深戸鉱山・大正時代の坑口 [鉱物 (阿賀町・深戸鉱山)]
かれこれ4回目の探索になるけど、ようやく深戸鉱山の坑口を探し当てることができました。
「本邦鉱業の趨勢」(昭和11年)によると、大正6年12月、鉱業権者の宮川謙が試掘権を設定。
昭和5年11月、㈱深戸鉱山が権利を譲り受け現在に至る、とあります。
昭和5年当時の鉱夫の数が23名。
昭和11年度の産出量は34tで、銅の品位は10~30%。
その後はいくつかの変遷を経て、昭和26年最終鉱業権者の㈱只見鉱業へ引き継がれたのですが、いつ閉山したのかは不明。
尚、新潟県地質図説明書(昭和30年)によると、昭和28年の従業員数は44名、生産量は銅の精鉱205tとあります。
道中、クマ捕獲の檻を二つ見かけました。
かなり上の方で石組みを発見。
溶鉱炉でもあったのかな?
そして、こじんまりとした広場にお決まりの一升瓶発見。
ということは、坑口は近い?
やっぱり近くに坑口が控えていました。
10m間隔で二つの坑口が並んでおり、こちらは右の方の坑口。
全長15~20mでしょうか。
続いて、左側の坑口に入ります。
こちらの方がやや天井が高い・・・
途中、立坑が控えていました。
立坑内部。
そして閉塞。
全長20~25mといったところでしょうか。
どちらの坑道も赤鉄鉱と石英の脈があちこちに析出していました。
「本邦鉱業の趨勢」(昭和11年)によると、大正6年12月、鉱業権者の宮川謙が試掘権を設定。
昭和5年11月、㈱深戸鉱山が権利を譲り受け現在に至る、とあります。
昭和5年当時の鉱夫の数が23名。
昭和11年度の産出量は34tで、銅の品位は10~30%。
その後はいくつかの変遷を経て、昭和26年最終鉱業権者の㈱只見鉱業へ引き継がれたのですが、いつ閉山したのかは不明。
尚、新潟県地質図説明書(昭和30年)によると、昭和28年の従業員数は44名、生産量は銅の精鉱205tとあります。
道中、クマ捕獲の檻を二つ見かけました。
かなり上の方で石組みを発見。
溶鉱炉でもあったのかな?
そして、こじんまりとした広場にお決まりの一升瓶発見。
ということは、坑口は近い?
やっぱり近くに坑口が控えていました。
10m間隔で二つの坑口が並んでおり、こちらは右の方の坑口。
全長15~20mでしょうか。
続いて、左側の坑口に入ります。
こちらの方がやや天井が高い・・・
途中、立坑が控えていました。
立坑内部。
そして閉塞。
全長20~25mといったところでしょうか。
どちらの坑道も赤鉄鉱と石英の脈があちこちに析出していました。
2024-02-19 10:03