですが、前回見つけたこの坑口以外には見当たりませんでした(ただし、この2週間の間に新緑は夏場と同じくらいまで成長し、対岸の地表がほとんど視認できなかったので、その事実は割り引く必要がありますが)。
やはりというか、この坑口は前回5月15日の記事の上から7枚目の坑口群のほぼ真上に位置するのでした。

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慰霊碑前まで戻り、広谷川の河原へ降りるにはこの広場(選鉱場跡)を必ず通るのですが、カラミを幾つか見つけました。

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基本的には草倉銅山に鉱石を送り、草倉側で精錬していたようなのですが、後期には自前の精錬場を作り、そこで精錬もやっていた模様。
閉山間際には広谷川と室谷川が出会う地点に精錬場を移転したようなのですが、この広場には間違いなく精錬場も立っていたようです。

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標高300~320mにかけての平坦な林間を、前回見つけたトレンチ(上の写真)を探して歩きますが、一旦林の中へ入ると距離感がつかめなくなり、どこを歩いているのかよくわからなくなります。
かなり時間がかかりましたが、ようやくトレンチを発見。
最初はトレンチの延長線上に坑口(二番坑)がないか、かなり上まで登ってみたのですが、ちょっとわかりませんでした。

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広大な林の中には、けばけばしい色のきのこも生えていました。
これはアカタケのようです。
多分毒キノコだろうなと思い、写真を撮るだけに留めたのですが、やはり毒キノコなのでした。

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トレンチを今度は谷側に下っていくと、前回も右往左往した絶壁の上に出ました。
前回5月15日の記事で上から4番目の写真が、対岸に見えていた大きな坑口なのでした。
今回もなんとか入れないか坑口の前後左右を歩き回りましたが、唯一侵入可能なルートは坑口の真下の斜面を登るしかなさそう。
しかし、前回なんとか降り立った河原から上を見上げても、切り立つ岩壁ばかりで、この坑口が直接見えないせいもあり、どうしてもルートがわからなかったのです。
下の河原に降りるには装備が整っていたとしてもかなりの危険を伴うので、今回は見合わせました。
そこで、前回よりはさらに絶壁から身を乗り出し、坑口の存在がわかるような写真を撮ることでお茶を濁した次第。
本当に鉱員の方々はどのようなルートで入坑していたのだろう?
不思議です。

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この坑口の北側には上下に坑口があります。
そして今回、新たに坑口のトレンチを挟んで反対側(南側)で坑口を確認しました。
直径3mくらいの、思い切り凹んだ窪地があり、それを取り囲むように坑口が少なくとも二つありました。
これはそのうちの一つ。
苔むしている部分は、実は複数の支保工なのです。
脇の僅かな隙間から、奥に空間が広がっていることを確認しました(竪坑のようでした)。

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ちょっと見にくいですが、これもすり鉢状の窪地の上端に口を開けていた坑口。
こちらも竪坑の入り口のようでした。
ということは、前回発見の坑口も含めて全体像を俯瞰すると、「・・・上下に前匕、東西奥匕共八分通り採掘す」という文献の記述になんとなくですが合致しているのです。

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これらが広谷鉱山の主な採掘区だった蝉匕鉱床に属するものだとすると、次なる疑問はもう一つの採掘区である蛍匕はどこ?という問題。
上の写真に錆びた標柱が写っていますが、ここは林道終点の駐車場から約500mの地点にある、もう一つの広場の一部です。
ここにズリが広がっていることから、広谷川を挟んで対岸に坑口が控えているのではないかと閃き、少し周辺を調べてみました。
崖の縁までここから踏み跡が付いており、そこから下の河原までは慰霊碑前の広場から河原までの高さ以上に高さがあるのですが、なんとか降りられそうな気がしました。
樹木が密生しているので対岸の様子は全くわからないのですが、こちらの広場にも何らかの施設が立っていたと思われる地形が見られるし、ここが蛍匕の入り口であると感じた次第。






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広谷鉱山探訪記 (4) 鉱脈の詳細など [鉱物 (阿賀町・広谷鉱山)]

帰宅後、本腰入れて広谷鉱山の資料を探したら、意外なことにとても詳細な文献をいくつか見つけることができました。
そこには鉱脈の詳細が書いてあったのです。
それは驚くべき内容でした。
主な鉱脈は二つあり、一つは蝉ヒ、一つは蛍ヒ。
(※鉱脈は全部で3条あると書いている文献もありました。)

①蝉ヒの詳細
下から、大切疎水坑道、三番坑、二番坑、一番坑がある。
大切粗水坑道の総延長は432mあり、うち252mを採掘済(文献では長さの単位に間が使われていますが、ここではメートルに換算し、小数点以下四捨五入して書き直しています)。
三番坑の長さは324m、二番坑は227m、一番坑は54m。
大切疎水坑道と三番坑間の標高差は22m、三番坑と二番坑間の標高差は32m、二番坑と一番坑間の標高差は14m。
坑道の幅は90cmから1.8mある。

②蛍ヒの詳細
下から通洞坑、三番坑、二番坑、一番坑がある。
通洞坑は走向に沿って20mを採掘済。
通洞坑と三番坑間の標高差は36m、三番坑と二番坑間の標高差は32m、二番坑と一番坑間の標高差は32m。
地表から最上部の一番坑まで、高さが126mある。
どの坑道も90m(高さ平均22m)を採掘済。

また蝉ヒに関しては、各坑道について次のようにさらに詳しく書かれています。
*大切疎水坑道:奥ヒの東部割ヒおよび西部割ヒを採掘す。
       疎水坑道以下は平均20mの深さに掘り下り、その10分の4を採掘す。
*三番坑:324mのうち252mは、上下に前ヒおよび東西奥ヒ共に8分通り採掘す。
*二番坑と一番坑についてもこんな感じで書かれているのですが、以下省略。

それぞれの鉱脈は上下に展開しているようで、下から上までかなりの標高差があります。
斜面の上の方は全く坑口を視認できなかったので、2日後の5月12日は河床に近い、排水孔もしくは通洞坑と、そこから20~30m上に位置するであろう三番坑の発見を目標に、改めて現地を訪れた次第。

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河原から右岸尾根に登るかすかな踏み跡がありました。
地形図を見ると、30~40mも登ればフラットな地形が出てきます。
まずはそこを目指しました。
平らなところへ行けば、林内に何らかの施設の痕跡や踏み跡が残っているかもしれないからです。
フラットな地形へ出ると、ヤブはほとんどなく見通しは良かったです。
しかし、踏み跡らしい踏み跡はない。
広い林内をあちこち歩きまわっていたら、なんとトレンチの溝(高さ1.5~1.8m、幅1~1.3m)を発見。
そこに沿って谷側に下っていくと傾斜が増し、そこから先はザイルを使わないといけない状況に。
この日初めてザイル(といっても8mmX13mの補助ロープ的なものですが)を取り出し、坑口がありそうな場所へ降下。
そして現れたのが上の写真の坑口です。

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斜坑となっており、右斜め下方向に坑道は伸びているようでした。
また2段構造になっており、右側上部に2m近く掘った跡が残っていました。

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そこから少し下ったところからの風景。
これ以上下るには再びザイルを使わないといけません。
このルートはあきらめ、来たルートを戻り、痩せ尾根の反対側で降りられそうなところがないか探しました。

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ナイフリッジ的な岩稜を降りていくと、縦長の坑口が隠れているのを発見。
しかし、このアングルが精一杯。
身を乗り出してよく観察すると、真下からなんとか登っていけそうです。
しかし、真下の河原までの生き方がわからない。
距離感がつかめないのです。

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その付近の岩稜から下の河原方面。
フラットな林内の川側の縁は微妙に地形が入り組んでいて樹木も密生しており、ごく限られた場所からしか下を見下ろすことができません。
昨日の記事で上から2番めの写真の坑口も見つけたかったですが、全然わかりませんでした。

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ここもトレンチの延長線上だったと思います。
正面奥に20cmの太さの支保工が隠れていました。
左側の隙間から広そうな空間の一部を覗くことができ、かつては写真に写っている落ち葉の辺り全てが坑口だったことが想像できます。

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結局この日はザイルを3回使いました。
前回対岸の登山道から見た、河床に近い側の坑口を探すには河原に降りることが必要。
その坑口だけ大体の位置がわかっていたので、なんとか見つけることができました。
いざ河原に来てみると、上からでは死角になって見えない坑口も見ることができ、大興奮。

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まずは左側の坑口から。
位置的にも事実上の排水孔(=疎水坑道)だと思うのですが、7~8m先で閉塞しています。
もっと長ければ文献で言うところの、蝉匕の大切疎水坑道か、蛍ヒの通洞坑だと思うのですが、違う場所なのだろうか?
崩落した風でも、人の手で封鎖したようにも見えないし、??です。

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こちらは中央上部の露天掘り跡と思われる地形。
拡大してよく見てみると、右側の草付きとの境目に大きな穴がありそう。
左側もしかり。
ということで、坑口確定。

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こちらは一番右側、長方形の露天掘り跡のすぐ上に見える坑口を望遠側で写してみました。
現場では気付かなかったのですが、入り口の壁面に青緑色の二次鉱物が付いています。
暗部をフォトショップで思い切り持ち上げてみると、その1m奥にもそのような部分が見られます。

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これも坑口です。
どの辺りで撮ったか、忘れました。
前回の記事で上から2番目の写真の坑口は見つけることができなかっただけでなく、3枚目の写真の場所も見つけることが叶いませんでした。
多分、もう少し上流側に位置すると思うのですが・・・
3枚目の写真の河原に近い側にも坑口が見られるので、ここも蝉ヒもしくは蛍ヒの一部だと思う次第。
その上に大きな坑口がありそうなので、それは三番坑。
今回最初に見つけた坑口と、河原にあった坑口との標高差は約22mでした。
文献に照らし合わせると、蝉ヒの大切疎水坑道と三番坑の高低差と一致します。
蝉匕の三番坑は、上下に前ヒ、東西奥ヒともに八分通り採掘すと書いてあるわけですが、なんとなく今回発見した坑口群の全体の位置関係に似ているので、これらの坑口は蝉ヒのものではないかと思うのですが、まだまだ決め手がありません。
今後の探索計画としては、今回見つけられなかった坑口を探すのはもちろんですが、探索範囲を上部に拡大し、二番坑と、できれば一番坑も探そうと思っています。

※参考文献:
本邦鉱業一班 (明治40年)
東京鉱山監督署 鉱業総覧 (明治36年&42年)
採鉱法調査報文 第一回 (明治40年)
新潟県東蒲原郡西川鉱山黒鉱鉱床調査報告 (昭和28年)









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広谷鉱山探訪記 (3)広谷川の渓谷美 [鉱物 (阿賀町・広谷鉱山)]

選鉱場跡の広場へ来る前に、登山道を湯沢の出会いまで歩いてみようと思い、いったんは登山道を上流側へしばらく歩いて行ったのです。
この時点で広谷鉱山の坑口がどこにあるのか、資料には全く位置が記されていないので知る由もありません。
そうこうするうちに、対岸に坑口発見。

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河床に近い河原にかなり大きな坑口。

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今歩いている登山道と同じくらいの高さにも坑口あり。

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これはそこよりやや上流だと思うのだけど、一番下に坑口があり、そこから標高差で多分10mくらい上がった岩場に大きな坑口が待ち受けていそうな地形が見られます。
これはすごい。
あとから思えば、やはりあの選鉱場跡から程遠くない所に実際の採掘現場があったのです。
それにしても、対岸からは樹木が邪魔でごく狭い範囲からしか坑口が見えません。
あと1ヶ月したら、間違いなくこれらの坑口も見えなくなることでしょう。

それで慰霊碑の建つ広場まで引き返し、そこから比較的斜度がゆるそうな斜面を降りていったら選鉱場跡を見つけたという次第。
ここから真下の河原を見ると一見絶壁なのですが、絶対どこかに降りていくルートがあるはずと思い、あちこち探してみたらすぐルートがわかりました。
ピンポイントでそこしかありませんでした。
で、めでたく河原への降下作戦成功。

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予想はしていましたが、本当に美しい渓相で、来てよかったと大満足。
しかし、そもそもここからどのくらい上流に先程見つけた坑口が位置するのか全く見当がつかなかったし、対岸も絶壁に近く登れそうになかったので、取りあえず浅瀬を選んで遡行開始。

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なかなか坑口は出てきません。
結局、一番奥に見える落ち込みの手前までなんとか行ったのですが、そこがプールになっており、泳がないと突破できないためプールの手前で引き返しました。
おそらく落ち込みを超えて左にカーブすれば、20m先に河床に近い側の坑口が待ち受けているはずと読んだのですが(それで正解でした~2日後に再度アタック、今度は無事坑口までたどり着けたのです)。




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広谷鉱山探訪記 (2) 選鉱場跡と沿革など [鉱物 (阿賀町・広谷鉱山)]

広谷鉱山の沿革について述べたいと思います。
(参考文献のリストは次回か、その次にまとめて載せる予定。)
1回目の探索後、貴重な複数の文献と出会いました。
本当にマイナーな鉱山なら、これほど頻繁に文献には登場しないはず。
古河鉱業のバックアップがあったことからそれなりに大きな鉱山だったようで、坑口も複数個見つけました。
それらの写真は次回載せます。

①沿革
正確な起源は不詳。はっきりしているのは、明治7年に津川町の平田次八郎が3498坪を購入、稼業し始める。
(※新潟県東蒲原郡西川鉱山黒鉱床調査報告~昭和28年~では、明治の中頃土地の人・伊藤某が発見とありますが、国立国会図書館デジタルライブラリーで見た複数の、より詳細なデータを書いてある資料で明治7年とはっきり謳われているので、本邦鉱業一班(明治40年)の内容を採択します。)
明治14年、古河鉱業が買い取り、本格的に探鉱を開始。
鉱石は同じ古河鉱業傘下の草倉銅山に送って精錬したが、のちに広谷鉱山側にも選鉱場・製錬所を設けた。
完全閉山は昭和20年~30年の間であると思われる。
その根拠だが、昭和31年の資料に”現在休山中”と書かれており、昭和19年まではフォローできているため。
おそらく戦争バブルが弾けてから、時を経ずして閉山したのだろうと思われる(昭和22~24年頃?)。
なお、昭和19年の所有者は㈱昭永鉱業(社長:渡邉彦)。
※補足:昭和17年に創業した円山組株式会社(阿賀町)が、同年広谷鉱山の選鉱場と採鉱坑を請負施行したと、同社のHPに記載あり。

②探鉱法と鉱種など
階段掘りと抜掘法を併用。火薬もしくはダイナマイトも使った。
届け出は金銀銅となっているが、金銀の生産はほとんどなく、もっぱら銅を採掘していた。
生産量はいずれも銅で、57.8トン(明治38)・64.7トン(明治39)・107.8トン(明治40)
(※文献での表記は斤が使われていますが、ここではトンに換算して表記)
鉱脈は第三紀凝灰岩中に胚胎する黄銅鉱が主。鉱脈は数条あり。亜鉛や硫化鉄が混在するが、黄銅鉱そのものの純度は高い。
ちなみに、明治40年当時の坑夫の数は72人。その他(支柱夫、運搬夫、選鉱夫など)を合わせた従業員数は170人。
(※参考までに、同じ年の草倉銅山の坑夫の数は295人、総従業員数は585人であった。)

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枝沢の探索を終えたあと、本流の河原へ降りる途中で、登山道途中に現れる、ズリを伴う広場より3~4倍広い広場を見つけました。
まずは、道中見つけた関連施設の廃墟を登山道に近い側から紹介します。
最初坑口かなと思ったのですが、中を覗いてみると違うようです。
資材置き場かなんかでしょうか。

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できるだけヤブの薄い部分を歩いていくと、程なくして横長の構造物が現れました(専門用語でなんて言いましたっけ?)。
左側3m先にも高さ1.5m、長さ6~7mの石垣がありました。

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広谷川を見下ろす崖の上に、草木があまり生えていない広大な広場が出現。
こちらが選鉱場跡ですね。
他にどんな施設が建っていたのだろう?

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左側の、コンクリートの構造物の拡大写真。

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その先2mにある、何らかの構造物もしくは土台。

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中央の小高い畝の左右に広場が整地されています。
古写真、残っていないのだろうか?
往時の姿を見てみたい。

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広場の端から広谷川を見下ろすの図。
河原へ降りるルートはあるのでしょうか?










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広谷鉱山探訪記 (1)マラカイト化しつつある露頭 [鉱物 (阿賀町・広谷鉱山)]

阿賀町の三大鉱山と言えば、三川鉱山、持倉鉱山、草倉銅山の3つ。
そのうちの草倉銅山の支山として明治~大正時代に栄えたのが広谷鉱山です。
この鉱山に興味を持ったのは次の理由から。

①文献Aに「製錬所を広谷川と室谷川の合流点の南方・白岩に新設するなどし、一時相当な経営を行っている。」と書かれており、それなら相当大きな坑口が控えているのでは?
②広谷川源流からアプローチする、ロッククライマー垂涎のルートの一つである水晶尾根コースは、文字通り2cm前後のチビ水晶が岩のクラックにびっしり生えていることでも知られている。それならば、そこまで奥へ行かなくてもチビ水晶を含む石がズリや河原の転石で見られるかもしれない。
③鉱山跡を示す標柱の建っている場所まで、林道終点から20分前後で来ることができ、比較的アプローチ至便。
④文献Bによると火薬の使用も書かれており、完全閉山が昭和19~24年頃なので、やはり大きな坑口の存在は疑いようがない。

残念ながら坑口の位置を示す図面はどうしても見つけることができなかったし、鉱山跡の場所でさえある文献に図示されている場所と、地質図NAVIの地質図に示されている場所では違いがあったりと不安要素は多かったのですが、まずは現地へ行ってみなければ。

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御神楽岳の山開きは6月上旬なので、林道が整備されているか不安だったのですが、ノープロブレムでした。
思ったより道幅もあり、走りやすかったです。
ただし、終点手前100~150m付近で大きく道路がえぐれている箇所があり、そこは神経を使ったけど。
歩き初めてすぐ、右側に急峻な岩場が出てきます。
昔はもっと奥まで車で入れたそうですが、斜面の崩落により今は歩くのがやっとの道幅。
一箇所だけ路肩が消失していて、いったん3~4m下へ登り下りしないといけない悪場も出てきましたが、取りあえずは問題なく”鉱山跡”を示す標柱が立つ広場まで歩いていけました。

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林道終点からおよそ500mのところで、まず広場が出てきます。
ここには特に案内板は立っておらず、目指す広場ではありません。
しかしながらこの広場に鉱山関係の施設があったことは間違いないでしょう。
イエローがかった茶色に変色している部分はズリでした。
実はあとでここより4倍くらい広い、鉱山跡の本丸的広場を発見したのですが、そちらにはズリは一切ありませんでした。

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15cmくらいの鉱石です。
水晶と黄銅鉱、そして黄鉄鉱も多分見られます。

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金属質な部分のピクセル等倍画像。

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スタート地点から約900m、3基の慰霊碑の並ぶ例の広場へ到着。
この慰霊碑の写真は多くの方がネットにアップしているので、すぐわかりました。
右側に白い標柱が倒れていますが、そのうちの1本に”御神楽岳登山道鉱山跡”と書かれているのです。
しかし、この広場には鉱山関連施設の存在を忍ばせるものは皆無。
先を急ぎます。

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下調べして困ったのは、鉱山の位置を示す図面が資料によってまちまちだった点。
文献Aでは広谷川の支流をちょっと入ったところになっているし、地質図では広谷川の右岸になっている。
そもそも駐車場から歩いてきた登山道はひたすら川から20mほど上がった河岸段丘に付けられており、斜度も非常に急なので河原に降りるのは容易ではありません。
なので、まずは支流を探索してみることに。
この沢を標高差にして90mほど遡行しました。

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分岐のところで枝沢の方に直感が働いたのでちょっと登ってみると、出し抜けにピンクのテープが出てきました。
ピンクのテープはこの20m先でも出てきたので期待が高まったけど、結局何も現れず。
途中から傾斜もヤブも強烈になってきたので引き返し、分岐から左の沢を歩きました。

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その沢もこの滝で行き止まりとなり、ここでUターン。
高巻きする踏み跡が全く見られなかったので、採掘区はこの先にはないと判断。

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しかし、この滝壺の右端に孔雀石(もしくは珪孔雀石)の露頭がありました。
これは見事。

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ピクセル等倍画像。
指でこすっても手袋に全く色は移らなかったし、硬かったので苔ではありません。
広谷鉱山は銅メインに採掘していたので、銅鉱床のサインであるこのような銅の二次鉱物が出てきても不思議ではありません。
ちょっと感動。



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