SSブログ

新発田・桜絵巻 [桜]

IMG_1950.jpg

池ノ端陣屋広場

IMG_1963.jpg

北蓑口

IMG_1964.jpg

飯島

DC_IMG_2002.jpg

宮古木

IMG_2019p.jpg

宮古木

背景は二王子岳です。
撮影日:4月11日 (共通)

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大毎金山へ [鉱物 (村上市・大毎金山)]

今年2月、新潟県立図書館でとても興味深い本に出会いました。
それは「日本の金銀山遺跡」萩原三雄著です。
県北の金山や鉱山に関しては、度々当ブログで言及しているHP”ミックンのつぶやき”と、ブログ”サルナシの掘り掘り日記”が詳しいです。
それらのサイトで紹介されている参考書として、”金銀山史の研究”や”日本金山誌”などが挙げられるのですが、残念ながらどちらも国立国会図書館のデジタルコレクションに収録されていないため、また現時点では古本屋にも在庫がないため入手不可能。
ぼくもまだ読んでいません。
「日本の金銀山遺跡」は出版年が2013年と新しく、内容も充実しているため、この本に出会ってから一気に県北の金山や鉱山に対する関心が強まったのです。
そこにきて、つい先日新たに”羽越地域の花崗岩類と鉱化作用”(地質調査所月報・第34巻第1号)を入手。
これは全16pの論文なのですが、地質に関するマニアックな記述は別にしても、大泉・葡萄・大毎・大沢・岩船・鍋倉・塩野町・鷺沢・能化山・鼠ヶ関などの鉱山鉱床について詳述されており、この論文にしか書かれていないことも多く、とても参考になりました。

さて、大毎金山ですが、地質や歴史についてはサルナシさんのブログが最も詳しく、かつ的確にまとめられているのでそちらを一読されることをお勧めします。
サルナシさんのブログのサブタイトルは~越後黄金山の砂金を訪ねて~。
そう、地質のスペシャリストでもある同氏がライフワークとして取り組んでいる対象が新潟県北部の金山なので、気合の入り方が違うのです。
大毎金山について簡単に言うと、江戸時代初期には既に稼行していたらしく、大正年間に閉山するまで長い歴史を誇る金山です。
しかし、県北では鳴海金山の知名度は高いものの、その影に隠れてか、それ以外の鉱山は世間的には全く無名。
大毎金山の位置は「日本の金銀山遺跡」に詳しく記してあるので、正確な場所を知りたい方はこの本をご一読されてみてください。
サルナシ氏のHPでも書かれているように、鉱山遺構はマンニモ山と十貫山にかけて分布しています。
「日本の金銀山遺跡」によると、25~30mの奥行きを持つ多数の坑道があるとのことなので、探検意欲をそそられます。
標高400m地点にあるのですが、そろそろ道路の雪も溶けただろうと、4月9日初めて大毎金山を訪れました。

まず、道路の雪は完全には溶けていなかったです。
十貫山を過ぎるとすぐに道路が10~20cmの残雪で覆われており、そこで行き止まり。
ぎりぎり金山の入り口までは車で行けたので支障はなかったですが・・・
「日本の金銀山遺跡」では、金山の位置がマンニモ山の北西斜面に丸印で記されているのですが、反対側の南東斜面に鉱山道と思わしき寂れた林道が目に止まったので、まずその林道を歩いてみました。

IMG_1922.JPG

IMG_1923.JPG

すると、おお、遺構がどんどん出てきます。
大正年間に操業を終えたことになっていますが、戦後も再開していたみたいですね。
かなり機械が新しいです。

IMG_1930.jpg

鉱山につきものの、写真のような窪地(専門用語でなんというのか知らない)もあちこちに見られ、大体6つはあったと思います。
そして、350~400mくらい歩いたところで、いかにも坑口が潜んでいそうな地形に出会いました。

IMG_1937.JPG

それがここ。
林道から数メートル斜面を上ったところから写しています。
ここには3つの坑口が写っています。
間口が最も広いのは左端の坑口。
斜度もそこが一番ゆるく、といっても結構急でしたが、真ん中と右端の坑口は左側から斜面をトラバースしてアプローチできるだろうと判断。
まずは左端の坑口へ。

IMG_1911.JPG

雪解け直後なのか、たっぷり水分を含んだ地面はとても滑りやすく、なにげにいやらしい地形で、やっとの思いで写真を撮りました。

IMG_1907.JPG

IMG_1905.JPG

身体を潜り込ませようとすると泥だらけになるので、腕だけ伸ばして撮影。
実はヘッドライトを車の中へ置いてきたので、坑口の奥行きや深さはよく確認していません。
写真を見ると左右に広いですが、正面の奥行きはなさそう。
そして、右側手前は水没しています。
右側はさらに奥がありそうな気配でしたが・・・

IMG_1917.JPG

真ん中の坑口が最も雰囲気的に長さがありそうだったので是非覗いてみたかったのですが、5本の倒木がただでさえ狭い足場を塞いでおり、あと少しのところで足が踏み出せません。
補助ロープも持ってきていなかったし、ここで撤収。

IMG_1931.JPG

これは林道終点近くの斜面で見つけた露天掘り跡。

IMG_1934.jpg

その内部。
手前側に多数のズリ。
林道の総延長は450~470mほどでした。
最近何度か足を運んだ弥彦山の沢に比べたら、シダ類が多いため林の中の見通しはいいです。
道のない斜面を歩くのも、滑りやすいのには閉口しましたがそれほど苦にはなりません(スパイク付きの長靴がいいかも)。
時間の関係で、マンニモ山の南東斜面のみの探索に終わりましたが、十貫山のすぐ北に、やはり鉱山道と思しき小道を見つけたので、今度はそこからアプローチしてみたいです。
名前を上げた参考図書?によると、全部で8つの鉱脈があり、7個の坑道が残っているらしい。
鉱物的には、砂金以外では黄鉄鉱、黄銅鉱、閃亜鉛鉱、方解石、石英、アンケライトなどが採れたとのこと。
尚、マンニモ山の頂上には鉄塔が建っており、監視用の小道がマンニモ山の痩せ尾根沿いに伸びています。
途中まで歩いたけど、視界も広くとても歩きやすかった。
山頂には古い露天掘りの跡が残っているみたいなので(そのときは知らなかった)、距離も短いですし、この次行くことがあったら山頂まで往復してみたいと思っています。

※2020/09/27追記:
林道沿いに放置されていた機械は、林業用のものである可能性が高いことがわかりました。
文献によると大毎金山は大正2年に休山したことになっていますが、それ以降稼働を再開したことを匂わせる資料はありません。なので、大正時代の閉山と考えるのが自然です。








nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

赤滝銅山を訪ねて [鉱物 (弥彦山周辺・赤滝銅山)]

間瀬銅山の一角をなす赤滝銅山を訪れました。
以下、間瀬郷土史からの引用です。
「間瀬集落から約半里の東南・白瀬川上流鮫ハゲ山地内にある。坑口は滝の横合いにあり、明治二十五、六年頃、吉田氏の経営にかかり、製錬所も設けてやったほどであった。やがて明治の末には山を掘り尽くし、大正に至らずやめてしまった。」

sakaimap.jpg

赤が今回歩いた軌跡です。右上に、間瀬郷土史に記載されている坑道略図を載せました。
この本には他にも間瀬銅山、太刀川銅山、八前銅山の坑道略図が記載されているのですが、はっきり言ってこれらの図、というかイラストは超いい加減。距離感もなにもあったもんじゃありません。
かといって、今となっては埋もれてしまったり完全崩壊した坑道も多く、当時の坑口の正確な位置を掴むのはほとんど不可能。実地調査あるのみ。
今回もっとも感動したのは、最初の坑口を見つけたときでした。

IMG_1809.jpg

最後の畑地をすぎ、200mほど歩いたところで突然左手に現れたのです。
間瀬郷土史はおろか、どんな文献にも出てこない謎の坑口。

IMG_1814.jpg

内部はご覧のように奥行きがなく、横幅5~6mくらいでしょうか。
天井の高さはかなりあり、身長180cmのぼくでもかがむ必要はなかったです。
もっとも、この坑口は黄銅鉱などを含む鉱石を採掘していたのではなく、間瀬石を切り出していた可能性もあります。
いずれにせよ、坑口らしい坑口はこれしか見つけることができませんでした。

IMG_1856.jpg

鉱山道と思わしき踏み跡は明瞭に続いており、歴史を感じさせる人工物がところどころ現れます。

IMG_1860.jpg

下流にはこのような石垣もあり、製錬所があったという記述が現実味を帯びてきます。
しかしながら、明瞭だった鉱山道もこの先はヤブが優勢となり、倒木もあちこちで道を塞いでいたりで、先日の八枚沢銅山での沢歩き同様、非常に体力・気力を消耗することになりました。

今回、鉱山名のいわれとなった赤滝をまず目指しました。
例のイラストによると、坑口は赤滝を中心に前後に散らばっているので、赤滝を特定するのが先決。
しかし、いけどもいけども傾斜はゆるく、大きな岩場も一向に現れません。
1時間20分ほど歩いたところで沢は二手に分かれており、最初は右俣へ入ったのですが、どうも滝は出てくる気配がなさそうだったのですぐ引き返し、続いて左俣へ進みました。

IMG_1825.jpg

これはくだんの二股分岐点手前で写した写真(ひょっとしたら左俣へ入ってすぐの場所だった可能性もある。記憶があやふや・・・)。
このあたりから大きな岩が間断なく現れてきて、坑口がいつ出てきてもおかしくない雰囲気になってきたのです。
左側の岩の下も、ノミを使った形跡があるようなないような。
右側には黒い穴っぽいものが見えていますが、実は現場ではこれに気づかず、調査していません。
これが坑口だったら少し悔いが残りますね。

IMG_1829.jpg

この分岐点には、写真はありませんが小さな堰堤の残骸が残っていました。
ここから左俣の沢は一気に渓相がよくなり、すぐ上の写真の岩場が現れました。
おそらくここは露天掘りの跡でしょう。

IMG_1845.jpg

その先すぐに赤滝が現れました。
落差はそれほどではないですが、左右の岩はとても大きく、圧倒的な偉容をたたえてそびえています。
白瀬川についての記録は、釣り師のそれであれ沢屋のそれであれネットではみかけないので、この滝が赤滝である確証はありません。
しかしながら、それまでは滝はひとつしか現れなかったし(黒い岩肌だった)、この異様な赤さ・・・間違いなくこれが赤滝でしょう。

IMG_1843.jpg

ここも左右ともに深くえぐれており、特に左側が深かった(この写真)。
ここも100%自然地形であるとは思えません。
おそらく岩を切り出していると思います、右側も同様に。


IMG_1836.jpg

でも、岩場の連続はそこまで。
その先はこのような景色が続き、ここでUターンしました。
坂井銅山は当然坑道掘りをしていたと思うのですが、坑口らしい坑口は赤滝周辺ではひとつも見つけることがかないませんでした。
全体に斜面は灌木や草に覆われており、小さい坑口だと沢からはわからない可能性もあります。
体力がかなり尽きかけていたので、その辺の斜面を少しよじ登って探してみたり、といった作業は全くしておりません。

帰宅後、GPSで記録した軌跡を見ると、やはりというか、間瀬本山から伸びている林道終点がこの沢の延長線上にあることを確認しました。
Uターンした地点から林道まで、標高差で100m、直線距離でわずか250~300mほどです。
なので、次回の探索があるとしたら、次は林道終点まで歩き、そこから沢を赤滝までクライムダウンしながら坑口探しをするのが最も楽チンな方法だと思います。
この林道もグーグルアースで見ると、終点まできっちり視認でき、状態はいいものと予想します。
オフロードバイクだったら余裕で走れるかも。

IMG_1855.jpg

おまけ写真。
昭和の空き缶・・・

※20210213追記:2枚めの写真の坑口は、間瀬石の切り出し場跡であると思われます。事業者が同じであるかどうかはわかりませんが、凝灰岩を切り出していた場所であることは確かです。

※2024/02/01追記:
当初、坂井鉱山と赤滝銅山がイコールだと思いこんでいたため、最初は坂井銅山を訪ねてというタイトルにしていました。しかしながら、先日入手した決定な資料(採掘権第707号)により、ここは坂井鉱山の鉱区ではないことが判明。
よって赤滝銅山とタイトルを修正しました。




nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

草倉銅山の露天掘り跡 [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

昭和52年版の新潟県地質図説明書からの引用です。
「明治8年、古川氏により開鉱され、大正9年閉山し、現在に至る。鉱床は(中略)草倉、舟内沢、滑滝、東山の4条の鉱脈からなる。・・・鉱石鉱物は黄銅鉱で、黄鉄鉱を少量伴う。二次鉱物として輝銅鉱、赤銅鉱、自然銅を生じている。」
もっとも、これらの文章の元ネタは「日本の鉱床総覧・下巻」から来ており(ほぼパクリ)、さらに詳しく知りたい方は”日本の鉱床総覧”を読むといいでしょう。
国立国会図書館のデータベースに収録されているので、新潟市でしたらほんぽーとか県立図書館へ行けば読むことができます。
草倉銅山の歴史については幾つか他にも資料はあるのだけど、各鉱区の場所や坑口の位置を記した地図を載せている文献は全く見当たりません。
しかしながら、今年に入ってようやく坑口の位置を記した資料を見つけました。
その資料名は「地質要報」(明治19年発行・東京地学協会)。
ここに、明治時代に作成されたものとしてはこれ以上望めないほど精細な地図が載っていました。

IMG_1808.jpg

左側がその地図。
地図の正式名称は「越後国東蒲原郡 草倉銅山 地質略測図」と言います。
オリジナルのそれはかなり大判の地図なんでしょうけど、この本には4枚に分けて部分的に掲載されていました。
当時のものとしては精細ながら、現在の国土地理院の1/2.5万地形図と比べたら等高線の正確さでは足元にも及びません。
しかしながら、この文献は学術的な価値があると思いますし、それを最新の地形図上で照合しながら清書してみたのが右の地図です。
赤丸が坑口、ヒと書いてあるのは、鉱山用語で鉱脈を意味します。
他にも、乙太郎ヒや卯酉立ヒなど、多くの鉱脈が明治時代前半にはあったようです。
一般に、明治10年まではノミとハンマーを使い、人力で鉱石を切り出していました。
明治17年、同じ古川氏が経営する足尾銅山で削岩機の使用を開始。
それまで足尾銅山の銅の産出量は草倉銅山に負けていたのですが、明治17年から生産量は逆転。
この地図が作られたのは草倉銅山が活況を呈していた最中だったわけですが、その頃既に東山鉱区以外の鉱区は開発されていたことがわかります。
もうひとつ、この文献(地質要報・明治19年)が貴重なのは、旧道が記されているからです。
それを破線で地形図に落とし込んでみました。
昨年5月下旬、ぼくが初めてここを訪れた時迷い込んだ踏み跡も、この旧図を見てそれがどこだかわかりました。
本坑口から下の方に破線が伸びていますが、この道は部分的に踏み跡として残っており、そこを辿っていったのでした。

IMG_1929.jpg

おそらくぼくが辿り着いた場所は、地質要報の図によると金ロ立ヒの近くだったと思われます。
そこで見つけた坑口がこの写真。
ここでUターンをし、帰りに踏み跡を見失って道に迷いました。
2時間近く山中をさまよい、遭難しかけたのは本当に苦い思い出です。
昨年5月24日のブログ記事にはその坑口の写真は載せなかったのですが、今回初掲載。

さて、角神温泉脇から車道を上がっていくと、阿賀町が設置した案内板が右手に現れます。
そこが本山の入り口で、その先にある坑口は”本坑口”。

IMG_1776.jpg

本坑口の写真は多くのサイトで取り上げられており、阿賀町でも観光スポットとして整備しています。
次の写真は本山地区の古写真。
完全に自然に帰している現在からは想像もつかないほど、多数の家屋がそこに軒を連ねていたのです。

IMG_0705-1.JPG

地質要報の図を見ると、舟内沢沿い、大切一番坑(=通洞坑)から下手にも大きな飯場があったことが伺いしれます。
通洞坑は、実際に近年訪れたミックンによると青天井状態と化しているみたいですが、舟内沢鉱区も一度は訪れてみたい場所です。

さて、1年ぶりに訪れた草倉銅山ですが、今回は本山地区ではなく、グーグルアースで見つけた広大なズリを訪ねるのが一番の目的でした。
その場所がBになります。
今回、時計回りにAからBを経て角神温泉までぐるりと林道を一周。
昨年は本坑口入り口から200mくらい手前のところまでしか車で行けませんでした。
なぜなら、道路の一部が陥没していたからです。
そこもきれいに修復されており、とりあえずは車で一周できました。
(ただし、落石箇所多数ですし、倒木もありまくりです。自己責任にて。)

IMG_1756.JPG

A地点の写真です。
以外や、ここにも案内板が立っていました。

IMG_1762.JPG

そして、ここがB地点の崖。
3段になっているので、露天掘りの採掘跡と思われます。
広い駐車場もあり、かつては大々的に採掘されていたことでしょう。

IMG_1763.jpg

傾斜はそれほど急ではないものの、不安定な石が多く、歩くには細心の注意が必要。
ぼくはそんなわけで下から2段めのズリ?をざっと歩いただけでお茶を濁しました。
何の鉱物も目につかなかったけど、圧倒的な量があるので、丹念に探せば何か見つかるかも。

IMG_1784.JPG

その後、本山に立ち寄って供養塔に参拝。
そしてもう一つの目的地である不動滝へ移動しました。
ところが不動滝は災害復旧工事中とかで、入り口にロープが張っており、入れない。
河床もほじくり返されており、何やら大体的に工事をしているので、当分見学できないと思います。
ここは不動滝前の駐車場だけど、この広場にかつては選鉱場が建っていました。
そして、ぼくが今回作成した地図を見てもらうとわかるように、写真に写っている斜面のどこかに大切三番坑の坑口があったはずなんです。
あわよくばその坑口を見つけてやろうと思ったけど、想像以上にヤブが密生しており、広場から穴を視認するのは無理でした。
今回の探査はここまで。
次回があるかどうかはわかりませんが、舟内沢鉱区を歩いてみたいです。
林道が鋭角にカーブする辺りに旧道の入り口があるはずだけど、旧道の痕跡は残っているのだろうか。
地形的にも、舟内沢に降りるにはそこから向かうしかありません。


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

八前沢銅山へ [鉱物 (弥彦山周辺・八前沢銅山)]

3日、初めて弥彦山山麓の八前沢銅山へ行ってきました。
2月2日の記事でこの銅山近くの露天掘り跡を見つけ、記事にしていますが、坑口を訪ねるのは今回が初めてです。
その前に整理しておきたいのですが、似たような読み方(ハチマイ、ハチマエ)をする鉱山名が大きく二つあります。
ひとつは八前沢(or 八枚沢)、もうひとつは鉢前。
そもそも間瀬銅山に関する資料は乏しく、中でも最も詳しく書かれているそれは1954年発行の”間瀬郷土史”でしょう。
岩室村史も広く読まれていますが、多くは間瀬郷土史の焼き直しなので、興味ある方はぜひ間瀬郷土史を読まれることをお勧めします。
ところが、探せばわかるのですが、この本どこの図書館にも置いていないんです。
2ヶ月前、やっと新潟県立図書館にあることを知り、必要箇所をコピーしました。
といっても、普段は一般公開されていない書架の方に収蔵されているんです。
しかし係員にいえば持ってきてくれますし、コピーを取ることもできます。
それ以外では、間瀬銅山は新潟県地質図説明書でも無視されているし、学者の論文にも取り上げられていないため、本当に資料がないんです。

前置きが長くなりましたが、間瀬郷土史並びに岩室村史には間瀬銅山グループ?である赤滝、太刀川、鉢前、間瀬の4つの銅山の位置を記した略図が掲載されているのですが、この略図が曲者なのです。
鉢前も太刀川も場所が間違っているよと指摘しているのは、これら主要鉱山全てを訪れたHP「ミックンのつぶやき」のミックン。
鉢前銅山の場所はそこじゃないと言っている彼の根拠は、「日本の鉱山文化」(国立科学博物館)に掲載されている絵図、及びその説明文が現在の八枚沢を示しているというもの。
(注:この絵図は明治10年、第一回内国勧業博覧会に出品されたもの。ちなみに、ぼくもこの本を買いました。)
一方、間瀬郷土史における鉢前銅山の場所は正しく、八枚沢沿いにあった銅山は別物であると述べているのは、”八前沢銅山を尋ねて”という小文で、自身の平成15年における探索で7つ坑口があることを明らかにした小林孝氏(弥彦郷土誌・第19号)。
ここでツッコミを入れれば、小林氏はあとがきの中で「弥彦銅山と間瀬銅山、鉢前銅山と八枚沢銅山とが混同されやすく・・・」と書いていますが、その根拠は示していません。
そして間瀬郷土史にツッコミを入れさせてもらうと、p93における各銅山坑道略図で間瀬銅山、赤滝銅山、太刀川銅山、そして八前銅山の絵図を取り上げているのですが、p92での全体の略図では鉢前銅山と書いており、単語の統一がなされていません。
(もっとも、小林氏も八枚沢と言ってみたり八前沢と言ってみたり、統一がされていないのですが。)
そして、p93における絵図で”至 麓村”と書いているのですが、p92で場所が正しいならそっち方面に麓村はないのです。
これが八枚沢沿いにあるとなると、方角的には整合性が取れるのですが。
また、p92における場所が正しいとなると、鉢前銅山は深が沢沿いにある間瀬銅山の主要坑口と重なってしまうことになります。
なので、p92の略図は誤りであり、鉢前銅山はその表記にバリエーションがあるものの、基本的には雨乞山北部の八枚沢沿いにあったと解釈するのが合理的だと思います。

さて、今回のスタート地点は弥彦山八枚沢登山口駐車場。
まず歩き始めて閉口したのが、ボサとヤブの酷さ。
踏み跡はうっすらとですが一ノ滝までは残っています。
しかしながら遅々として進みません。
また、スタート地点より約450mで中の滝が出てくるのですが、高巻きを余儀なくされました。
そんなこんなでUターン地点に辿り着いた時、既に1時間半近くが経過していました。

IMG_1662.jpg

ぼくは最初の2つの坑口を訪れただけなのですが、場所は小林氏の図と合っています。
写真は”一の坑口”。
小林氏の距離表示を借りると、ここまで370m。
沢の右岸、やや高いところにあります。
最初通り過ぎてしまい、いったん引き返してやっと見つけました。
沢からこの坑口は見えないんです。
ただ、地形をよく観察するといかにもそこに坑口がありそうな雰囲気バンバンのところがあったので、そこへひと登りしたらやっぱりそこにありました。

IMG_1664.jpg

奥行きはなく、内部は水没状態となっています。
帰宅して改めて”ミックンのつぶやき”の鉢前銅山のページを見て気づいたのですが、この坑口はミックンのHPで紹介されている写真と同じ場所ですね。
実は実際に訪れるまで、ミックンが訪れたその場所が八枚沢沿いのこの坑口群であるか確信が持てなかったんです。

IMG_1667.jpg

最初の坑口を過ぎた辺りから本格的な沢歩きとなります。
そして、ほどなく最初の大きな滝(中ノ滝)が現れました。
ここは右岸を高巻き。
最初の取り付き部が悪かったですが、一応踏み跡は残っており、なんとか越せました。
しかし、その先もひたすらヤブとボサが続きます。
見通しが悪く、沢歩きの快感はあまりありません。

IMG_1685.jpg

スタート地点から約600m、二つ目の坑口が左岸に現れました。
実は行きは気づかず、通り過ぎてしまい、帰りに見つけました。
ところどころ沢はボサに覆われているため、よほど注意しないと坑口を見逃してしまうのです。
奥行きは25m前後あると思います。
今回明るいLEDライトを持っていき、ビーム光にして照らしてみたら思ったより奥が深かったです。
一応外付けのストロボを装着して写真を撮っていますが、全くストロボ光が最奥部まで届きません。
高さは低く、先へ進むには匍匐前進が必須。
10cmくらい水が溜まっており、入り口で写真を撮るだけにとどめました。

IMG_1673.jpg

これがUターン地点の一ノ滝(スタート地点から700m)。
落差は2段合わせて25~30mはありそう。
踏み跡はこの滝の手前で途切れました。
高巻きするならここから20mちょっと戻って、右岸をよじ登るしかないのだけど、帰りのことを考えるとザイルはあったほうがいいです。
てか、ザイルなしでここから先へ進むのは無謀であると判断。
体力もかなり消耗していたことだし、藪こぎで辟易していたのでここで撤退しました。

IMG_1677.jpg

一ノ滝の少し手前にあった露天掘り跡。
滝の落ち口の左岸側、直線距離で50mほど先の小沢に黒い坑口のようなものも視認できましたが、すでに撤退モードに入っていたので、登って確かめることはしませんでした。

それにしても、ミックンといい小林氏といい、あの滝を高巻きしてさらに上流へ行ったわけですよね。
ひたすら尊敬します。
そして、明治~大正時代(江戸時代の元禄期には既に開発されていた可能性も高い)にこれらの坑口で働いていた坑夫の人たち、やはりすごいです。
先日、夏目漱石の小説「坑夫」を読み終えたばかりなのですが(村上春樹の海辺のカフカで取り上げられていたため、読んでみたくなった。足尾銅山が舞台でもあるし)、匍匐前進で進まなければならない二番目の坑道を目の当たりにすると、坑夫の主人公が地底へほうほうの体で降りていった下りを思い出し、身が引き締まる思いがしました。




nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

一本梅の勇姿 [星景写真(新発田市)]

好天に恵まれた4月3日、もう一度一本梅を見に行ってきました。
前回は3月30日だったのですが、ほぼ満開になっていました!
およそ15年くらい前からほぼ毎年、新発田の山間部にひっそりと咲くこの一本梅を見に来ています。
10年前には枯れかけてほとんど花が咲かない年もあったのだけど、その後見事に復活。
そして、暖冬のせいもあるんだろうけど、今回が最も花つきが多く、ゴージャスな感じがしました。
いや~、きれいだった。
咲いてくれてありがとう。

IMG_8581_84.jpg

まずは、大接近中の金星とスバルを入れる構図で写してみました。
焦点距離は20mmですが、なんとかスバルが分離してくれました。
月明かりがある上に、金星が半端なく明るいので肉眼ではスバルは見えませんでした。
しかし、双眼鏡を使って見てみるとちゃんとスバルも見えました。
ほぼ金星と重なっており、なんだか素敵な組み合わせ。
こんなハッピーなランデブーって、他にないのでは?
明日は曇るだろうし、貴重な瞬間を見ることができて良かったです。

IMG_8610_13.jpg

もう一枚、反対方向です。
背景の白い山(左側)は二王子岳(1421m)。
前回はLEDライトを少し照射しましたが、今回は明るい月光があるので、自然光だけで撮りました。


nice!(0)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー