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大毎金山の核心部 [鉱物 (村上市・大毎金山)]

前回大毎金山へ行った時の記事のタイトルが「5度目の大毎金山探索」なので、これで6度目ということになるでしょうか。
過去の記事で散々書いたけど、唯一心残りだったのは、「人が通れる高さ・広さがあり、その間には多数の枝坑道もある」(佐藤貞治1999)ほどの坑道をまだ見つけていないことでした。
ガーミンで記録したGPSの軌跡を管理しているカシミール3Dのマップを見ていると、どうしても歩いてみたい区画があったので、その隙間を埋めてきました。

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これが大毎金山の舞台、マンニモ山。
既に山腹をぐるりと一周しているけど、坑口は西斜面にも東斜面にも見られます。
でも、おそらくメインは西斜面だったのではないかと想像。
石碑のある飯場跡が北斜面にあり、そこから西の山腹をトラバースする踏み跡が見られるからです。

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未知のルートを辿ってみたはいいけど、そのルート上には何もなくて、どこをどう歩いたのか、気が付くとこの坑口へ来ていました。
なんとなく見覚えのある坑口だったので、帰宅後調べてみたら、やはり一昨年の9月下旬に来ています。
リンクさせたページでは坑口の中へ侵入していますが、今回は8月の豪雨でかなりの土砂がなだれ込んだのか、とても入れる状況ではありませんでした。
手前にも新たな土砂が堆積しているし、内部も天井が低くなっており、奥の空間がなくなっている様子でした。

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そこから右手方向へトラバースしていくと、これまた見覚えのある坑口が。
ここへは昨年の4月30日に来ています。
その時の写真と比べてみると、思い切りシダ類が生い茂っているのがわかります。
この坑口に関しては不思議と土砂の流入はなく、写した内部の写真を比べてみると違いは見つかりませんでした。

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この坑口を出てから、なんとなく右手斜め前方になにかあると第六感が働いたので、そちらへ前進。
約30m先でかなり大きな坑口発見。

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完全に土砂で埋まっていますが、或いは20年前だったらどうでしょう?
大人の身長と同じ高さは絶対にあったと思うのです。
さらにその右にも大きな坑口出現。
この日見た中で最大かもしれません。
横長で、入り口は2箇所あります。
さっきの坑口と、もしかしたら坑道の奥でつながっている可能性もあります。

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内部から小さい方の入り口を写してみました。

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坑道は左側へ伸びていたようです。
大毎金山の坑口は、どれも入口部分が斜坑とは行かないまでも若干下方向へ傾いている坑道がほとんどであり、それゆえ土砂が入りやすいのです。

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この坑口前には大量のズリが拡がっており、その中には珍しく石英が混じっている鉱石もありました。
佐藤貞治氏の「金銀山史の研究」によると、”地質は花崗岩、及び噴気作用のため甚だしく珪質化せる安山岩より成る。鉱床は後者の割れ目を充填せる含金銀石英脈にして、母岩は甚だしく変質作用を受けて頁岩状態を示す”とのこと。
この石もひょっとしたら砂金が混じっているのかもしれません。

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さらに10m右横に、もう一つ大きな坑口が出現。
これもあまり近づくと坑口らしい表情が消えてしまうので、シダ類が邪魔ではあるけど少し引いて写しました。
この坑口も下半分が土砂に埋もれてしまっていますが、おそらく昔は2mほどの高さがあったものと推定します。

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坑道内部。
この坑口前にもズリが拡がっていました。
十貫山にも鉱脈はあったそうですが、そちらでは露天掘りに徹していたのか、坑道掘りを行っていたのかが不明確であり、まだ調査していません。
計6回の調査に及んだマンニモ山周辺に関して言えば、ほとんどの坑口が入ってすぐのところで土砂に埋没しているので、狸掘り跡、露天掘り跡と境界線を引くのが困難です。
なので、坑口や狸掘り跡などを一括りにすると、計10箇所ほどそれらの場所が見られます。
慶長2年(1597)「越後国瀬波郡絵図」に既に存在していたことが伺われ、明治時代におそらく最盛期を迎えていたと思われる大毎金山(閉山は大正2年)、当初の予想以上にかつてここに鉱山があったことの印が山中に多数残っていました。





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