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赤谷炭鉱大切社宅跡 [鉱物(新発田市)]

新潟県内で炭鉱が盛んに行われていたのは、昭和16~23年頃だったようです。
具体的にはその頃、石炭5炭鉱、亜炭50余炭鉱で採炭が行われていました。
昭和30年代に入ると石炭や亜炭に代わり、石油や天然ガスが燃料資源として主役に躍り出て、炭鉱の休山は一気に加速していきました。
さて、当時新潟県内で最大の産出量を誇った炭鉱はどこだったのでしょう?
それは新発田市の赤谷炭鉱だったのです。
赤谷炭鉱の歴史は古く、万延元年(1860)にまでさかのぼります。
閉山が昭和38年なので、100年近い歴史を誇るのです。
昭和に入ってから出炭量は増え、昭和10~25年頃にかけてが最も多く、年間1万トン以上出炭していました。
同じ新発田市内には他にも菅谷炭鉱があり、お隣の胎内市には宮久炭鉱がありました。
いずれも規模は小さく、具体的な場所などの資料は見つけることができませんでしたが。
以上は「新潟県地質図説明書」昭和52年版から得た情報なのですが、もうひとつ参考にした記事があります。
東赤谷出身の方がやっている「緑の谷・赤い谷」というブログがそれ。
主として昭和30年代に撮影された豊富な小写真が紹介されており、痛く心を動かされた次第。
つい先日下調べしたら、なんとグーグルアースのストリートビューが社宅跡のすぐ手前まで伸びていることがわかりました。
道幅は細いものの何とか舗装されているようです。
取り敢えず、大切社宅跡まで行ってみようと27日、現地を訪れてみました。

IMG_0903.jpg

ストリートビューはこの小屋の前まで来ています。
この小屋も年代物ですね。

IMG_0897.jpg

ここが社宅跡地。
車道はここまで延びていました。
軽自動車じゃないと厳しいと思いますが、ここまでは軽で難なく入ってくることができました。
道路をはさんで反対側にも3段の丘になっている広場があり、かなり広い面積があります。
ですから、集落の規模もそこそこ大きかったのでは。
「緑の谷・赤い谷」の古写真を思い起こすと、本当に涙が出てきそうです。
かつてそう遠くない昔、ここに人々の賑わいがあったのです。

IMG_0902.jpg

広場を歩き回っていたら、テレビの残骸を発見。
あと、古いガラス瓶が何本か落ちていました。

IMG_0896.jpg

広場の前には、赤谷炭鉱で亡くなった方の慰霊碑が立っていました。
リンクを貼ったページの3枚めに慰霊碑の写真が載っています。
それと見比べると感慨深いです。
赤谷炭鉱はもともと北越製紙が経営母体で、昭和20何年だったかに経営から手を引いたのですが、昭和38年の完全閉山までその後も細々と炭鉱は続けられていたようです。
慰霊碑の右側の側面には、亡くなられた10名の方の名前が刻まれていました。
合掌。

tankou.jpg

ガーミンで記録したログです。
車道は社宅前まででしたが、そこから奥もはっきりした踏み跡が続いていたので辿ってみました。
標高250mを超えたあたりから残雪が現れました。
尾根の小ピークに出ると、そこは送電線鉄塔の真下。
そこでUターン。
くだんのブログの最後の記事に、赤谷炭鉱全図が掲載されていますが、サイズが縮小されているので、文字は判別できません。
この地図を帰宅後改めて眺めていたら、送電線管理用の踏み跡はほぼ古地図に載っている鉱山道をトレースしているように思いました。
あわよくば、坑道の入り口でも見つからないかなと思ってのハイキング?でしたが、さすがにそれは甘かった。
古写真を見ると、坑道は大規模で、総延長もかなりの長さになるものと思われます。
なので、閉山したときに入り口は完全に封鎖したことでしょうし。

IMG_0901.jpg

帰りにちょっとだけ沢沿いに歩いてみたのですが、ほどなく写真の滝が出てきました。
うっすらと右岸に踏み跡が付いており、踏み跡を辿ると簡単に滝を越せました。
滝の上からは踏み跡は左岸に移っており、足を濡らしたくなかったのでそこでUターン。
赤谷鉱山に比べると全く知名度が低い赤谷炭鉱ですが、自分の故郷にこんな場所(県内最大の炭鉱)があったなんて、改めて驚いた次第。
隅から隅まで知り尽くしたと思っていた赤谷周辺の山林も、この一角は足を踏み入れたことがなかったです。
これも広い意味での低山ハイキング。
里山歩きはいろいろな発見があります。






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