深戸鉱山・一番下の坑口 [鉱物 (阿賀町・深戸鉱山)]
おそらく深戸鉱山で最も初期に開発されたであろうと思われる坑口を発見しました。
その坑口は扇型に拡がった斜面の上部にあり、斜面の入り口には石垣がありました。
そして、鉄製の鉱山遺構を発見。
トロッコのレールか何かでしょうか。
この上にあった坑口から、トロッコでこの平坦な斜面に鉱石を運んでいたのかな?
そこから少し上にはこれがありました。
坑口の出現は近い・・・
これが坑口です。
完全に埋没していますが、このすぐ左横にもらしい地形があり、本来はかなり大きかったかもしれません。
坑口直下の斜面には、ワイヤーが転がっていました。
この坑口周辺のズリで見かけた石英。
若干緑がかっています。
同じくその場所で針水晶。
アップで撮っているので大きく見えますが、実際は本当に小さいです。
この山はこのような産状の水晶が目立ちます。
その坑口は扇型に拡がった斜面の上部にあり、斜面の入り口には石垣がありました。
そして、鉄製の鉱山遺構を発見。
トロッコのレールか何かでしょうか。
この上にあった坑口から、トロッコでこの平坦な斜面に鉱石を運んでいたのかな?
そこから少し上にはこれがありました。
坑口の出現は近い・・・
これが坑口です。
完全に埋没していますが、このすぐ左横にもらしい地形があり、本来はかなり大きかったかもしれません。
坑口直下の斜面には、ワイヤーが転がっていました。
この坑口周辺のズリで見かけた石英。
若干緑がかっています。
同じくその場所で針水晶。
アップで撮っているので大きく見えますが、実際は本当に小さいです。
この山はこのような産状の水晶が目立ちます。
深戸鉱山・昭和の坑口 [鉱物 (阿賀町・深戸鉱山)]
大正時代のものと思われる(特に根拠はありませんが)二つの坑口からやや離れた場所に、一回り大きな坑口が控えていました。
見つけた時はちょっと感動。
坑口を入ってすぐ右側に、銅の二次鉱物が露出していました。
胆礬だったと思います。
なんと、この坑道にはトロッコが走っていたようで、枕木が敷かれていました。
ここには写っていませんが、金属製のレールが残存しているところもありました。
この規格の坑道は多分昭和のものでしょう。
どのくらい歩いただろう?
50m前後だと思うのですが、その先は落盤で進めませんでした。
途中、立坑が左側に顔を覗かせていたり・・・(ここにはレールが写っています)。
大きな立坑です。
これは深い・・・
坑木もレールも浮いているので、ぎりぎりまで接近できません。
両腕を伸ばして撮っています。
こちらはレンズを真上に向けて写しています。
ところどころ、上の方も採掘されていました。
こちらは中間地点の辺り。
この坑道内で、最も侘び寂びを感じた場所。
こんなに大きな立坑があるならば、どこかに出口があるかもと思い、ごくごく狭い谷地形を下っていったら坑口が現れました。
ほとんど塞がっていますが、標高差にして約20m、さっきの立坑に繋がっている可能性は十分にあります。
今となっては確かめようもないけど。
この鉱山はかなり広範囲にズリ、ないしはズリっぽいガレ場が見られ、このようなミリ単位の水晶が一定の割合で見られました。
これと同じ産状は、草倉銅山の上部でもよく見かけます。
見つけた時はちょっと感動。
坑口を入ってすぐ右側に、銅の二次鉱物が露出していました。
胆礬だったと思います。
なんと、この坑道にはトロッコが走っていたようで、枕木が敷かれていました。
ここには写っていませんが、金属製のレールが残存しているところもありました。
この規格の坑道は多分昭和のものでしょう。
どのくらい歩いただろう?
50m前後だと思うのですが、その先は落盤で進めませんでした。
途中、立坑が左側に顔を覗かせていたり・・・(ここにはレールが写っています)。
大きな立坑です。
これは深い・・・
坑木もレールも浮いているので、ぎりぎりまで接近できません。
両腕を伸ばして撮っています。
こちらはレンズを真上に向けて写しています。
ところどころ、上の方も採掘されていました。
こちらは中間地点の辺り。
この坑道内で、最も侘び寂びを感じた場所。
こんなに大きな立坑があるならば、どこかに出口があるかもと思い、ごくごく狭い谷地形を下っていったら坑口が現れました。
ほとんど塞がっていますが、標高差にして約20m、さっきの立坑に繋がっている可能性は十分にあります。
今となっては確かめようもないけど。
この鉱山はかなり広範囲にズリ、ないしはズリっぽいガレ場が見られ、このようなミリ単位の水晶が一定の割合で見られました。
これと同じ産状は、草倉銅山の上部でもよく見かけます。
深戸鉱山・大正時代の坑口 [鉱物 (阿賀町・深戸鉱山)]
かれこれ4回目の探索になるけど、ようやく深戸鉱山の坑口を探し当てることができました。
「本邦鉱業の趨勢」(昭和11年)によると、大正6年12月、鉱業権者の宮川謙が試掘権を設定。
昭和5年11月、㈱深戸鉱山が権利を譲り受け現在に至る、とあります。
昭和5年当時の鉱夫の数が23名。
昭和11年度の産出量は34tで、銅の品位は10~30%。
その後はいくつかの変遷を経て、昭和26年最終鉱業権者の㈱只見鉱業へ引き継がれたのですが、いつ閉山したのかは不明。
尚、新潟県地質図説明書(昭和30年)によると、昭和28年の従業員数は44名、生産量は銅の精鉱205tとあります。
道中、クマ捕獲の檻を二つ見かけました。
かなり上の方で石組みを発見。
溶鉱炉でもあったのかな?
そして、こじんまりとした広場にお決まりの一升瓶発見。
ということは、坑口は近い?
やっぱり近くに坑口が控えていました。
10m間隔で二つの坑口が並んでおり、こちらは右の方の坑口。
全長15~20mでしょうか。
続いて、左側の坑口に入ります。
こちらの方がやや天井が高い・・・
途中、立坑が控えていました。
立坑内部。
そして閉塞。
全長20~25mといったところでしょうか。
どちらの坑道も赤鉄鉱と石英の脈があちこちに析出していました。
「本邦鉱業の趨勢」(昭和11年)によると、大正6年12月、鉱業権者の宮川謙が試掘権を設定。
昭和5年11月、㈱深戸鉱山が権利を譲り受け現在に至る、とあります。
昭和5年当時の鉱夫の数が23名。
昭和11年度の産出量は34tで、銅の品位は10~30%。
その後はいくつかの変遷を経て、昭和26年最終鉱業権者の㈱只見鉱業へ引き継がれたのですが、いつ閉山したのかは不明。
尚、新潟県地質図説明書(昭和30年)によると、昭和28年の従業員数は44名、生産量は銅の精鉱205tとあります。
道中、クマ捕獲の檻を二つ見かけました。
かなり上の方で石組みを発見。
溶鉱炉でもあったのかな?
そして、こじんまりとした広場にお決まりの一升瓶発見。
ということは、坑口は近い?
やっぱり近くに坑口が控えていました。
10m間隔で二つの坑口が並んでおり、こちらは右の方の坑口。
全長15~20mでしょうか。
続いて、左側の坑口に入ります。
こちらの方がやや天井が高い・・・
途中、立坑が控えていました。
立坑内部。
そして閉塞。
全長20~25mといったところでしょうか。
どちらの坑道も赤鉄鉱と石英の脈があちこちに析出していました。
深戸鉱山敗退 [鉱物 (阿賀町・深戸鉱山)]
旧鹿瀬町の深戸鉱山へ。
(1916~1976年にかけて稼働。黄鉄鉱、黄銅鉱、石英などを採掘。)
行こうとしたけど、たどり着けませんでした。
グーグルアースの空中写真と地形図を照らし合わせると、間違いなくここだなと思える場所があり、そこを目指したのだけど・・・
古い林道の入り口に車を停め、そこから歩くこと5分で写真の広場に出ました。
いい感じ、いい感じ。
ここから野砂利川の河原へ降りると、目の前がお目当ての白い岩場でした。
グーグルアースで見ると岩場のように見えましたが、間近で見るとほぼほぼ粘土化している崖でした。
ここに来る途中もグリーンタフ的地層がメインでしたが、ちょっと当てが外れました。
それでも、この写真や次の写真に見られるように木製の柵や水路があり、これらは何の用途で作られたものかは知りませんが、時代の古さを感じさせました。
白い岩場はここから100m先にもあるのですが、そっちの斜面にもこれと同じ木製の用水路がありました。
次のグリーンタフの崖まではヤブがかなり深く、椿の木が群生していました。
まあ、イバラよりはマシですが。
ピンクのテープや踏み跡は皆無で、坑口が待ち受けていそうな雰囲気はあまりありません。
ここが一番上の崖なのだけど、両脇の尾根からさらに上を目指すことも考えましたが、とにかく踏み跡がないので断念。
このまま引き下がるのも悔しいので、引入沢山の西麓を走る林道へひとまず行ってみることにしました。
その途中、R322の標高135m地点で採石場跡のような広場があったので一応立ち寄りましたが、坑口はなし。
ただ、ただ一人坑口を訪れた先人の記録によると、1975年に坑口は埋め戻されたとのことなので、ひょっとしたらここがその場所なのかもしれない。
それでも、くだんの先人氏は坑口を1個見つけているわけで、それがこの周辺のどこかに眠っている可能性はあるけれど。
R322との分岐点で林道は通行止めになっていたのでそこから歩きましたが、地図上に載っている道の先にも林道は伸びており(実際、グーグルアースで見ても途切れることなくどこまでも伸びている)、30分歩いたところで見切りをつけ、Uターン。
この岩峰は帰りに見つけました。
他にも岩峰はあったけど、なぜかここだけ胸騒ぎがしたのです。
林道がこの岩峰の下に差し掛かった時、傍らに水色のテープが枝にぶら下がっているのを発見。
そこには登山道みたいな踏み跡が付いています。
そこを登ってみることにしました。
やがて岩峰下部に到達。
そこに至るまでの斜面も、まるでズリのごとく無数の岩の破片もどきが散乱しており、やはり坑口が上にあるのかとつかの間の期待感MAXに。
岩場はかなり後半に及んでおり、上部は斜度がきつく、思ったよりも岩がもろいためほんの一部しか探索できませんでした。
そう、岩が脆いので、斜面に散乱していた岩石は自然に母岩から離れたものかもしれません。
それでも、あちこちに遠目で見ると坑口と思わしき穴が見えたのだけど、苦労して近寄ってみるとどれも自然の造形だったりする・・・
帰宅してから、1時間以上改めてグーグルアースや地図と首っ引きで可能性のある場所を絞ろうとしたけど、やはり鉱山の位置を占める何らかの絵図や図面がないと全くわからないというのが正直な所です。
他にも、木揚場沢、宮古沢川と2本の沢が流れており、それらに沿って歩いてみれば何らかの収穫が得られるかもしれませんが、取りあえずギブアップです。
※5月4日追記:
温故知新。手持ちの地質図に深戸鉱山と思わしき鉱山マークが記載されていました。
まず間違いない。年内に再訪してみたい。
(1916~1976年にかけて稼働。黄鉄鉱、黄銅鉱、石英などを採掘。)
行こうとしたけど、たどり着けませんでした。
グーグルアースの空中写真と地形図を照らし合わせると、間違いなくここだなと思える場所があり、そこを目指したのだけど・・・
古い林道の入り口に車を停め、そこから歩くこと5分で写真の広場に出ました。
いい感じ、いい感じ。
ここから野砂利川の河原へ降りると、目の前がお目当ての白い岩場でした。
グーグルアースで見ると岩場のように見えましたが、間近で見るとほぼほぼ粘土化している崖でした。
ここに来る途中もグリーンタフ的地層がメインでしたが、ちょっと当てが外れました。
それでも、この写真や次の写真に見られるように木製の柵や水路があり、これらは何の用途で作られたものかは知りませんが、時代の古さを感じさせました。
白い岩場はここから100m先にもあるのですが、そっちの斜面にもこれと同じ木製の用水路がありました。
次のグリーンタフの崖まではヤブがかなり深く、椿の木が群生していました。
まあ、イバラよりはマシですが。
ピンクのテープや踏み跡は皆無で、坑口が待ち受けていそうな雰囲気はあまりありません。
ここが一番上の崖なのだけど、両脇の尾根からさらに上を目指すことも考えましたが、とにかく踏み跡がないので断念。
このまま引き下がるのも悔しいので、引入沢山の西麓を走る林道へひとまず行ってみることにしました。
その途中、R322の標高135m地点で採石場跡のような広場があったので一応立ち寄りましたが、坑口はなし。
ただ、ただ一人坑口を訪れた先人の記録によると、1975年に坑口は埋め戻されたとのことなので、ひょっとしたらここがその場所なのかもしれない。
それでも、くだんの先人氏は坑口を1個見つけているわけで、それがこの周辺のどこかに眠っている可能性はあるけれど。
R322との分岐点で林道は通行止めになっていたのでそこから歩きましたが、地図上に載っている道の先にも林道は伸びており(実際、グーグルアースで見ても途切れることなくどこまでも伸びている)、30分歩いたところで見切りをつけ、Uターン。
この岩峰は帰りに見つけました。
他にも岩峰はあったけど、なぜかここだけ胸騒ぎがしたのです。
林道がこの岩峰の下に差し掛かった時、傍らに水色のテープが枝にぶら下がっているのを発見。
そこには登山道みたいな踏み跡が付いています。
そこを登ってみることにしました。
やがて岩峰下部に到達。
そこに至るまでの斜面も、まるでズリのごとく無数の岩の破片もどきが散乱しており、やはり坑口が上にあるのかとつかの間の期待感MAXに。
岩場はかなり後半に及んでおり、上部は斜度がきつく、思ったよりも岩がもろいためほんの一部しか探索できませんでした。
そう、岩が脆いので、斜面に散乱していた岩石は自然に母岩から離れたものかもしれません。
それでも、あちこちに遠目で見ると坑口と思わしき穴が見えたのだけど、苦労して近寄ってみるとどれも自然の造形だったりする・・・
帰宅してから、1時間以上改めてグーグルアースや地図と首っ引きで可能性のある場所を絞ろうとしたけど、やはり鉱山の位置を占める何らかの絵図や図面がないと全くわからないというのが正直な所です。
他にも、木揚場沢、宮古沢川と2本の沢が流れており、それらに沿って歩いてみれば何らかの収穫が得られるかもしれませんが、取りあえずギブアップです。
※5月4日追記:
温故知新。手持ちの地質図に深戸鉱山と思わしき鉱山マークが記載されていました。
まず間違いない。年内に再訪してみたい。