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旭町遊郭跡をさまよう [旧市街(新発田市)]

本来なら今月27~29日まで新発田まつりだけど、今年はナッシング。
27日夜、それでも賑わいの片鱗を求めて、足は諏訪神社へ向かう・・・

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各町内からの台輪もない。
これは寂しい。
こんなときは人肌が恋しくなるもの。
自然とこのあと、足は旭町遊郭跡(諏訪町3丁目)へと向かうのでありました。

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2017年10月10~11日のブログで新発田に2箇所あった遊郭を取り上げているのだけれど、今回当時(明治30年代なかば)の各遊郭の配置図を現在の市街図にあてはめ、新たに作成してみました。
簡単に旭町遊郭の歴史を説明します。
近代公娼制度の成立は、明治5年(1872)のいわゆる芸娼妓解放令が端緒となったとされていますが、新発田においては少なくとも明治8年頃には居酒屋、茶店、すすり白玉屋などが旭町で営業していたようです。
明治12~13年になると店も増え、私娼の類もあちこちに出没するようになったので当局による取り締まりが行われました。
その際勾留された”新玉楼”の当主・坂井太郎吉氏は、同志をつのって公娼が必要なことを訴え、正式な許可を乞うたのです。
明治4年、陸軍東京鎮台歩兵第8番大隊を新発田城内新築兵舎に迎え入れたのを皮切りに、明治7年には歩兵第3連隊題大隊が、明治17年には歩兵第16連隊が設置され、若い兵隊さんの数が激増していました。
そういった事情も鑑み、当局は旭町を朱印地としての公娼制度を許可したのです。
ここは幕末から調馬場(馬の調教訓練を行った場所)として使われていた場所で、走馬路をそのまま道路にし、17戸の貸座敷業者が軒を連ねました。
明治37年6月3日、不幸にも新高楼から出火。
火は瞬く間に燃え広がり、翫月楼(がんげつろう)・山田楼・群亀楼を残して他は全焼。
上鉄砲町の50数戸と合わせると70余戸が焼失してしまったのです。
その後は、もともと旭町は住宅街であり、住宅街の一角に遊郭があるのはよろしくないと考える人が多く、当時は田んぼと野原だった伊勢堂地内(現在の御幸町2丁目)に集団移転しました。

新しい遊郭は三宜町遊郭を名乗りましたが、こちらは遊郭の中心にあった弁天池が幹線道路建設に伴い埋め立てられ、どの道路は限りなく直線道路として設計されたため周辺の路地も多くが消失し、現在の地形から往時を偲ぶことはできません。
ところが旭町は幕末以来まったくその区画が変わっておらず、ぼくが作成した地図をご覧になるとわかるように、明治時代の配置図をそのまま当てはめることができるのです。
これは奇跡と言えましょう。
昨年から改装工事のため休館してはおりますが、明治37年の火災後、花菱が市内のある屋敷を移築し、しばらくの間営業を続けたという石泉荘が一般公開されています。
石泉荘を含む旧旭町は清水園の南に位置し、歩いても5~6分。
清水園へ来る機会があったら、ついでにここにも足を伸ばしてみてください。

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今、岩名風呂跡を背に立っています。
右側には東京亭、宮城亭と計5つの遊郭が軒を連ね、左側にはみどり屋、舞鶴、花菱がありました。
石泉荘の入り口は当時の花菱の入り口にあたり、右側はしばた川にかかる小さな橋まで古い塀が続くのですが、通りの右側の佇まいは限りなく当時の面影を留めていると思います。
ちなみに、新高楼とえび屋が立っていたところは現在は駐車場になっています。
火元であった新高楼の立っていた場所は、ひょっとしたら今に至るまで建物はないままだったのかも。

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真後ろは新高楼があった辺り。
正面の小道を境に、左側に花菱(現・石泉荘)、右側に若月が立っていました。


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右がえび屋、左に新王(もしくは新王楼)が立っていた通りの入口に来ました。
通りの左側には当時と同じく、計5軒の家が立ち並んでいます。
右側は通りの奥に山田楼があったのですが、現在も山田楼が立っていた場所に家があるだけで、それ以外は空き地のままです。

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新王があった場所には、現在三峰教会の建物が立っています。
建物の作りはほとんど〇〇そのままなので、往時を偲ぶことができます。

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新王をすぎると、しばた川が流れています。
かつては水面に、新王楼~翫月楼に至る5軒の遊郭の照明がちらちらと映えていたことでしょう。

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橋から引き返し、えび屋と新王楼の間の小道を進んでいきます。
古地図には庭園と記されていますが、東側半分に今は建物が立っているものの、広場の西側半分は荒れ地のまま。
この写真は石塀の真ん中あたりで写したものですが、ひょっとしたら明治時代と同じ風景を目にしているのかもしれません。

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右手の建物が立っている場所に、かつては山田楼があったはず。
その奥に白っぽい建物が見えますが、あそこは群亀楼があった場所です。
今日の夜の散策はここまで。

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数年前に写した石泉荘の離れ座敷です。
明治37年6月の大火後、花菱は市内からこの建物を移築させ、旭町で営業を再開しました。
しかしながら前述したように、郊外の三宜町に集団移転した新しい遊郭街にはとうてい叶わず、ほどなく花菱も旭町に見切りをつけ、三宜町へ進出したのでした。
花菱から所有者は新津の製油業で財を成した石崎家に移り、現在に至っています。

※参考文献:
「新発田の廓を語る」~松田時次







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