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持倉鉱山事務所跡探訪記 (前編) [鉱物 (阿賀町・持倉鉱山)]

23日、来年春にと考えていた持倉鉱山の廃墟跡へ行ってきました。
既に今年2回途中まで下見しているので、準備は万端。
水温の低さを考慮し、2足持っているウェーディングシューズのうち、ウェットスーツの生地でできたアユ釣り用のそれを今回初めて持参。
シマノのこのシューズ、2mm厚のやはりウェットスーツの生地でできたソックスが付属しており、これだと濡れてもそれほど冷えないのではないかと。

IMG_0321.jpg

結果は正解。
水温がそれほど低くなかったせいもありますが、足元の冷えを感じることは2時間の行動時間の間まったくなかったです。
水量はすねまでで、膝から上を濡らすことはありませんでした。
さて、遡行記に入るまでに、持倉鉱山について簡単に調べたことを書きます。
テレビ朝日の「ナニコレ珍百景」で取り上げられたこともあり、近年脚光を浴びている持倉鉱山。
開発の歴史は古く、江戸時代(1700年代)まで遡ります。
最初は銀、続いて銅が採掘され、明治以降は亜鉛も採掘されるようになりました。
また、明治36年には蛍石(フローライト)が発見され、蛍石も若干採掘されていたようです。
今から思うと信じられないのですが、この持倉鉱山の事務所跡でさえ十分人里離れた山奥に立地するのですが、大正年間にはここからさらに沢を上流へ遡った所に抗夫とその家族が住まう居住地区が設けられていたようです。
山奥故に、悲劇がこの居住地区や関連施設を何度も襲います。
以下、ある資料からの抜粋。

*大正3年2月10日 暖気による雪崩のため鉱山建物1棟倒壊、20余名埋没、死者6名負傷者12名。
*大正4年3月8日 裏山約17尺の所からの雪崩で物置小屋が半壊、作業中の1名死亡。
*大正7年1月30日 雪崩で4名が1丈6尺余も下に突き落とされ埋没したが、救出された。
*大正8年1月11日 雪崩で飯場1棟が倒壊、戸内にいた人夫は外に逃げたが埋没、約30分後までに掘り出すが死者3名負傷5名。約300間の箇所より幅3間厚さ2尺余の雪崩。

休山は大正9年。
第一次世界大戦(大正3~7年)終戦後バブルがはじけ、銅の価格が暴落。
また、持倉鉱山における金属鉱床はほぼ採り尽くされたので休山とあいなったらしいです。
もちろん、大正年間に入り、何度も飯場が雪崩に襲われ多数の死者を出したので、それも影響しているものと思われます。
さて、しばらくは放置されていた持倉鉱山の事務所の建物ですが、昭和14~17年に再び探鉱が開始され、使われるようになりました。
その頃は蛍石メインに採掘していたようです。
坑口はそこからさらに2時間前後歩いた山奥にあったのですが、採掘現場から事務所までは人間が鉱石を背負って運搬(男性で50~100kg、女性で30~40kg)。
事務所から五十島駅までは牛馬で運搬していたとのこと。
事務所は鉱石の保管場所として利用されていました。
昭和30年代に入ると採掘現場からの搬出には架空索道が使われたらしいです。
第二次世界大戦中は再び休山になりましたが、昭和32年探鉱再開。
蛍石の産出量は年間800~1000トンほど。
昭和38年、俗に言うサンパチ豪雪による被害のため完全に閉山。
蛍石を採り尽くしての閉山ではないため、今でも坑口まで辿りつければおこぼれにありつける可能性があります(と睨んでいます)。
しかしながら、一帯はヤマビルの群生地なのでそこがネックです。

ところで、持倉鉱山と五十島鉱山は別会社であり、戦後蛍石を採掘していたのは後者の方です。
鉱区は隣接しているとのことですが、ネットでいくら探しても坑口の位置が記載された地図は見つけることができません。
昭和52年版の新潟県地質図説明書にも記載はありませんでした。
どれが持倉鉱山でどれが五十島鉱山のものかはわからないのですが、ネットや各種資料で名前が出てきた坑口名を列挙します。

*水上坑、掛居坑、山神坑、葎沢坑、虚空蔵坑、北星坑、東華坑、北華坑、通洞坑、本山坑、大通洞坑

また、「蛍石、及び蛍石鉱床」という資料には、第一号坑、第二号坑、第三号坑、第四号坑などの固有名詞が出てきます。これらは五十島鉱山に属する坑口のようです。
もうひとつわかったのは、五十島鉱山は持倉沢の左岸にあったらしいこと。
ただこれとて、五十島鉱山の全ての坑口が左岸にあったとの確証はないのですが。
ぼくは蛍石探しが目的で、持倉鉱山及び五十島鉱山のことを調べ始めました。
新大のサイエンスミュージアムに五十島鉱山産の蛍石の原石が幾つか展示してあるのですが、どれもちゃんと蛍光現象を示すし、本当に素晴らしい結晶です。
今年、最も魅せられてのは蛍石なのです。
この結晶達に巡り会う可能性というか手段として、最もお手軽なのは沢の転石を探すこと。
ただ、五十母(いそも)川はご多分にもれず堰堤が多く、実際に現地へ行ってみないとどの辺の河原に蛍石の川ズレ原石が転がっていそうか、想像がつきません。
それで今回持倉鉱山の事務所跡を訪ねたわけです。
ギリシャ神殿のような神々しさを誇る事務所跡の建物を見るのももちろん興味はありましたが、第一の目的は川の状況視察でした。
付け加えると、持倉鉱山の事務所跡が立っている五十母川は、上流で赤松沢、日倉沢を右岸側に分け、本流は持倉沢と名を変え、日本平山手前の大池近くの支稜に源を発しています。
いざ実際の坑口付近まで足を伸ばしてみたいといった場合、上流部の渓相がどうなっているか、沢登りの本格的な道具を必要か、難易度はどうかなども事前に調べておく必要があります。
で、その点に関しては新潟峡彩山岳会の方の遡行記が参考になりました。
ブログに遡行図までアップしてくれてあります。
持倉沢だけでなく、赤松沢とマンダロク沢のそれまで。
五十島鉱山の実際の坑口がどこにあったのか、確乎とした資料がないので想像の域にすぎないのですが、1/2.5万地形図をつぶさに観察すると怪しい箇所が2箇所ほどあるのです。
それらのうち、標高の低い方の場所で標高約400mあるのですが、例の遡行記、及び遡行図と照合してみるとそこに至るまで高巻きを少なくとも2回こなさなければなりません。
ただ、日倉沢出合いまでは容易に行けそうなので、そこまでの区間で転石探しを来年春行ってみたいと考えています。

さて、前置きが長くなりましたが、今回はできれば最終堰堤まで行ってみたいと思っていました。
先の遡行図や国土地理院の地形図を見ると、林道終点から事務所跡まで一つ、事務所跡からはさらに6つの堰堤があることがわかります。
新潟峡彩山岳会の方の遡行記によると、事務所跡から最終堰堤まで1時間を要したとあります。
林道終点は小型車2台しか駐車できません。
そこは面積が思いの外小さく、1台が広場の中央に停まっていたら、転回できない可能性もあります。
その場合は150mほど手前の路肩に1台分の駐車スペースがあるので、そこに停めるといいでしょう。
ただそこは落石の危険のある場所なので、安全のことを考えるとさらに150mくらい手前に2台停められる、割と広めの路肩がありますから、最初からそこに停めた方が無難かも。
道幅は狭いので、いざ終点まで行って停められなかったからバックで戻るとなると難行苦行が強いられますから。
林道終点から歩き始めてすぐ、大きな堰堤が現れます。
平成11年に完成した、流域で最も大きな堰堤です。

IMG_0271.JPG

河原の転石探しをするなら、この堰堤から上流部へ行った方が良さそう。
下流部~前回夜に訪れ、UVライト片手に探索した河原~は、事務所前後の河原と比べるとらしい雰囲気を漂わせる石が少ないのです。
この堰堤から上手は結晶質石灰岩が多く、また花崗岩も結晶の粒が大きいものが多かったです。
河原に降りるのも、実は下流部よりこの堰堤から上手の方がより簡単に降りられます。
(続く)

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