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弘智法印入定の地 [神社仏閣・史跡(中越)]

弥彦山西南麓に佇む真言宗のお寺・西生寺は、日本最古の即身仏を安置している寺として有名です。
今から約660年前の1363年10月2日、即身仏となるための3000日にも及ぶ厳しい修行を終えた弘智法印は土中にご入定されました。
弘智法印が小さな庵を建て、8年間の修業を積んだ場所が西生寺・奥の院。
本堂から徒歩15分くらいでしょうか。
5年くらい前から一度奥の院を訪れてみたいと思いつつも、奥の院への旧道が荒廃しており、2回連続で途中退却。
今回3度めの正直でようやく願いが叶いました。

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現地には案内板はなく、紛らわしい踏み跡も幾つかあるので地図を作成してみました。
駐車所を過ぎて沢の右岸沿いの小道を行くのですが、弥彦山への裏参道ルートの出合いを過ぎると急に踏み跡は竹藪の中へと突入します。
しかも竹がまとまって倒れているため、前回はそこで恐れをなして引き返したのでした。
でもその区間はほんの30mほどでして、そこを過ぎるとすぐ沢を渡るのですが、緩やかな尾根道に入るとヤブはなくなり、視界が広がります。
小さな橋を渡ってすぐ、二股に出ます。
地形図には片方の道しか載っていませんが、踏み跡は二手に分かれております。
二股の右側には「奴石」と刻印された小さな石碑が立っているのですが、そちら側、つまり右側の踏み跡を辿るのが奥の院への近道です。
左側の踏み跡を行くと、まもなく前方にかなり大きな滝が見えてきます。
同時に、滝の左側に祠が建っているのが視認できるようになります。
こちらのルートを辿っても、この滝から奥の院までちゃんと踏み跡が付いているので、奥の院へ周遊することが可能。
ちなみに、ぼくは最初左側のルートを取りました。
右側のルートは傾斜が急だったので、楽そうなルートを選んだ次第・・・

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これがその滝です。
壮観です。
昨年来、角田&弥彦山麓で7つぐらいの沢を遡行してきましたが、それらの沢でも多くの滝に出合いました。
そして、間違いなくこの滝が最も気持ちがいいかも。
なんていうか、心がスカッとするんです。
とにかく一帯の”気”が抜群に清涼。
そして、左側のプチ神社の、これまたナイスな存在感。

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左手の石碑には”龍神大神”と刻まれています。
ここで弁当でも広げてゆっくりしていきたい、コーヒータイムにしたい、そんな気分に自然とさせられる場所でした。

ここで、弘智法印の生涯について簡単に述べます。
弘智法印の出身地は千葉県八日市場市。
1290年代の鎌倉時代、鈴木家の次男として生を受け、幼名を音松と名乗っていました。
幼くして出家し、故郷の寺・蓮華寺の住職として40台後半まで過ごします。
その後故郷を離れ、関東の武蔵野へ行き着き、お寺を建立。
そこで5~6年過ごすも、再び旅に出て、約7年間北海道~東北の広い範囲を行脚。
その間、33ものお寺を建立したと言い伝えられています。
旅の後半、弘法大師入滅の地・高野山に立ち寄り、ここでしばらく修行したようです。
高野山での修行中に即身仏となることを決意、入寂の地を求めて再び旅に出ました。
日本海に沿って北上、雨乞山(318m)のすぐ南にある猿ヶ馬場峠に差し掛かったところ、仏法僧の鳴き声を耳にします。
鳴き声に惹きつけられ、その声を辿っていくと、岩坂(現在の西生寺・奥の院の建つ場所)に出ました。
そこは桃源郷のように風光明媚な場所で、近くに滝もあるし、修行にはうってつけの場所であると直感。
ここに修行するための小屋を建て、養智院と命名。
自らも新たに弘智を名乗り、3000日に及ぶ木食行に入ったのです。

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ここが奥の院(元・養智院)。
土の中で入定したあと、弘智法印のカラダは信者の手によって掘り起こされ、ここ養智院の中に安置されました。
それから250年もの間、このお堂に安置されていたのですが、約220年前、西生寺本堂の近くに新たに建立された現・弘智院に弘智法印の即身仏は移管されます。

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奥の院の周辺には古い石仏が、少なくとも6体残っています。
すぐ右側に沢が流れており、瀬音の激しさから滝が近くにあることを予感させます。

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やはりありました。
滝は2段になっており、落差15~20mくらいあるでしょうか。

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左側の崖には、おそらく自然の地形だと思うのですが、えぐれたようになっているところがありました。
もちろん地質もチェックしましたが、特に玉髄や方解石などの鉱物は見当たらなかったです。
(沢沿いの転石も同様に、玉髄・石英系はなし。)

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このえぐれた崖の手前に座禅石。
伝承によると、まさにこの平たい石の上で弘智法印が座禅を組み、瞑想していたそうです。
落ち葉を払い除け、ぼくもしばしこの石の上に腰掛けて瞑想・・・
日本国内に20数体ある即身仏ですが、即身仏のカラダの方ばかり注目され、彼らが入定した場所や修行を積んだ場所というのは注意を惹かれることはありません。
実にもったいないことです。
入定した場所には、彼らが命をかけて獲得した”超変性意識”が刻印されているのです。
電磁気的な情報として、その空間には特定の周波数から成り立つ思念がメモリーされています。
彼らが残した遺産~それはこの空間に刻まれた、特異点からなるある種の情報~なのです。
ぜひ心を無にして、この石の上に座ってみて下さい。
自然と内なるおしゃべりはやみ、周囲の自然に同化するはず。
自分と考えていた境界線~自分と世界とを分け隔つもの~は消え、そのとき世界の秘密を知ることになるでしょう。

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さて、2つの滝を結ぶ踏み跡(6月以降はヤブに埋もれ、わからないかも)沿いには、幾つか史跡的な人工物が見られました。
これはそのひとつ。
石になんて刻まれているのか、ぼくには判読不可能でしたが。
それにしても、弘智法印は本当に素晴らしい場所を見つけたものです。
この谷の全ての植物や鉱物ひとつひとつに、弘智法印が晩年到達したであろう人知を超えた意識が行き渡っているかのよう。
精霊や妖精が飛び回っている風景を、ぼくは心眼で見ました。

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合掌・・・







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アマノカグヤマノミコトゆかりの洞窟 [神社仏閣・史跡(中越)]

弥彦神社の歳神として知られる天香山命(アマノカグヤマノミコト)は、海部氏の始祖・天火明命(アメノホアカリ)の息子です。
海部氏とは丹後国は籠神社の社家を代々務めている家系で、尾張氏など多くの豪族の始祖とされます。
神武の東征で武勲を得た彼は勅命を受け、越の国(福井県~新潟県までの地域の、大化の改新以前の古代における呼称)を平定しました。
海部氏の首長であった彼が、なぜ天香山命と呼ばれるようになったかについては、坂本政道氏が著書「伊勢神宮に秘められた謎」で触れていますので引用します。
それによると、大和の天香久山に居を構えていたから、そう呼ばれていたのではないかとのこと。
地名を苗字(呼称)に使うのはよくあることで、もしかすると代々そう呼ばれていたかもしれない可能性を指摘しています。ちょうど、歌舞伎役者や落語家が同じ名前を襲名するように。
話は逸れましたが、越後に派遣された彼は野積海岸に上陸し、地元民に漁労・製塩・養蚕、稲作などを教え、名君として慕われました。
3年前からなぜか人間としてのアマノカグヤマノミコトに惹かれるようになり、ゆかりの地を片っ端から訪れたりしていました。
そして昨年末、次の写真の石碑が彼を偲ぶために作られたことを知ったのでした。

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以前から岬の先端に石碑らしいものが建っていることに気づいてはいましたが、なにせ建っている場所へ行くまでがとってもリスキーなので詳しく探索したことはありませんでした。

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今年に入ってから既に4回現地を訪れ、男釜・女釜の岩場も隅々まで踏破しました。
さて、石碑の裏の碑文です。
今から約2600年前に、アマノカグヤマノミコトがこの地に上陸したことを称えています。

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こちらが表側。
1月に入ってからネットで色々検索していたら、彼が塩炊きの技術を地元民に教えたという伝説が伝わっている洞窟の写真を見つけました。
その記事によると、昭和59年、旧寺泊町天然記念物に指定されたこの洞窟は海蝕洞で、洞内に9箇所の甌穴があるとのこと。
最も大きいものは直径170cm、次に大きいものは130cmで、前者を男釜、後者を女釜と呼ぶと。
この時点で既に2回この岬を訪れていたのですが、洞窟がどこにあるか、全くわかりませんでした。
3度めの正直でようやく見つけたわけですが、海から船で岬の周りをぐるりと回らないと普通は入り口に気が付かないでしょう。

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入り口を真上から写しています。
左の崖を最初降りていったのですが、途中から絶壁となって行き詰まりました。
仕方なく、右の岩場からアプローチ。

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入り口といっても2mの崖の上から撮っており、地面には降りていませんし、中へも入っておりません。
壁が大きくえぐれているので、いったん降りたら登ることが不可能だからです。
ザイルを固定できそうな岩や木も周囲になく、わずか1.5mの幅しかない入り江から泳いで侵入するしかなさそう。
あとで上に見える開口部の近くへ行ってみたのですが、これまた諸々の事情で壁の縁に立つのが難しく、ザイルでそこから懸垂下降することもできなさそう。
おそらくアマノカグヤマノミコトが生きていた時代~約2600年前~は、現在より海水面が低かったのではないでしょうか。
入り江は海面から常時出ており、当時は歩いて普通にこの洞窟へ出入りできたように思うのです。
そうでないと、彼はこの洞窟でしばらく逗留していたようですが、ここで暮らすのは不可能。
入り江の幅が狭いので潮流が早く、泳ぐにせよ小舟で侵入するにせよ、潮止まりの時間帯を狙っていかないとどうしようもありません。
ともあれ、目の前に拡がった洞内の光景に思わず息を飲みました。
広いのです!
こんな広い空間が岬の内側に展開していようとは、誰が想像できるでしょう。

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天然記念物に指定されている2つの甌穴は、洞窟の手前側にありました。

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高倍率ズームを望遠側にしてあちこちの壁を写し、帰宅後ピクセル等倍でPC上で鑑賞。
全然解像度が足りないのでなんとも言えないのですが、これは玉髄っぽいですね。
距離が離れているし、中はそれなりに暗いので、本格的な鉱物調査はやはり中へ入ってみないことには始まりません。

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別なアングルから。
今から2000年以上も昔、この同じ風景を共有していた人間がいるとはとても不思議な気分です。
この洞窟の神々しさが伝わりますでしょうか?
時空の裂け目を垣間見ているような気持ちになったのでした。

※2月16日追記:
1974年に最後の住人が去り、完全な廃村となった角海浜村が西蒲区の巻地区にあります。
そこの海岸線は江戸時代初期と比較し、600mほど後退したそうです。
その原因はこの地域特有のマクリダシ(波欠け)という、数十年に一度の頻度で発生する海岸侵食現象によるものですが、思うに野積海岸や浦浜も海岸侵食現象は起こっていたはずで、ましてや2000年以上昔でしたら当時の海岸線はもっと沖合にあったことでしょう。
幸か不幸か、現在は洞窟の入り口から中を覗き見るのが精一杯で、洞内への侵入は極めて困難。
入り口が常時海中に没したことで、洞内はそのままの環境が保たれているのです。











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