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五十母川各支流の正式名称 [鉱物 (阿賀町・持倉鉱山)]

最近、持倉鉱山(阿賀町)の鉱山関係者が作成した複数の貴重な資料を入手しました。
それらを解析&解読していて気づいた点を列挙します。

①国土地理院の1/2.5万地形図に記載のない、ほとんどすべての沢に名前が付いている。
②金山と呼ばれる集落が形成されており、当時は小学校の分教場があったことは知っていたけど、なんと、分教場は2箇所あった。そのうち1箇所は思い切り山奥にあった。
③ネットで散見される五十母川水系の遡行記や登山記に出てくる沢の名称と違っている沢が多い。
④林道終点のすぐ先にある平成11年建造の砂防ダムができる前は、同じ場所に昭和34年竣工の砂防ダムがあり、それができる前までは、林道は五十母川の左岸に付いていた。
⑤同様に、昭和34年に竣工した砂防ダムができてから五十母川の河床が大幅にせり上がり、持倉鉱山のランドマークである事務所の廃墟が立つ広場の前の流路が変わってしまった。流路が変わることにより、昔の地図に出てくるL字型の建物が消失した(土砂に埋もれてしまったのか、流されてしまったのかは不明)。

坑口の位置は省略しますが、大正時代、鉱山関係者の間で通用していた沢の名称を地図に清書しましたので、それを掲載したいと思います。
そこに架空索道(鉄索)と、二校あった尋常小学校の分教場跡も参考までに記しておきました。

IMG_0791.jpg

鉄索の起点と終点の位置はアバウトです。
また、上流部の小学校跡の位置もかなりアバウトです。
尚、これらの小学校に通っていた生徒数は40~50名とのこと。
2校合わせての数字なのか、下流側の方の学校の数字なのかは判然としませんが。
もう一点、大正時代の地図では現在の大清水沢が五十母川の本流と記載されています。
細かいことですが、確かに全体の流路は大清水沢のほうが持倉沢より長いので、大清水沢を五十母川の本流とすべきだと思います。
現在登山関係者の間で用いられている沢の名称で、当時のそれと違いが多く見られます。
まず、モグラ沢というのはムグラ沢(葎沢)がなまったものと思われます。
マンダロク沢は昔も今も同じ名称が用いられていますが、次の赤松沢は大正時代の地図では下赤倉沢と上赤倉沢となっており、そこからさらに上流の日倉沢は当時の地図では大清水沢(五十母川本流)となっています。
もっとも、歴史ある町の名前でさえ、市町村合併によりあえなく全然関係ない名前にすげ替えられるご時世ですから目くじらを立てる必要はないのですが、かつて使われていた名称を明らかにするのはそれなりに意義があると思っています。
例えば、五頭山系の沢は阿賀野市が発行している「五頭連峰山岳観光マップ」に事細かに載っていますが、近年マイナーな沢の名称はどんどん国土地理院の地形図から削られる一方です。



IMG_0789.jpg

こちらは、流路の変化により失われてしまった建物の位置を記した資料(模写)。
オリジナルの地図がかなりデフォルメされているので正確ではありませんが、おおよそのイメージはつくでしょう。
この失われたL字型の建物に言及した資料は、少なくともネットではないようです。

IMG_0331.jpg

これは昨年12月23日、初めて持倉鉱山事務所跡を訪れた際に、例の砂防ダムから下流部を写した1枚です。
その頃はまだ上記のような事実を知らなかったので、深く考えずシャッターを押したもの。
おそらく、正面の杉林の向こうに亜鉛精錬所があったのでしょう。
そして、その隣に分教場があったものと思われます。
亜鉛精錬所の廃墟は、まだ一部現地に残っているみたいですね。
今年改めてこの場所も調査したいと考えています。
分教場の痕跡を示すものがあるかどうか。
土台がコンクリートなら残っているでしょうけど、多分土台も含めて木造建築だったでしょうから、痕跡は皆無だとは思いますが。
それと、この写真を見て初めて気づいたのですが、左岸に林道の跡が残っていますね。
当時はこの先で橋があり、橋を渡って右岸へと林道は続いていたらしいです。
林道の終点手前の河岸段丘に小学校の分教場があったこと、事務所の廃墟が残っている河原に、かつてはもう一棟建物があったこと。
近年観光名所化しつつある持倉鉱山事務所跡ですが、当時の光景を思い描く際の一助となれば幸いです。


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