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かつてここに小学校があった・・・ [鉱物 (阿賀町・持倉鉱山)]

これから紹介する写真は、HP「ミックンのつぶやき」の”亜鉛電気精錬(株)跡”という記事にアップされている写真と一部重なります。
ここへ行こうと思った動機は決して亜鉛電気精錬の廃墟を見たかったわけではなく、隣接していた尋常小学校分教場の名残があるかどうかを確かめるためでした。
ぼくが入手した地図には、分教場のあった場所が記載されており、それによると本山地区とここ亜鉛電気精錬のあった広場にそれぞれ建っていたことがわかります。
それ以外の資料でも、分教場は2箇所にあったことが書かれており、それらの資料を目にした瞬間から、持倉鉱山の坑口以上にその地を訪れてみたいと思ってきました。
場所は林道終点と事務所跡の廃墟が残っている場所との中間地点。

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事務所跡や、川を挟んで対岸にある製錬所(亜鉛電気精錬の製錬所とは別です)の写真はネットで無数に見られますが、亜鉛電気精錬の廃墟の写真は”ミックンのつぶやき”にアップされているそれがオンリーワン。
4月28日、満を持してこの地を訪れたのだけど、予想以上に広範囲に遺構が散らばっており、石垣の規模もかなり大きなものでした。
ぼくが入手した地図によると、亜鉛電気精錬の建物があったのは川に近い側で、そこからやや下手に小学校が建っていたようです(実際に現地を歩いてみた感じでは、山の神の北側にあったのではと思っています)。
ただし、非常にアバウトな地図なので、それがどのくらい正確なのかは判断材料がありません。
カラミレンガで出来た建物の部分的な遺構は、先に述べたように広範囲に分布していたので、ひょっとしたら小学校の建物もカラミレンガで作られていた可能性もあります。

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持倉鉱山が閉山してから植林されたであろう杉林の中には、踏み跡が幾重にも残っていました。
山際の方には道の痕跡も。
昔は持倉川左岸に道路があり、事務所跡の手前に架かっていた橋を渡って右岸に建っていた事務所へ到達したのです。
今はこの少し上流に大きな砂防堰堤があり、その堰堤でこの旧道は分断されていますが。

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ここに集落があったとなれば、人々の心の拠り所となった神社の祠も残っているはず。
ミックンのHPの内容はこの時点ではあまり細部の記憶がなく、実はそこにも山の神の写真が掲載されていることを知ったのは帰宅後でした。
先般訪れた水谷銀山の集落跡地もそうでしたが、ここも山の神に通じる明瞭な小道が残っていました。
境内入り口に立つ祠のひとつは、ミックンが倒れていたものを元に戻して整備したものなのです。
彼に心から敬意を表します。

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裏にはこう刻まれていました。
左右どちらの祠にも同じ名前が刻まれていましたが、どちらも等しく風化が進んでおり、完全には判読不能。

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小高い丘のどんづまりに鎮座しています。
ナムナム・・・

「本山には鉱夫及びその家族たちが住む飯場があり、集落を形成していた。食糧や坑木などは、山道を鉱夫たちが背負って運んだ。また、製錬所は、製錬の際に出る鉱滓(カラミ)を固めたレンガで造られ、その周りにも事務所や職員・鉱夫たちの住宅などが十五、六棟は建てられ、”金山(カナヤマ)”と称した集落を形成していた。最盛期には従業員数二百五十名ほどが働き、これらの集落には四、五十人の子どもたちが学ぶ小学校も、本山と製錬所と二校設置された。」
(”東蒲原郡史 通史編2 近現代”より抜粋)

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