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草倉銅山最後の坑道 (前編) [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

先日久しぶりに阿賀町の図書館へ行ってみました。
その2日後にはふるさと学習館にも。
阿賀町の郷土誌「阿賀路」の、まだ読んでいないバックナンバーを読むのが目的だったのですが、それが面白い!
多くの発見があり、探索への意欲が新たに湧いてきました。
時間がいくらあっても足りないので、また来よう。
ふるさと学習館(旧三川小)がこれまたすごくて、三川鉱山と持倉鉱山の貴重な資料~国立国会図書館デジタルライブラリーでも見られない類の資料~が揃っており、しかも誰でも持ち帰れるように主だったページのコピーがまとめられているのです。
なんとサービス精神旺盛な。
二階では三川鉱山と持倉鉱山の常設写真展が行われており(草倉銅山の写真は鹿瀬支所のロビーに展示されている)、こちらも見応え十分。
そんなこんなで阿賀町を代表するこれら3つの鉱山の歴史を再度学び直しているのですが、ぼくが大きな思い違いしていることに気づいたので報告します。
それは、草倉銅山の三角沢の場所について。
どうやらぼくは草倉沢と三角沢の場所を取り違えていたようです。
なので、該当する記事をすべて書き直しました。
三角沢がアソコだとすると、ぼくは慶應坑へ行く途中横断してはいるものの、三角沢を遡行したことはありません。
ということは、少なくとも三角沢沿いに3つある坑口はまだどれも見ていないことになります。
草倉銅山は1739年、津川の3人が三角沢で鉱脈が露出しているのを発見したのが始まりと言われているので、その三角沢の坑口は是非とも見ておきたいところ。
郷土誌「阿賀路」では、今もこれらの鉱山について様々な角度から研究されている郷土史家の方が頻繁に投稿を重ねており、最新の研究成果に触れることができます。
尚、郷土誌はどちらの図書館でも読めるので、念のため(ふるさと学習館も図書館を兼備)。

kusakura_senkojo.jpg

本題に入る前に、H29/6の郷土誌”阿賀路”に、今回初めて発見された草倉銅山通洞坑エリアの建物の写真が掲載されたので、ちょっとだけ紹介します。
草倉銅山の経営者・古河市兵衛は、専属の写真師・小野崎一徳に自らが経営する鉱山の写真を撮ることを命じました。
小野崎氏の孫にあたる小野崎敏氏は、祖父から受け継いだ多数の写真の中から、これは足尾銅山ではない、どこか他の鉱山を写したものではないかと思われる数枚の写真の検証を、ふとしたことから知り合った鉱山研究家の波多野恒人氏から"あがのがわ環境学舎”を経由して阿賀町に打診してきたのです。
今回ぼくが目にした記事の著者は、当時の阿賀町役場鹿瀬支所長でいらっしゃる江花一実氏。
記事のタイトルは”古河創業当時に撮影された「草倉銅山」未発表写真の発見と確認、画像解析について”です。
上の写真は通洞坑エリアを写した写真Cの部分拡大。
この建物は選考場であると、江花氏は推測します。
根拠は次の2点。
*粉塵排出のための換気塔がある
*明り取りと外気導入のために外壁がほとんどない
こんな感じで、ある写真には牛馬に混じって大人から子供まで男女大勢の人が写っていたり、建物だけでなく、働く人々も含めてしっかりと写し止められているので大変興味深いです。

IMG_7158.jpg

さて、前置きが長くなりましたが、草倉沢を遡行します。
昨年初めて遡行したのですが、歩き始めていくらもしないうちに多数の坑口が現れるので興味深いです。
左側に大きな坑口、中央から右側にかけて小さな坑口が連続しています。
江戸時代から明治20年代くらいまでに採掘された坑口だと思います。

IMG_7108.jpg

左側の大きな坑口入り口。
いい面構えです。
坑口にはそれぞれの表情があり、入り口が全てを物語っています。

IMG_7107.jpg

坑口内部。
奥行きはそれほどないし横幅も狭いですが、高さはそこそこあります。
入り口から受けた印象そのままに、人々の活気の片鱗が残っている気がします。
この坑道、なんか好きです。

IMG_7115.jpg

さて、昨年はここで引き返したのですが、今回はさらに上を目指します。
どこに坑口があるかの詳しい地図はないのですが、この沢~草倉沢の支流になります~の上流にはさらなる坑口があるはずとの嗅覚が働いたので訪れてみた次第。

IMG_7120.jpg

岩場を抜けると緩やかな斜面がひたすら続くのですが、場所によっては灌木が多数生い茂っているところもあり、見通しは決してよくありません。
小沢も途中幾筋にも分岐していたり、伏流したりしているので、GPS機器を持っていないと迷子になることでしょう。
そんなダラダラ登りを慎重に進めていると、石垣が現れました。
内側はちょっとした凹地になっており、帰りにこの近くでも類似の地形を発見。

IMG_7122.jpg

右手に急斜面が連続しており、そこからあまり離れないように歩きました。
急斜面との境を流れている小沢沿いになにか出てきそうな雰囲気が高まってきたからです。
沢の傾斜も増し、転石のサイズも一気に大きくなってきました。
この上に何かある・・・

IMG_7124.jpg

標高470m。
大きな坑口が二つ現れました。
この風格たるや、今まで訪れた下越の坑口の中でナンバーワンかもしれません。
これは明治初期の坑口ではありません。
おそらく閉山末期の頃に掘られた坑道でしょう。
となると、ここは東山鉱区?

※5月14日追記:
「草倉銅山鉱床報文」坂市太郎(M19)を読んでいたら、3枚目の写真の坑口の名称が判明しました。
”草倉本樋から東に40間(約70m)離れたところに草倉奥樋がある”と書かれていたので、念のため本坑口と3枚目の写真の坑口との距離を測ってみたら概算ですが60m程ありました。
方角的には北東でしょうか。
なので、草倉奥樋の坑口とみなすのが妥当かと思います。






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