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アマノカグヤマノミコトゆかりの洞窟 [神社仏閣・史跡(中越)]

弥彦神社の歳神として知られる天香山命(アマノカグヤマノミコト)は、海部氏の始祖・天火明命(アメノホアカリ)の息子です。
海部氏とは丹後国は籠神社の社家を代々務めている家系で、尾張氏など多くの豪族の始祖とされます。
神武の東征で武勲を得た彼は勅命を受け、越の国(福井県~新潟県までの地域の、大化の改新以前の古代における呼称)を平定しました。
海部氏の首長であった彼が、なぜ天香山命と呼ばれるようになったかについては、坂本政道氏が著書「伊勢神宮に秘められた謎」で触れていますので引用します。
それによると、大和の天香久山に居を構えていたから、そう呼ばれていたのではないかとのこと。
地名を苗字(呼称)に使うのはよくあることで、もしかすると代々そう呼ばれていたかもしれない可能性を指摘しています。ちょうど、歌舞伎役者や落語家が同じ名前を襲名するように。
話は逸れましたが、越後に派遣された彼は野積海岸に上陸し、地元民に漁労・製塩・養蚕、稲作などを教え、名君として慕われました。
3年前からなぜか人間としてのアマノカグヤマノミコトに惹かれるようになり、ゆかりの地を片っ端から訪れたりしていました。
そして昨年末、次の写真の石碑が彼を偲ぶために作られたことを知ったのでした。

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以前から岬の先端に石碑らしいものが建っていることに気づいてはいましたが、なにせ建っている場所へ行くまでがとってもリスキーなので詳しく探索したことはありませんでした。

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今年に入ってから既に4回現地を訪れ、男釜・女釜の岩場も隅々まで踏破しました。
さて、石碑の裏の碑文です。
今から約2600年前に、アマノカグヤマノミコトがこの地に上陸したことを称えています。

IMG_7367.jpg

こちらが表側。
1月に入ってからネットで色々検索していたら、彼が塩炊きの技術を地元民に教えたという伝説が伝わっている洞窟の写真を見つけました。
その記事によると、昭和59年、旧寺泊町天然記念物に指定されたこの洞窟は海蝕洞で、洞内に9箇所の甌穴があるとのこと。
最も大きいものは直径170cm、次に大きいものは130cmで、前者を男釜、後者を女釜と呼ぶと。
この時点で既に2回この岬を訪れていたのですが、洞窟がどこにあるか、全くわかりませんでした。
3度めの正直でようやく見つけたわけですが、海から船で岬の周りをぐるりと回らないと普通は入り口に気が付かないでしょう。

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入り口を真上から写しています。
左の崖を最初降りていったのですが、途中から絶壁となって行き詰まりました。
仕方なく、右の岩場からアプローチ。

IMG_7371_73p.jpg

入り口といっても2mの崖の上から撮っており、地面には降りていませんし、中へも入っておりません。
壁が大きくえぐれているので、いったん降りたら登ることが不可能だからです。
ザイルを固定できそうな岩や木も周囲になく、わずか1.5mの幅しかない入り江から泳いで侵入するしかなさそう。
あとで上に見える開口部の近くへ行ってみたのですが、これまた諸々の事情で壁の縁に立つのが難しく、ザイルでそこから懸垂下降することもできなさそう。
おそらくアマノカグヤマノミコトが生きていた時代~約2600年前~は、現在より海水面が低かったのではないでしょうか。
入り江は海面から常時出ており、当時は歩いて普通にこの洞窟へ出入りできたように思うのです。
そうでないと、彼はこの洞窟でしばらく逗留していたようですが、ここで暮らすのは不可能。
入り江の幅が狭いので潮流が早く、泳ぐにせよ小舟で侵入するにせよ、潮止まりの時間帯を狙っていかないとどうしようもありません。
ともあれ、目の前に拡がった洞内の光景に思わず息を飲みました。
広いのです!
こんな広い空間が岬の内側に展開していようとは、誰が想像できるでしょう。

IMG_7374.jpg

天然記念物に指定されている2つの甌穴は、洞窟の手前側にありました。

IMG_7392.jpg

高倍率ズームを望遠側にしてあちこちの壁を写し、帰宅後ピクセル等倍でPC上で鑑賞。
全然解像度が足りないのでなんとも言えないのですが、これは玉髄っぽいですね。
距離が離れているし、中はそれなりに暗いので、本格的な鉱物調査はやはり中へ入ってみないことには始まりません。

IMG_7391.jpg

別なアングルから。
今から2000年以上も昔、この同じ風景を共有していた人間がいるとはとても不思議な気分です。
この洞窟の神々しさが伝わりますでしょうか?
時空の裂け目を垣間見ているような気持ちになったのでした。

※2月16日追記:
1974年に最後の住人が去り、完全な廃村となった角海浜村が西蒲区の巻地区にあります。
そこの海岸線は江戸時代初期と比較し、600mほど後退したそうです。
その原因はこの地域特有のマクリダシ(波欠け)という、数十年に一度の頻度で発生する海岸侵食現象によるものですが、思うに野積海岸や浦浜も海岸侵食現象は起こっていたはずで、ましてや2000年以上昔でしたら当時の海岸線はもっと沖合にあったことでしょう。
幸か不幸か、現在は洞窟の入り口から中を覗き見るのが精一杯で、洞内への侵入は極めて困難。
入り口が常時海中に没したことで、洞内はそのままの環境が保たれているのです。











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コメント 2

ROPPA

初めまして、休館の新発田市街探訪拝見させて頂きました。私も外ヶ輪小学校卒で緑の家の子とも友達でした。懐かしいですね。
by ROPPA (2021-02-15 02:51) 

carlossato

ROPPA様、コメントありがとうございます。できればコメントは当該記事のページに残しておいてもらえますでしょうか。どの記事に対するコメントなのか判断できないので、返信のしようがありません。悪しからずご了承下さい。

by carlossato (2021-02-15 10:19) 

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