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広谷鉱山探訪記 (2) 選鉱場跡と沿革など [鉱物 (阿賀町・広谷鉱山)]

広谷鉱山の沿革について述べたいと思います。
(参考文献のリストは次回か、その次にまとめて載せる予定。)
1回目の探索後、貴重な複数の文献と出会いました。
本当にマイナーな鉱山なら、これほど頻繁に文献には登場しないはず。
古河鉱業のバックアップがあったことからそれなりに大きな鉱山だったようで、坑口も複数個見つけました。
それらの写真は次回載せます。

①沿革
正確な起源は不詳。はっきりしているのは、明治7年に津川町の平田次八郎が3498坪を購入、稼業し始める。
(※新潟県東蒲原郡西川鉱山黒鉱床調査報告~昭和28年~では、明治の中頃土地の人・伊藤某が発見とありますが、国立国会図書館デジタルライブラリーで見た複数の、より詳細なデータを書いてある資料で明治7年とはっきり謳われているので、本邦鉱業一班(明治40年)の内容を採択します。)
明治14年、古河鉱業が買い取り、本格的に探鉱を開始。
鉱石は同じ古河鉱業傘下の草倉銅山に送って精錬したが、のちに広谷鉱山側にも選鉱場・製錬所を設けた。
完全閉山は昭和20年~30年の間であると思われる。
その根拠だが、昭和31年の資料に”現在休山中”と書かれており、昭和19年まではフォローできているため。
おそらく戦争バブルが弾けてから、時を経ずして閉山したのだろうと思われる(昭和22~24年頃?)。
なお、昭和19年の所有者は㈱昭永鉱業(社長:渡邉彦)。
※補足:昭和17年に創業した円山組株式会社(阿賀町)が、同年広谷鉱山の選鉱場と採鉱坑を請負施行したと、同社のHPに記載あり。

②探鉱法と鉱種など
階段掘りと抜掘法を併用。火薬もしくはダイナマイトも使った。
届け出は金銀銅となっているが、金銀の生産はほとんどなく、もっぱら銅を採掘していた。
生産量はいずれも銅で、57.8トン(明治38)・64.7トン(明治39)・107.8トン(明治40)
(※文献での表記は斤が使われていますが、ここではトンに換算して表記)
鉱脈は第三紀凝灰岩中に胚胎する黄銅鉱が主。鉱脈は数条あり。亜鉛や硫化鉄が混在するが、黄銅鉱そのものの純度は高い。
ちなみに、明治40年当時の坑夫の数は72人。その他(支柱夫、運搬夫、選鉱夫など)を合わせた従業員数は170人。
(※参考までに、同じ年の草倉銅山の坑夫の数は295人、総従業員数は585人であった。)

IMG_0129.jpg

枝沢の探索を終えたあと、本流の河原へ降りる途中で、登山道途中に現れる、ズリを伴う広場より3~4倍広い広場を見つけました。
まずは、道中見つけた関連施設の廃墟を登山道に近い側から紹介します。
最初坑口かなと思ったのですが、中を覗いてみると違うようです。
資材置き場かなんかでしょうか。

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できるだけヤブの薄い部分を歩いていくと、程なくして横長の構造物が現れました(専門用語でなんて言いましたっけ?)。
左側3m先にも高さ1.5m、長さ6~7mの石垣がありました。

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広谷川を見下ろす崖の上に、草木があまり生えていない広大な広場が出現。
こちらが選鉱場跡ですね。
他にどんな施設が建っていたのだろう?

IMG_0142.jpg

左側の、コンクリートの構造物の拡大写真。

IMG_0143.jpg

その先2mにある、何らかの構造物もしくは土台。

IMG_0144.jpg

中央の小高い畝の左右に広場が整地されています。
古写真、残っていないのだろうか?
往時の姿を見てみたい。

IMG_0112.jpg

広場の端から広谷川を見下ろすの図。
河原へ降りるルートはあるのでしょうか?










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