草倉銅山の下手側居住区跡 [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]
およそ1ヶ月ぶりに草倉銅山千勝堅坑へ行ってきました。
正確には、千勝堅坑近くの横穴へ入ってみたのです。
本坑口を別にすれば、今年は草倉銅山界隈で大小10個近い坑口を発見しました。
しかしながらその半分以上は堅坑や斜坑であり、残りの坑口も幅が狭かったり、すぐ閉塞していたりで内部を探検できそうな坑道は1つしかありませんでした。
その唯一の坑口がここです。
4月28日の記事の1枚目の写真と同じ場所です。
今回カメラを忘れてしまったので、やむなくスマホでの撮影。
なので、画質が悪いのはご容赦です。
沢に降りるまでの斜面はそれなりにヤブが深くなっていましたが、沢に降りると特にボサが被っているわけでもなく、見通しはそれほど悪くなかったです。
入り口から4~5m程は天井が低いので、四つん這いになって侵入しないといけません。
地面はコウモリのフンが堆積して柔らかくなっているところもありますが、角張った鉱石がゴロゴロしている箇所もあります。
なので、今回は膝パットを装着して匍匐前進しました。
上の写真で約2m先にちょっと高くなっているところがありますが、その段差を乗り越えるとほぼほぼ立って歩けるくらいの高さになりました。
しかしそれも一瞬で、いざ奥へ行ってみるとすぐに背を若干屈めなければならなかったけど。
前回来たときは望遠レンズで坑道の奥の方を入り口から写してみたのですが、その写真だと右側に突き当りから緩く坑道はカーブしていて、もっと奥の方へ伸びているように感じました。
ところが10m先で坑道は終わっていました。
残念。
近くの千勝堅坑へと、その先は斜坑に変わり、一気に地底へと伸びているように夢想していたのですが。
帰りは来た時と同じルートを取らず、草倉沢をそのまま詰めてみました。
1.5~2mの小滝が連続するところで右岸を高巻いたのですが、その際踏み跡を見つけ辿ってみると、写真の石垣の前に出ました。
この上は広場になっているような感じがしたのでさらに上がってみると、確かにそこには鉱山集落があったと思われる広場がありました。
現在の合同慰霊碑が立っている広場から上手の丘に、鉱山関連施設(居住区を含む)は拡がっていたはずですが、下手の方にも居住区はあったのですね。
この広場は、ぼくが今まで探索してきた草倉銅山のヤマの中で、最も温かな雰囲気に溢れていました。
これは建物の基礎の部分だと思います。
こちらは茶碗の破片。
周囲の地形を確かめると、北に向かって踏み跡らしきものが続いていたのでそこを歩いてみました。
するとほどなくもう一つの広場が出てきました。
その先は踏み跡が薄くなり、同時に灌木が覆いかぶさるように茂るようになり、藪こぎしながら歩かざるをえなくなりました。
ただ、草薮ではないので見通しは比較的良好でして、灌木地帯を抜けた先には例の合同慰霊碑が待ち構えていました。
一応、踏み跡が薄くなった地点からところどころ青い養生テープを枝にくくりつけておいたので、この居住区を見学してみたい方は合同慰霊碑前で青いテープを探してみて下さい。
距離的には、合同慰霊碑前から居住区跡まで80~100mくらいだと思います。
正確には、千勝堅坑近くの横穴へ入ってみたのです。
本坑口を別にすれば、今年は草倉銅山界隈で大小10個近い坑口を発見しました。
しかしながらその半分以上は堅坑や斜坑であり、残りの坑口も幅が狭かったり、すぐ閉塞していたりで内部を探検できそうな坑道は1つしかありませんでした。
その唯一の坑口がここです。
4月28日の記事の1枚目の写真と同じ場所です。
今回カメラを忘れてしまったので、やむなくスマホでの撮影。
なので、画質が悪いのはご容赦です。
沢に降りるまでの斜面はそれなりにヤブが深くなっていましたが、沢に降りると特にボサが被っているわけでもなく、見通しはそれほど悪くなかったです。
入り口から4~5m程は天井が低いので、四つん這いになって侵入しないといけません。
地面はコウモリのフンが堆積して柔らかくなっているところもありますが、角張った鉱石がゴロゴロしている箇所もあります。
なので、今回は膝パットを装着して匍匐前進しました。
上の写真で約2m先にちょっと高くなっているところがありますが、その段差を乗り越えるとほぼほぼ立って歩けるくらいの高さになりました。
しかしそれも一瞬で、いざ奥へ行ってみるとすぐに背を若干屈めなければならなかったけど。
前回来たときは望遠レンズで坑道の奥の方を入り口から写してみたのですが、その写真だと右側に突き当りから緩く坑道はカーブしていて、もっと奥の方へ伸びているように感じました。
ところが10m先で坑道は終わっていました。
残念。
近くの千勝堅坑へと、その先は斜坑に変わり、一気に地底へと伸びているように夢想していたのですが。
帰りは来た時と同じルートを取らず、草倉沢をそのまま詰めてみました。
1.5~2mの小滝が連続するところで右岸を高巻いたのですが、その際踏み跡を見つけ辿ってみると、写真の石垣の前に出ました。
この上は広場になっているような感じがしたのでさらに上がってみると、確かにそこには鉱山集落があったと思われる広場がありました。
現在の合同慰霊碑が立っている広場から上手の丘に、鉱山関連施設(居住区を含む)は拡がっていたはずですが、下手の方にも居住区はあったのですね。
この広場は、ぼくが今まで探索してきた草倉銅山のヤマの中で、最も温かな雰囲気に溢れていました。
これは建物の基礎の部分だと思います。
こちらは茶碗の破片。
周囲の地形を確かめると、北に向かって踏み跡らしきものが続いていたのでそこを歩いてみました。
するとほどなくもう一つの広場が出てきました。
その先は踏み跡が薄くなり、同時に灌木が覆いかぶさるように茂るようになり、藪こぎしながら歩かざるをえなくなりました。
ただ、草薮ではないので見通しは比較的良好でして、灌木地帯を抜けた先には例の合同慰霊碑が待ち構えていました。
一応、踏み跡が薄くなった地点からところどころ青い養生テープを枝にくくりつけておいたので、この居住区を見学してみたい方は合同慰霊碑前で青いテープを探してみて下さい。
距離的には、合同慰霊碑前から居住区跡まで80~100mくらいだと思います。
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