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草倉銅山最後の坑道 (後編) [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

草倉銅山について書かれた文献で、ネットで入手できるものは意外と少なく、「草倉銅山鉱床報文」坂市太郎(明治19年・1886)ぐらいしか見つかりませんでした。
草倉銅山が最盛期を迎えたのはこの文献が書かれた明治時代中頃であり、大正時代に入るともう衰退期に入っています。
思い切り文語体で書かれているので、古文が苦手なぼくは1/10くらいしか読んでいないのだけど、このとき、まだ東山鉱区についての言及はありません。
上記の文献以外では「ミックンのつぶやき」というHPがダントツで詳しく、草倉銅山について深く知りたい方はまずこのHPをご覧になるといいでしょう。
さて、ミックンのつぶやきやその他の資料の情報をまとめると、他の多くの鉱山もそうだったように大正2年8月の大洪水で草倉銅山も大きな被害を被り、規模を縮小せざるをえなくなりました。
大正3年に休山しつつも、大正5年あたりから細々と舟内沢鉱区で採掘を再開していた模様。
その後は有望視された東山鉱区の開発へと命運をかけて乗り出すものの、体力が続かず大正9年(1920)閉山。
こういう流れになっています。
その東山鉱区のみ場所がわからないでいたのですが、今回発見した坑口の場所を地図上で見てみると、ちょうど本坑口の東にあたるので、おそらくこの一帯が東山鉱山なのだろうと推測します。

IMG_7146p.jpg

昨日の記事の続きですが、まず左側の坑口へ入ってみました。

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驚くべきことに、支保工がまだ残っていました。この先でも複数箇所で支保工を見ました。
天井は高く、地面は締まっていて土砂の堆積はありません。

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さらに進んでみます。
今まで見てきた草倉銅山の坑口とは別物。
いったいどこまで続いているのだろう。
もう少し前進してみましょう。

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坑口入り口から30mほど歩いてきたでしょうか。
ようやく終点が見えてきました。

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水が溜まっていますが、水深5~8cm未満なので、一応最奥部まで行ってみました。
特に崩落しているわけではないので、ここが終点のようです。
尚、ここに来るまで2~3ヶ所の、ちょっとした狸掘り跡が坑道の左右に見られたことを付け加えておきます。

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次は右側の坑口へ入ってみます。

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こちらはそれほど長くはありません。
天井の高さと横幅は、さっきの坑道の似たりよったりです。

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全長15mほどでしょうか。
さっきの坑道と違って、こちらは崩落している可能性があります。
本来はもっと続いているのかも。
途中、左に狭い横穴がありました。
さっきの坑道とつながっているのでした。
しかしながらその横穴も途中一部崩落しており、侵入は不可。

IMG_7152.jpg

2つの坑口の探検を終えてから、さらにその沢の上部を目指しました。
100m歩いたところで沢は3つに分岐しており、上の写真は分岐の一番右側の沢の上部です。
どの沢も水はほぼ枯れ、岩場も少なくなり、この先に坑口が出てくることはないだろうと思いUターン。
あとで地図を見て気付いたのですが、2つの坑口からさらに沢を詰めるのではなく、西南西方向に歩いていったらすぐ三角沢の現頭部に合流するのです。
草倉銅山は津川の3人が三角沢沿いに鉱脈を発見したことがそもそもの由来ですが、脈は地中でつながっているのですね。
今回発見したこの場所から、北~北北東の斜面にもさらなる坑口が残っているのかもしれません。
草倉銅山、奥が深い・・・




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