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高倉鉱山 [鉱物 (村上市・高倉鉱山)]

高倉鉱山を見に行ってきました。
この鉱山の存在を知ったのは、村上市の図書館でたまたま見つけた郷土資料からです。
国会図書館のHPで検索しても出てこない貴重な情報が書いてありましたので、要約して抜粋します。

「この鉱山は銅や亜鉛が採掘され、明治40年代から大正の初め頃には製錬所もあった。しかし大正8年頃には賑わった採掘も細り、閉山となった。この頃の製錬所や飯場、事務所跡などは今でも跡地を確認することができる。
その後、15年を経て経営者も変わり再開された。従来とは違う場所に坑道を掘り、選鉱場や事務所、飯場も新たに設置した。坑道からはトロッコで鉱石が運び出され、これを選鉱場で片手ハンマーで手割りし、十三貫五百匁ずつ南京袋に詰め、背負って集落内の鉱石置き場まで運んだ。ここの銅は純度が高く、経営者を喜ばせ、時には桑川の丸一旅館で宴会を開いたこともあった。
運び出された鉱石は今川から桑川で船で運び、桑川から村上までは貨物列車で運ばれ、村上の製錬所で製錬された。」

昭和56年度広域調査報告書には、沿革として「明治43年頃まで稼行。その他不明。」の一言で片付けられているので、こういった地元の郷土資料は貴重です。
また別な資料(本邦鉱業の趨勢・昭和12年)には、もう少し詳しく沿革が書かれているので要約・引用します。

「昭和10年頃、東京の人が上部の銅鉱を採掘したが、下部に行くに従って鉛や亜鉛の割合が増え、質が低下したので休山した。昭和10年村上町の佐藤某が事業を再開、翌11年末、現鉱業権者に譲渡。昭和12年3月、試掘探鉱に着手した。」
とあり、その時の従業員数は65名だったそうです。

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林道が途中で崩落していました。
おそらく一昨年の豪雨のためでしょう。
豪雨の爪痕は鉱区に至るあちこちで見受けられました。

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石英塊です。
この鉱山では黄銅鉱と閃亜鉛鉱、少量の方鉛鉱を採掘しており、脈石は石英とあります。
そのためもあってか、鉱区に至る沢の転石はもちろん、ズリでもひたすら石英だらけでした。
ただし、自形の水晶は皆無でしたが。
図面に坑口が3つ描かれているのですが、一番下の坑口はもちろんのこと、2つ目の坑口もおそらく埋没しているのでしょう、その存在を確認することはできませんでした。

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ここは2つ目の坑口があったはずの斜面。
絵に書いたようなズリが拡がっており、無数の石英が散らばっています。

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一番上の坑口はおそらくここにあったと思います。
写真では伝わらないと思いますが、とても大きな坑口です。

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それでも上の方にわずかな隙間があり、内部の様子を垣間見ることができました。

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広い!
一番坑確定です。

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坑口のあった窪地を出て、見晴らしの利く岩場によじ登ると、なんと小さな谷間の向こうに穴が見えました。
地質図には載っていない坑口です。

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急峻な岩場の向こうにあるので行けるかどうか不安でしたが、幸いルートを発見することができました。
ピンポイントでちゃんと行けるようになっているのです。
鉱夫さんたちもこのルートで入坑したのだと思います。
これも大きな坑口です。

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ところが入ってすぐ、豪快に崩落していました。

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坑口前から、横断してきた沢の上流部を写してみました。
なんとなく右岸の上部にもう一つくらい坑口が潜んでいそうでしたが、時間切れ、スタミナ枯渇につき撤退。

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坑口近くで見かけた珪孔雀石と閃亜鉛鉱(黒い部分)。
普通の孔雀石(あくまでÇ級品です)も一個だけありました。
やはり良質の銅が採れていたというのは本当だったかもしれません。
銅を採掘していた鉱山は下越にもたくさんありますが、その多くは現地を訪れても採掘した鉱種を連想させる鉱物が全く見つからないケースが一般的ですから。












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