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八前沢銅山の全容 (前編) [鉱物 (弥彦山周辺・八前沢銅山)]

同じ弥彦山系にあったと言われる鮫銅山もそうなのですが、八前沢銅山(もしくは鉢前銅山)の名前が出てくる最も古い文献は「日本の鉱山文化」国立科学博物館1996発行に収録されている絵図です。
これらの絵図は明治6年に開催予定のウイーン万博に出品予定であることが、前の年に発表されたリストに載っていることから原本は江戸時代に作成されたものと推測することができます。
その絵図の注意書きとして、鉢前銅山から野積村まで一里、麓村まで半里と書いてあり、絵図に描かれている山並みと併せて考えると、弥彦山山頂から雨乞山にかけての稜線付近の谷にあったものと想像できます。
その他、八前沢銅山もしくは鉢前銅山について言及している資料をまとめてみます。

①間瀬郷土史と岩室村史
地元の今井義雄氏の語るそれを記録した文書。ここに収録されている絵図は誤りが多く、間瀬銅山のおそらくは八号坑が位置する地点に鉢前銅山があることになっている。
個々の銅山~太刀川・鉢前(=鉢前)・赤滝(=坂井)・間瀬~の概略についてはよくまとまっており、民俗史の観点からも貴重。

②「間瀬銅山の鉱脈についての観察大略」曽我俊二郎
曽我氏は地質学者であり、間瀬銅山全般における地質や鉱物についての学術的な記述はオンリーワンであり(弥彦&角田山系の地質についての論文は、平成以降書かれたものは複数あるが)、大変貴重。
間瀬銅山の各坑口と鮫銅山について詳しい。
発行年が明治34年なので、最盛期を迎えた大正時代初期の状況を反映した情報ではないので、その点注意。

③「八前沢銅山を尋ねて」小林孝~弥彦郷土史第19号より
実際に八前沢(現在の八枚沢)を踏破し、計7つもの坑口を発見。
それぞれの坑口の位置関係を記した図も載っており、大変有益。
また、麓村の本多庄左衛門家に伝わる文書を紹介しており、その点でも貴重。
明治21年9月、草倉銅山に出資し、古河財閥の基礎を作った古河市兵衛氏の代理人である青山氏と麓村との間で交わされた”八枚沢銅山示談約諾書”が紹介されている。

④「ミックンのつぶやき」
当ブログでも何回も取り上げている、また引用させてもらっているホームページです。
M君の情報収集力はその辺の学者を凌ぐものがあり、大変参考になります。
「日本の鉱山文化」収録の、鉢前銅山の絵図もM君のHPから見ることができます。

さて、鉢前銅山と八前沢銅山は同じなのか?
これについては、小林氏は別であるという立場のようです。
「・・・八前沢銅山は間瀬銅山の南東に位置し、この銅山の峰越えの北には間瀬の鉢前銅山がある位置になっている。」と、岩室村史の絵図に言及し、絵図の示す位置関係が正しいものとしてそのように結論付けています。
一方M君は同じという立場。
もっとも彼は八前沢銅山という単語を一度も使っていないので、小林氏の文章も読んでいないと思われますし、鉢前銅山しか眼中になかったようです。
そしてぼくですが、6割ぐらいしか確信はないのですが、両者は同じであるという意見です。
それより、M君は江戸時代に作成された絵図をもとに、鉢前鉱区ともう一つ菜畑鉱区があると考え、両方の坑口を探すことに成功しています。
ここで引っかかるのは、②の曽我氏の文書に書いてある次の内容。
「間瀬銅山事務所付近にして、間瀬にもまた多くの樋(ヒ=鉱脈)あり。そのうち間瀬のナバタケの樋は走行北八十度西傾斜西南に五十度なり。・・・」
この文書の冒頭でも氏は書いているのですが、間瀬銅山付近の区域を大きく3つに大別しているのです。
間瀬銅山事務所付近の区域、野積鮫ノ沢付近の区域、そして鉢前沢の区域です。
続いて間瀬銅山周辺の鉱脈を列挙しているのですが、そこで”間沢のナバタケの樋、間沢子午樋”というように間沢という接頭語を使っているのです。
つまりナバタケの樋は間沢沿いにあり、位置関係としては鉢前地区ではなく、間瀬銅山事務所付近に近いと読み取ることができます。
実際、「日本の鉱山文化」収録の絵図を見ても、鉢前の敷口(=坑口)と菜畑の敷口との間にはかなり隔たりがあるようです。
なにせ超大雑把な絵図なのでいかようにも解釈できるのですが、ナバタケと名の付く鉱脈が江戸時代からあったことは確かで、それは鉢前の坑口側から見たら相対的に間瀬銅山事務所の方向に位置するということは言えると思います。
そっち方面を1/2.5万の地形図でつぶさに眺めると、他に可能性のあるのは、ぼくが先日鉱山の名残りの数々を認めた滝壺ノ沢の源流部でしょうか。
その北は鮫ノ沢ですし、その向こうは間瀬本坑エリアの深ヶ沢水系になってしまうので、本当にナバタケの樋だけはどこにあったのかわかりません。
間沢ってどこ?
宝川のことを真沢とも言うのですが、真沢=間沢なのでしょうか。
う~ん、謎が多すぎる。

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去る13日、2020/04/04に続き、八前沢沿いを歩いてみました。
前回は一ノ滝で引き返したのですが、今回はどうにかこうにかこの滝もクリア。
小林氏が発見した7つの坑口を全てカメラに収めてきました。
今回は一ノ滝から下流部に位置する坑口の紹介です。
上の写真は下流部の風景。
昨年今年とかなりあちこち弥彦山系の沢を歩きましたが、最もヤブが深く、歩くのに疲れるのがこの沢です。

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最初に左岸に現れる坑口。
小林氏が言うところの”一の坑口”です。
尚、小林氏は右岸と左岸の使い方を間違っているので指摘しておきます。
上流側から下流を見て、右手が右岸左手が左岸です。

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内部は完全に水没。
今井氏の語るところによると、「坑口は丁度滝の横から掘り進み、坑内は水で作業困難のようであった。」とありますが、それがこの坑口を指すのかはわかりません。
郷土史の鉱山毎の坑道略図だと、それは滝下坑を指すものであると推測できます。
しかし、それほど大きな滝は横にはないし、そもそもかなり上流まで行かないと右岸に坑口は出てこないのです。
坑道略図には滝下坑の向かいに一号坑が記されているのですが、その位置関係が合わない・・・
先に、八前沢銅山イコール鉢前銅山であるとの確信度は6割であると書きましたが、この矛盾がなければ8割にアップしてもいいのですが。

IMG_5966.jpg

続いて二つ目の坑口。
尚、途中ここへ来るまでかなり大きな滝を高巻きしないとなりません。
小林氏の文書における”中の滝”です。
右岸に巻き道がうっすらと付いているので、注意すればわかると思います。

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実はこの坑道が一番長かったです。
内部へ侵入したわけではありませんが、どの坑道も狭くて天井も低く、四つん這いにならないと前へ進めないのは共通点。
その中ではこの坑道がわずかですが高さもあり、入り口から見通せる直線部分の長さがありました。
20~25mくらいあるでしょうか。
その先も左に曲がって続いているようです。

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これが名瀑・一ノ滝。
今回もここへ来るまで既に体力を半分以上使い果たし、ここでUターンしようかなと弱気になったことを告白します。

IMG_5974.jpg

やはりここも右岸を巻きます。
行くときは巻き道がわからず、最も斜度が緩そうな斜面を登ったのですが、登りすぎてしまいかなり苦労しました。
帰りは巻き道を見つけることができ、ほぼ忠実にトレースすることができました。
しかしながら踏み跡の幅は狭く、ところどころ路肩が崩壊してなくなっていたり、地を這うように樹木が道を塞いでいたりするのでそれなりに体力は消耗します。
沢登りの中級者以上のレベルでないと難しいかも。
で、これは帰りに撮った写真なのですが、巻き道の入り口の反対側にこの埋没した坑口が控えていました。
前回の記事でもここを写していますが、おそらく自然地形ではなく、坑口が埋もれてしまったものだと思います。
すぐ左にはここより小さいですが類似の地形があり、上部に7~8cmの隙間があったのでライトで照らしてみたところ、奥に空洞がありそうな気配でした。
尚、中の滝を超えると水量は一気に減りますが沢の斜度が増し、本格的な沢登りという風情になってきます。



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