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とことんディープな草倉銅山 (1) [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

「四方沢の旅」という故長島氏のHPで、阿賀野川水系・不動沢の遡行記を読むと、滑滝から草倉銅山入り口までの間に沢沿いに鉱山跡らしい洞窟が3つ現れたと書いてあります。
一番上流に位置する”鉄索で塞がれた洞窟”は千勝堅坑であることは間違いないのですが、あとの二つはまだその区間を遡行したことがないため、自分の目では見たことがありません。
以前のブログで、明治19年に作成された地質の一部を載せましたが、うち一つは大切二番坑であると思われます。
(ちなみに、大切一番坑はのちの通洞坑のことです。)
そこで不動沢の中流部を遡行すべく、3日に現地を訪れました。

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毎回思うのですが、大正9年に閉山となってからはほとんど人が入っていないと見え、鉱山道の痕跡はそこかしこに残っていはいるものの、木々がかなり生えており、歩くのに非常に時間がかかります。
やっとの思いで不動沢と船内沢の合流点まで来て安心するのもつかの間、程なくして大きな雪渓が現れました。
左側にも同様の雪渓があり、ここは沢のど真ん中を通過して事なきを得ました。
一時はどうなるかと思いましたが、この先は雪渓は現れず、左岸に思ったより明瞭な旧鉱山道が出てきました。
相変わらずところどころ通せんぼをするかのごとく、道に覆いかぶさる灌木はうっとおしいですが、渓を流れる水量も増え、沢歩きらしい爽やかな気分を満喫。

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そして左岸に坑口が現れました。
位置からすると、長島氏の遡行図における真ん中の洞窟だと思われます。

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実質、明治時代の坑口であり、沢筋にあるため土砂の流入があるのでしょう、崩落&埋没で奥行きはそれほどありません。
それより驚いたのは、壁面が細い小さな水晶に覆われていること。
草倉銅山のもっと標高の高いエリアではよく見られる産状ですが、沢沿いの岩場でもお目にかかれるとは。

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上を見上げると10mくらい急な岩場が続いており、坑口らしき地形も見え隠れしているので登ってみました。
すぐに坑口が現れ、縦に連続して3つも坑口が待ち構えていました。

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埋没していますが、一番上の坑口は立坑気味。

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左岸にはずっと、鉱山道の名残りである踏み跡が伸びていました。
ここは比較的歩きやすかった区間ですが、ヤブに覆われている区間の方が1:4の割合で多かったです。
行きは左岸の踏み跡優先、帰りは沢歩き優先で歩いたのですが、次の写真のように比較的落差のある部分でも高巻きをする必要はなかったので、また行く機会があったら迷わず沢歩きルートで攻めたいと思います。

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最初の坑口がある岩場を過ぎ、ほんの数分で未知の坑口に遭遇。

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記憶があいまいですが、河床からやや離れていたかも。
不動沢は左右両岸とも準ゴルジュ地帯が続き、視線を上部斜面に転じると大岩壁があることに気付かされます。
アルバイトをいとわず丹念に岩場を上り下りすれば、まだまだ坑口は出てきそう。

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どの坑口もそれほど大きなものではなく、埋没しかかっているものばかりでしたが、果たして大切二番坑はどうなのでしょうか。






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まだまだ出てくる大毎金山の坑口 [鉱物 (村上市・大毎金山)]

今まではマンニモ山の7~9合目を主体に探索してきたけれど、どうももっと標高の低い斜面が気になって仕方がありません。
大毎金山にはマンニモ山の他に、十貫山というもう一つの鉱区があり、こちらではまだ一つも坑口を見つけていなかったのも心残りでした。
こないだ入手した『金銀山史の研究』に、一つだけ新たな情報が記載されていました。
それによると、十貫山に非常に大きな旧坑(数百年前のもの)があるというのです。
地質はマンニモ山のそれと同じだけれど、一種の岩脈状態をなし、方々掘り尽くされて風化の跡が甚だしいので断言はできないが、銀を採掘してのが明らかであるとのこと。
こんな文章を読むと余計に十貫山への追慕が増し、5月1日、現地へ馳せ参じました。

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今回は標高300m付近まで下りましたが、途中から明確な踏み跡がところどころ現れました。
そして、段々畑の痕跡があちこちに見えてきました。
大毎の棚田には強い思い入れがあり、ここ10数年間、天体写真や星景写真を撮りに、或いはゲンジボタルの観察をしに足繁く通ったものです。
あとでガーミンのログを落とし込んだカシミール3Dの地図を見ると、大毎の棚田上部からここまで農道が伸びているように思いました。
十貫山の北に365mの小ピークがあり、その周辺に今は休耕田となってしまった田んぼが存在します。
ここはそこよりさらに山奥。
ちょっと感無量です。

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地形図を見ると、十貫山の350mラインに絶壁に近い急斜面があるので、その下辺りの斜面を目指して歩きました。
踏み跡もジグザグに伸びていて、いよいよ急斜面の直下まで来ました。
坑口が出てきそうな気配100%です。

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岩壁の取り付きには大きなズリ鉱石も散乱しており、待望の坑口が現れました。
ただし奥行きはなく、どうも崩落してしまった様子。
そして、本来の坑口は実は左側、大きなズリが積み重なっている方だったかもしれず、こちらはわずかな隙間からより広い空間が奥に拡がっている様子が伺えました。
『金銀山史の研究』p150に載っている十貫山の旧坑の写真とは岩場のディテールが違うので、”非常に大きな旧坑”はこの場所ではないようです。

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そこの近くでもう一つ、上の写真の坑口を発見しましたが、そこまででした。
万策尽きたので、さてどうしようかと思案し始めたところ、小沢(=金子沢)を挟んで対岸に坑口を見つけました。

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そして、さらなるサプライズが待っていました。

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これはでかい・・・
かなり急な崖の途中に開口しています。
なんとか行けそうな気がするのですが。

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マンニモ山と十貫山の境を流れる金子沢です。
こんな山奥まで治山治水工事が行われているんですね。
沢を渡って、いざ対岸に見えていた坑口へ。

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やはり大きな坑口でした。
しかし、水没しています。

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足を踏み入れてみないとなんとも言えませんが、水深30cmはありそう。
粘土質の泥が厚く堆積しており、ウェーダーでも履かないと入っていく気になれません。

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当然と言えば当然ですが、坑道はやはり長かったです。
最低でも25~30mはありそう。

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望遠レンズで撮ってみると、どうやら支保工が2本立っているようです。
坑道はゆるく右にカーブしており、まだまだ続いているものと思われます。
なにげに中間部はひょっとしたら二段構造になっているかもしれず、天井が高い部分もありました。
その後はマンニモ山の8合目に出て、古い坑口が集中している斜面を横切りながら見落としがないか、注意しながら歩きました。
雪解け直後だったので非常に見通しが良く、過去2回ほど歩いたルートでしたが、新たに2つの坑口を発見。

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この僅かな隙間からライトを照らしてみたら、なんと立坑内部の様子が一部垣間見えたのです。
それほど大きな空間ではなかったけれど、近くにこの立坑の別な入り口があるはず。
しかしもう夕闇が迫っており、今回はここまで。
昭和12~18年まで再度稼行した大沢金山に比べ、こちらは大正時代前半で閉山と、江戸~明治時代の古い坑口主体の鉱山です。
それだけに今回かなり大きな坑道を発見したことは意外でした。




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顕になってきた大沢鉱山の全容 (3) [鉱物 (村上市・大沢鉱山)]

坑口が4つ開口していた大岩壁から、標高差にして10m弱北へ下っていったら、いかにも坑口が現れてきそうな地形に出ました。
そして予想に違わず、大沢鉱山エリアで遭遇した中では最も間口が大きな坑口が出現。

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坑道は高さがあり、背を屈めなくても歩くことができました。
これはすごい・・・

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坑道は10~12m先で二手に分岐しており、こちらは左側の部屋。
そうです、どちらの坑道も進むとすぐに長方形のホールが現れたのです。
左側の方で約4X5m、右側の方はそれよりやや大きく約5X6mといった感じ。
天井はどちらのホールも高く、2.5~3mありました。
右側のこのホール、よく見ると中央に2m四方の、コンクリートの水槽のようなものがあります。
あちこちに支保工や坑木が散乱し、往時の熱気が伝わってきます。

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今度は右側のホールへ行ってみます。

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『金銀山史の研究』小菅徹也著(高士書院)に、「・・・益坑ヒの西部は一体に鉱染鉱床と称するより、むしろ細脈分岐結合せる網状鉱床にして、目下判明せる幅員は約100mにわたり、細脈中に20グラム乃至80グラム程度のもの各所に介在す」とあります。
網状鉱床で思い出したのですが、猿田川の支流沿いにあったと言われる三面鉱山はやはり金を採掘していた鉱山として日本金山誌に書かれています。
引用します。
「鉱床は主として粘板岩中の網状鉱床で、部分的には鉱層状を示す。(中略)千畳敷坑は網状鉱体で、掘り跡は20mX20mの大空洞を形成している。」
なので、この坑口の鉱体も網状鉱床であり、従って掘り跡は四角いホールのような大空間となったと考えられるのです。

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ホールの天井にはコウモリが群生していました。
まだお眠りのようです。

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『金銀山史の研究』によると、大沢金山(=大沢鉱山)の主坑は益坑ヒであると書かれています(昭和13年当時)。
また、昭和12年から18年まで稼業した㈱大沢金山鉱業の取締役兼鉱山長であった成井氏は、「当社稼行の当初は、高品位鉱石の抜掘乃至箱掘をなす半面、低品位鉱石は250ポンド5本建及び350ポンド5本建搗鉱機(とうこうき)2台を使用し、60メッシュの網目を通しネコ流し比重選鉱を行い、粗鉱と共に尾去沢鉱山に売鉱せしが・・・」と述べています。
すなわち、このホールではまさにネコ流しが動力を用いて行われていたのではないかと。
この坑口が益坑ヒであるかどうかは情報不足でなんとも言えないのですが、ぼくがGPS機器を使って作成した坑口マップによると、この坑口は東西に長い大沢鉱山の区域のほぼ中心に位置するのです。
個人的にはこれこそが益坑ヒではないかと思っていますが、どうでしょう?










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