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哀愁の草倉銅山跡 [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

阿賀町の山間部に眠る草倉銅山の始まりは、元文4年(1739)に遡ります。
明治期に入ると、現在の古川財閥を築いた古川市兵衛が経営権を取得。
古川はここで財をなし、その資本を元手に足尾銅山を買収したのは有名な話です。
大正9年(1920)に閉山しましたが、最盛時には約6000人もの人々が(1906年の新聞記事には戸数260戸、人口1826人とあるので、6000人というのは誇張がなされていると思いますが)銅山の周辺で暮らしていたと言われています。
5月23日、初めて現地を訪れてみました。

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銅山入り口までの林道は舗装されており、思ったより走りやすかったです(ただし、部分的に路肩崩壊の箇所もあった)。
銅山入り口手前100m付近に赤いパイが道路の真ん中に置かれており、その手前の広場に車を停め、そこから歩きます。
パイを過ぎると道路が大きく陥没しかけている箇所があるので、車は確かに通行不可です。
写真は、平成30年に作られた無縁仏供養塔。
右側のこんもり盛り上がった丘の上にはかつての神社跡や小さなお墓が点在し、そこには悲しみの想念が漂っているような気がしました。
明治時代の抗夫は概して短命で、頻繁に起こる落盤事故や珪肺症などの疾患のため平均寿命は40才に届かなかったらしいです。
また、左に建っている供養塔の説明文によると、女性の抗夫も多数働いていたようです。
鹿瀬にある龍蔵寺には抗夫達の200もの無縁仏の墓が存在し、今も毎年7月15日に供養祭がしめやかに行われています。

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坑道の入り口。
現在は土砂に埋もれています。
付近には事務所の石垣跡などが残っており、ここまではしっかりとした踏み跡が残っています。
そして、この先は踏み跡はほぼ自然に帰しており、新緑萌ゆる5月に入ると全く地形がわからなくなるので、単なる好奇心で立ち入ることは慎むべきと思います(自戒を込めて)。


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踏み跡らしきものを拾いながらヤブ漕ぎ30分、やっとズリのような場所に出ました。
途中一切木々に赤いテープなどはなく、これ以上深入りすると道に迷う危険が高いと判断したからです。
実はしっかり迷ってしまったのですが・・・

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付近には自然地形なのか、人工的に積まれたものなのか判然としませんが、岩が点在しています。
よく見ると、石英脈が出ているものや、ちゃんと6角柱をしたチビ水晶が隙間に生えているのを見ることができます。

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例えば、こんな地形。
これから紹介する写真は全てこの岩場で写したもの。
晶洞らしきものもあり、そこには水晶が見られました。

IMG_1942.jpg

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IMG_1959tr.jpg

左上部には紫水晶も見られます。
狭いけど奥行きのある晶洞で、奥の方には4~5cmのポイントが発達していました。
スタート地点の供養塔までの帰り、ぼくはルートをロスし1時間以上山中をさまよったのですが、途中このような岩は何ヶ所も出てきました。
露天掘り跡らしいくぼみもいくつかあり、沢筋には踏み跡があちこちに残っているので、本当に道に迷いやすいです。


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