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間瀬銅山万才坑についての新考察 [鉱物 (弥彦山周辺・間瀬銅山)]

昨年12月15日の記事で『間瀬銅山の鉱脈につきての観察大略』という文献を取り上げました。
思い切り文語調で書かれているので読むのには根気がいるのだけど、間瀬郷土資料より学術的な視点から書かれており、改めて読み直してみると新たな発見が幾つもありました。
昨年来、間瀬銅山で最大の出鉱量をみたという大正4年発見の万才坑を探しているのですが、どうやら見当違いのところを探していたようでした。
結論から言うと、ぼくが八号坑口ではないかと考えてきた坑口こそ万才坑だったのです。
その根拠を列挙します。

*間瀬郷土史(岩室村史も内容は同一)における鉱山略図(p92)を見ると、大平山の位置が間瀬銅山事務所の横に描かれており、場所が全く違う。同様に各鉱山坑道略図(p93)、間瀬銅山の絵図も大平山の位置がおかしく、著者の今井義雄の記憶があいまいだったか、記憶違いであった可能性がある。
p93の絵図は、他の鉱区のそれも山の位置が微妙におかしい。

*これらの資料は今井義雄氏が直接書いたわけではなく、ライターが今井氏から聞き取ったものを文章にしたもの。つまりここでワンクッション入るので、情報の正確さが損なわれることも影響しているだろう。

*大正4年、当時の経営者だった白瀬氏が佐渡より優秀な技師を連れてきて、最新の方法で鉱脈を探して発見した。その場所は大平山上部。坑口より約100m掘り進んだところで新鉱脈を掘り当てた。ちょうど大正天皇即位式当時だったから万才坑と名付けた、というのが今井氏の語る概略。
ここで注目すべきは、100m掘り進んだところで富鉱体に出会ったという下り。
ぼくが八号坑と思いこんでいた坑口は、最初80~100mほど坑道が直進する。そして100mほど進んだところで枝分かれし、それ以降蜂の巣状に坑道が分岐する。よって、坑道の特徴が一致する。

*八号坑と思いこんでいた坑口近くの岩場に、大三という文字が刻まれている。これは大正三年を意味するのではないか。大正4年に発見されたというが、実際に発見されたのは大正3年であり、翌年から本格的に採掘活動が始まったのではないだろうか。

以上です。
次に『間瀬銅山の鉱脈につきての観察大略』を読んで思い至った点を列挙します。
なお、この資料を昨年12月にブログで紹介した時点では書かれた年代がわからなかったのですが、1901年(明治34年)に発行された文献であることがわかりました。
なので、この文献には万才坑のことはもちろん出てきません。

*間瀬銅山に関して、明治34年の時点で一号坑から八号坑まで、既に開発されていたことが明らかになっている。この文書には16個の鉱脈が取り上げられているが、鉱脈によっては露天掘りで済ませたものもあるだろうし、坑口が16個あるということではない。
鉱脈名と坑口名が一致するのは八号坑だけで、あとの鉱脈は間瀬郷土史における坑口名と名称は一致しない。
それらを踏まえてぼくが今まで深ヶ沢左岸で見つけてきた坑口の数をカウントすると、まだ1~2個足りない。
考えられるのは、鮫銅山との分水嶺近くにあったという八号坑が未発見である可能性。
今まで八号坑だと思いこんできた坑口が万才坑だとすると、万才坑から上、沢は3つに分岐するが、既にそのうちの2つは標高差にして60~70mほど沢沿いに歩いている。
今後は再びそれらの沢をさらに上まで登り、坑口があるかどうか調べてみたい。

*この資料には鮫銅山と鉢前銅山についてかなり詳しく書いてある。
鮫銅山に関しては2つ鉱脈があり、それぞれ鮫ノ沢と滝壺の沢に露頭があるとのこと。
これに関してはつい先日、鮫銅山探検へ行ってきたので、章を改めて述べてみたい。

*明治34年に発行されたこの文献にも、紫水晶と菱鉄鉱が少量ではあるが間瀬で採れたことが書いてある。
つまり大正4年に発見された万才坑ではなく、それらは一号坑から八号坑で採掘されたものであろう。
これらの坑口は全て深ヶ沢左岸に位置しているので、やはり左岸に連続している露天掘り跡を改めて調べてみるのも面白いかもしれない(ぼくも含め、ほとんどの人は紫水晶にあこがれているだろうから)。

*黄銅鉱や黄鉄鉱の脈石は方解石であることが明記されている。例外は鉢前の脂樋(樋はヒ、鉱脈の意)。こちらは石英が脈石。この場所は大体わかっているので、石英好きな身としては改めて鉢前(=八前)鉱山を調査してみたいと思っている。

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