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為田文太郎最期の地・古小屋鉱山 [鉱物 (五泉市・古小屋鉱山)]

旧川内村には明治~大正時代にかけて多くの鉱山がありました。
大正6年9月に書かれた文献には、次の鉱山が記されています。
「山本鉱山、小俣鉱山、富倉鉱山、有倉鉱山、丸子鉱山、白滝鉱山、大清水鉱山、旭鉱山、古小屋鉱山、慶石鉱山・・・etc」
しかし、大正9年3月から始まった経済恐慌で金属価格が暴落し、ほとんどの鉱山は閉山・休山の憂き目にあいます。
それぞれの鉱山の沿革などを調べていく過程で、ちょっと気になる鉱山が2つありました。
「多額の蛍石を産出した」という富倉鉱山と、為田文太郎が発破の事故で亡くなった古小屋鉱山です。
富倉鉱山は思い切り山奥だし、蛍石の露頭が明らかではなく、この鉱山の探索は現実的ではありません。
そこで古小屋鉱山なのですが、為田文太郎のことについて少し解説します。
この方は北アルプスの富山県側登山道を切り開いた先駆者として有名なのですが、当時日本有数の金鉱山だった鷲ノ巣鉱山、並びに足尾銅山を上回る銅の埋蔵量を誇った大黒鉱山を経営する実業家としての顔もありました。
その文太郎さんの最期ですが、同様に経営していた古小屋鉱山で火薬を調合中、引火事故で命を落とします。
明治45年6月30日のことでした。

(1)沿革
江戸時代の安政年間(1855~1860)、大字川内の山田清作が発見。
一時盛んに採掘したが、鉱脈が尽きたため天保12年(1841)廃坑となった。
※年代が矛盾していますが、文献の記述をそのまま引用しました。
出典:中蒲原郡誌村松町編(1986)
再び文献に出てくるのは明治31年、鉱業権者は桃井徳太郎(外一名)。
桃井氏たちは明治39年まで稼行していた模様。
その後、為田文太郎氏が事業を再開したのが明治43年。
為田氏が事故で亡くなってからは合資会社浅田銀行が鉱業権を引き継ぎ、大正11年まで稼行していたようです。

(2)鉱種
銅と砒鉱が主。
経営が浅田銀行に移ってからは、上記の他に銀、鉛、亜鉛が加わっています。

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道すがら、山の神を発見しました。
新しい御札が添えられていることから、今でも尊崇を集めているようです。

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仙見川の水面(みなも)。
ゴルジュ地帯が連続します。

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木の枝が邪魔なので判然としませんが、これも坑口でしょうか。
それとも露天掘り跡?

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かなり苦労して坑口群を発見しました。
右側に大きな露天掘り跡、左側には少なくとも3つ程坑口があるようです。
江戸時代のものか明治時代のものか微妙なところですが、水量が多く対岸へ渡ることができないため何とも言えません。
雪代水の落ち着く5月下旬以降、もう一度来てみたいと思います。

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右岸は無理なので、左岸側で坑口を探したら1つだけ見つけました。
対岸に見える坑口より一回り大きいので、こちらは明治時代の坑口でしょうか。

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結構長かったです。
特に枝坑道とかはなかったと思いますが。

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坑口を見下ろす位置にご神木発見。
ぼくが勝手にご神木呼ばわりしているだけですが、この木は坑夫さんたちの働きの一部始終を目撃してきたはず。
今度ゆっくり交信してみたいです。





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