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畑鉱山の蛍石 [鉱物 (関川村・畑鉱山)]

関川郷土資料によると、畑鉱山の起源は明治7年、地元の農民が銅鉱を発見したのがきっかけだったとか。
閉山は昭和24年。
最盛期には220人の従業員が就労していました。
鉱山手前には畑集落があり、ここには江戸時代から人が住んでいたようです。
古文書によると戸数および住民の数は、享和元年(1801)戸数3・16人、大正9年戸数23・83人、昭和10年戸数55・303人、昭和35年戸数10・36人。
廃村となったのは昭和42年。
羽越豪雨による水害の後に離村したそうです。

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これらの祠が畑集落の存在を暗に物語っています。
背後には杉林の中に古い墓が点在しており、その中には江戸時代の墓もあります。
さて、畑鉱山で採掘していた鉱物は次の通り。
黄銅鉱、黄鉄鉱、閃亜鉛鉱、斑銅鉱、石英。
畑鉱山へ行くのは今回(5月12日)で3回目。
前回行けなかった若ブナ山の南南西斜面上部にある巨大洞窟の下のズリ(自然崩落による岩石の堆積かもしれないけど)を調べるのと、蛍石の脈が付いた石を見つけること、この2つを目標に訪れました。

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思えば遠くへ来たもんだ・・・
標高350mラインを過ぎた辺りから、このようなズリだかなんだかわからない岩石の破片が散りばめられている斜面が現れます。
歩きにくいので慎重に。

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標高393m、写真で見る以上に垂直に近い岩場が出てきました。
頭上を送電線が走っており、送電線監視路も兼ねているみたいです。
ロープがぶら下がっていますが、足場がないんです。
この頃、膝に痛みも生じてきていたので、ここでリタイア。
今回もあの巨大洞窟には行き着くことが叶いませんでした。
あとでGPSのログを分析してみると、標高差でもう20mも登れば洞窟直下のがれ場下部に到達していたのですが・・・

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スタート地点の、標高268mに位置する広場(林道終点)に戻るまでの間、足元を入念にチェックしながら下山。
なにせこの監視路(=鉱山道)、ズリとカラミで覆われているような案配なので、もしかすると目ぼしい鉱物が落ちているかもしれません。
そして、奇跡的に写真の石を見つけることができました。
横幅10cm、質量470g、蛍石と水晶の結晶が同居しています。
その場で長波(365nm)のブラックライトを当てたら、見事に紫色に蛍光してくれました!
その後、300mくらい下ったところでも7cmほどの同様の石を発見。
若ブナ山のどこかに、細々と蛍石の脈があるのかもしれません。

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ついでに、大里峠の途中までちょっと歩いてみました。
大里沢は女性的な渓相で、非常に美しい。
写真には写っていませんが、右手奥にも赤いテープが巻きつけられており、尾根上に伸びている踏み跡へ続いていました。
地図を見ると、もう数十メートルも登るとかなり大きな岩場が出てくるので、ひょっとしたらその辺りに坑口もあるのかも。
などという妄想をしたり。
畑鉱山は学者の論文で取り上げられていることはなく、従って詳しい地質図や坑口の位置を記した地図が手に入らないのです。

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大きい方の石(長辺10cm)です。
水洗いしてまだ完全に乾いていないので、疑似蛍光(赤い部分等)している部分もあります。
蛍石の部分は赤紫色に蛍光しています(実際はもう少し青っぽい紫なんですけど)。

※夕方、まだ明るさが残っているうちの撮影ですが、夜完全に暗くなってからもう一度ブラックライトを当ててみたら、赤みが消え真っ青に光りました。
明日の夜、改めて蛍光写真を撮り直したいと思っています。





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高根鉱山訪問 [鉱物 (村上市・高根鉱山)]

新潟県北部には金山がたくさんあります。
中でも代表格は、朝日スーパーライン沿いの鳴海金山。
近くには猿田金山があり、高根川上流には近年まで砂金を採っていた高根金山があります。
ここで話がややこしくなるのですが、旧朝日村高根管内にはもう一つ、輝水鉛鉱(=モリブデン)を採掘していた高根鉱山もあるのです。
今回紹介するのはこの高根鉱山。
比較的アクセスが良く、坑道も短いため見学に際して危険はありません。
ここの鉱床は、斑状花崗岩中のペグマタイト晶洞、及びアプライトの細脈中に輝水鉛鉱を伴います(時に鉄マンガン重石も)。
操業開始は昭和18年(1943)。終戦時まで稼行していたようです。
もう一つこの鉱山の知名度を押し上げたのは、昭和35年11月にこの鉱山及びその周辺で行われたウラン探査です。
昔も今も、新潟県内には稼行されたウラン鉱床はありません。
しかしながら、幾つかの地域で放射能異常を示す部分があり、探鉱が行われたことはあります。
具体的に高根鉱山以外の名前を挙げると、関川村中束(なかまるけ)、新発田市上赤谷炭鉱、旧三川村吉ヶ沢、旧中条町半山などです。
中でも最も有望視されたのは、関川村の中束。
昭和35年から数年に渡って、現在の動力炉核燃料事業団の前身である原子燃料公社により探鉱が行われました。
さて高根鉱山には坑口が2つ残っており、川を挟んで対岸の山腹にある坑口Aの東側の壁面で初めてウランを含む鉱物が発見されたのです。
花崗岩中の小断層に沿う黒色粘土脈で、0.10~0.15mr/hの放射能が検出されました。

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坑口Bの入り口。

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坑口Aは高根川を挟んで中央の山腹にあるはずですが、既に新緑が生い茂り、こちら側からでは坑口の存在を確認することはできませんでした。
高根川は深いゴルジュが連続しており、一見向こう側に渡るのは到底不可能。
それでも坑口Bの前後100mの間に、何とかザイルを使わなくても河原へ降りられそうなところを見つけました。
しかし、今回は軽装で来たので坑口Aの探検はまたいつかということで・・・

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壁面はよく見ると複数の地質が入り混じっており、写真の石英や斜長石を見分けることができました。

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坑道内(短いけど)の平均的風景です。
ウランを含む鉱物といえば燐灰ウラン石。
この鉱物は蛍光するので、念の為持っていった紫外線ライト(365nm)で壁面を照らしてみると・・・

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何箇所かで青白く蛍光する部分がありました。
正体はわからないけど、これはすごい。
でも、手持ち撮影ではまともに撮れないので、いったん三脚を取りに車まで戻りました。

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三脚使って撮影再開。
燐灰ウラン石は長波で緑に蛍光します。
残念ながら緑色に光る部分はなかったけど、やはり幾つかの部分が蛍光するのです。
これは黄色に蛍光(黄色の蛍光は少数派)。

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Beforeです(ストロボ使用)。

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Afterです(つまり紫外線ライト照射中)。
あまりに美しい色合いだったので、車まで三脚を取りにいったん戻り、三脚を使って撮影。

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中央下部の、最も蛍光度合いが強かった部分をクローズアップしてみました。
蛍光部分の鉱物の正体は・・・調べたけどわかりません。

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坑口Bの近くの風景。
ここ2ヶ月間、いろんな沢と山を歩いてきましたが、間違いなくTOP3に入る幽玄な風景。
いつかこの沢も歩いてみたい。





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加治川治水ダムから奥へ [大自然(下越)]

高校生の時、原付きの免許を取ってからは、父のスーパーカブでよく加治川治水ダムから奥の渓流へイワナ釣りに行きました。
大学生になると本格的に登山を始めたのですが、最も足繁く通った山は飯豊連峰。
中でも強い思い入れのあるのは、湯の平温泉口ルートです。
その後も加治川治水ダムまでは容易に車で行けるせいもあり、ちょっとしたドライブがてら毎年一度は行っていました。
いつしか治水ダムから奥へ続く道路の入り口に厳重なゲートができ、車はおろか自転車でさえも入れなくなりました。
昨年秋にミノマタ沢出会いまで、それこそ30数年ぶりに来てみたのですが、つくづくぼくは加治川で育ったんだなという思いを新たにした次第。
河口から湯の平温泉のある上流まで、加治川流域には思い出がぎっしり詰まっています。
9日、鱒取倉沢あたりまで歩いてみようと思い、カメラ片手にウォーキング。


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自分のPCに、飯豊川の各支流名を書いた古地図がありましたので掲載します。
結構貴重かと。
どこから引っ張ってきた地図なのか、今となってはわかりません。
従って引用先は不明。まあいいでしょう。

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加治川治水ダムに近い方から紹介します。
まず、これはミノマタ沢。
昔、4~5回ここから沢伝いに湖まで降り、そこでルアー釣りをしたことがあります。
ただし、このポイントではいつもボウズで、おいしい思いをしたことはありません。
昨年晩秋にここまで散歩にきたことがあったのですが、そのときはまだ工事中で立入禁止のロープが張り渡してありました。
工事は終了したようで、早速石段を上ってみました。

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すぐさま行き止まりに。
見事な渓谷。
密かに鉱物探しでもと思っていたのですが、これは高巻くにしても厳しい。

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対岸の風景も圧巻です。
これは対岸の尾根上部の谷間に架かる、名無しの滝。
雪渓がまだ残っています。

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次は師走沢。
びっくりしました、大きな堰堤が2つ出現しています。
国土地理院の地形図で事前に知ってはいたのですが、実際に目の当たりにすると、あまりの変貌ぶりに悄然としました。
こんな山奥に巨大な堰堤作るカネがあったら、しょっちゅう道路の崩壊やなんやかやで閉鎖される湯の平温泉の維持管理にお金を使えばいいのに。
その方がより多くの人が幸せになれると思う・・・

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そして、またまたびっくり仰天。
谷側を見ると、旧道の橋が残っているではありませんか(左側が湯の平温泉方面)。
師走沢の上に架かっている橋(やはり師走沢橋という)の完成は、昭和46年11月。
車道ができる以前は一段下のレベルに旧道があったんです。
今でも橋が残っているとは・・・
これは大発見かもしれない。

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そして、鱒取倉沢。

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鱒取倉沢出会いから約150m進むと、この露頭に着きます。
30年前に比べると、1mほど道路が拡張されているようです。
ダムサイトからここまで、ひたすらこのような岩場が延々と続きます。
コンクリートの吹付けがされているところはごく一部で、ほとんどは露出しています。
道路の谷側にも、岩がごろごろしている。
今回のお散歩?の、もう一つの目的は新露頭を探すこと。
つまり、鉱物探しも兼ねていました。
ダムサイトの前後に飯豊鉱山で働く方々の集落があったわけですから、当然このあたりも彼らの生活圏であったはずで、鉱物のめぼしい露頭があったらとっくに開発されていたはず。
しかし、自分の目で確かめなければ。
飯豊川(加治川は上流部で飯豊川と名が変わる)右岸にも水晶はあるのではないか?
結果、な~んにもありませんでした。
ガックシ。

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その露頭から見た飯豊川の渓谷美。
高校2年で初めてこの風景を見て以来、この道路を通るたびにここでストップしてこの風景を見るのが儀式でした。
水の色は昔と変わらぬ透明感を保っています。
良かった・・・

※右手の対岸に見える滝は蟹沢の滝。古地図記載の蟹沢の位置は間違っているので注意。



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赤谷鉱山・琴沢橋梁跡 [鉱物 (新発田市・赤谷鉱山)]

ぼくは橋が好きです。
撮り鉄ではないですし、列車にも興味はありません。
しかし、なぜかそれが鉄道路線の橋であれ、一般道路や林道の橋であれ、古い橋に心惹かれることが多々あります。
最近立て続けに赤谷鉱山周辺を訪れているのですが、改めて琴沢橋っていいなあと思ったので、今日(8日)それだけを撮りに行ってきました。

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左側が加治川治水ダム方面。
HP「古の道標~いにしえのみちしるべ」によると、この橋梁は二代目だそうです。
赤谷と加治川治水ダムを結ぶ県道335号線は、当初赤谷鉱山の鉱石を運ぶための専用鉄道を敷設した路盤を車道にしたもの。
専用鉄道(日鉄鉱業赤谷専用鉄道)を敷設したはいいものの雪崩が非常に多く、大雪の被害も大きかったため、90%がトンネル内を走る専用軌道(鉱山専用鉄道)を新たに作ったのです。
専用鉄道の廃止が昭和31年秋、専用軌道の運用開始が昭和32年。
琴沢(爼倉山登山口の近く)に架かるこの橋梁は二代目で、初代のそれはすぐ隣に作られ、現在コンクリート製の橋台のみ残っています。

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右側が加治川治水ダム方向。
橋の両サイドに通じる踏み跡が残っており、そこから撮影。

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進行方向は加治川治水ダム方面。
橋の両端には人間の侵入防止のための鉄柵があり、鉄柵の間から撮影しています。

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背後にはトンネルが控えており、5m先で坑道が封鎖されています。

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橋から10mほど上流側の琴沢。
なかなかいい渓相です。
ここの河原にも人工物が見られます。

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琴沢に架かる赤い橋を渡ったところにある橋台。
トンネルの入口は封鎖されています。

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そこのすぐ左手にある、初代琴沢橋梁が架かっていた橋台。
ちなみに、飯豊橋(加治川治水ダムの手前に架かる橋~車道は赤谷から一貫して加治川左岸を走っているが、この橋で初めて右岸へ移る)の隣に残っている赤い橋(飯豊川橋梁)の完成は大正11年。
鉱夫たちが採鉱現場への通勤に利用した人車(トロッコ)は、飯豊方面への登山者や保育園の遠足で園児たちを乗せたこともあったそうです。
やぶからすさんのHPに、貴重なその写真が載っていますのでリンクを貼っておきます。

https://yabukarasu.blog.fc2.com/blog-entry-176.html




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間瀬銅山の核心部 [鉱物 (弥彦山周辺・間瀬銅山)]

間瀬銅山は弥彦山山麓に展開する複数の鉱山の総称、いわばブランド名です。
開発の歴史は古く、元禄13年(1700)にまで遡ります。
大正時代前半に最盛期を迎え、その頃は270人あまりの人々が鉱山集落に住んでいました。
真沢(=宝川)沿いにあった飯場には製錬所や選鉱場が置かれ、極めて高品質な銅は燕の銅食器の製造に使われたそうです。
今でも鉱山集落の名残を残す遺構は多く、その一つとして山の神の祠を紹介しましょう。

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さて、江戸時代から大正時代に至るまで、最も多く探鉱されたのは深ヶ沢沿いでした。
なので、間瀬銅山の坑口を見てみたいと思ったら、まずは深ヶ沢はどこかを特定するのが先決。
これはそれほど難しい作業ではないと思います。
そもそも真川自体大きな川ではないですし、地図を見れば候補は3つぐらいに絞られるのではないでしょうか。
3~4年前に飯場周辺の観光は済ませているのですが、実際坑口を見つけることを目的に深ヶ沢を沢登りするのは初めて。
行きは沢沿いを歩き、帰りは標高230m付近から深ヶ沢の左岸沿いにハッキリした踏み跡があったので、そこを辿って下山しました(その踏み跡は標高130mで沢に降りるまで続いていました)。

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最初の坑口まではかなり沢沿いも歩きやすく、要所要所にはこのように補助ロープも付いていました。
歩きやすいといっても微妙なバランスを要する箇所も少なからずあり、登山靴や沢靴は必須です。

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そして、右岸に坑口が現れました。
岩の上の方には露天掘り跡。

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しかし、穴の間口はそこそこの幅があるものの、1.5m先からは天井の高さが70cmくらいとなり、そのままの高さで坑道は奥の方まで伸びています。
江戸時代規格?
匍匐前進しないと前に進めず、さすがに中へ入ってみようという気にはなれませんでした。
間瀬銅山の坑口の写真を掲載しているHPやブログは決して多くはなく、ぼくの知る限り5つくらいなもんです。
そのいずれのサイトもこの坑口の写真を載せています。
理由は一番最初に出てくるからです。
行ってみて初めて納得しました。
間瀬銅山を語るとき、誰もが参照する資料は”間瀬郷土史”でしょう。
この資料には坑口の位置の概略図も載っているのですが、あまたある坑口のどれもが左岸にあることになっているのです。
そこが矛盾するのですが、もっともあの資料に載っている図はどれもいい加減なので、深く悩む必要はないか・・・


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そこから少し先に巨大な露天掘り跡が左岸に現れました。
圧巻です。
一応中へ入ってみましたが、坑口はありませんでした。
また、ここから先にも似たような感じの露天掘り跡が左岸に出てきました。
ちなみに、帰りに利用した踏み跡はその露天掘り跡が起点です。
起点となる箇所で大木が根っこごと倒れており、それがゆえに踏み跡の存在が下からはわからないのです。
それが難点。
踏み跡に入りさえすれば水色のテープが木の枝に巻きつけられていますので、それを辿っていけばOK。
その区間、沢沿いには露天掘り跡や坑口は出てこないので(多分)、上部の坑口を目指すのであればかなり時間が短縮できます。

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そして、もう一つ坑口が左岸に現れました。
この先は沢も傾斜を増し、標高175m付近で沢は二手に分かれます。
水量は同じくらいで、地形の雰囲気も大同小異。
さて迷いました、どちらへ進むべきか。
結局右手の沢へ歩を進めたのですが、70~80m進んだところで再び二股に分かれています。
そのあたりから水は付流となり、踏み跡も消えます。

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ここで詰まった・・・
結局、標高270mのあたりでUターンしたのですが(時間切れ&体力切れ)、目指す上部坑口にはたどり着くことが出来ませんでした。
深ヶ沢上流の坑口の存在は、HP「柵の向こう側」さんや、第15回歴史ウォーキング”間瀬銅山跡を歩く”(寺泊公民館および寺泊地区体育協会主催)のレポートで知ることができます。
坑道の長さは少なくとも200m以上あるとのこと。
でも天井が低く、背を屈めないと進めないそうなので、身長180cmあるぼくは入口付近の写真を撮るだけで終わりそうですけど。
”間瀬郷土史”から引用します。
「・・・大正四年始め、大平山の上部に露脈を発見して探鉱したら、坑口より約100mの地点に新鉱脈を掘り当てた。ちょうど大正天皇即位式当時だったから”万歳鉱”と名付けた。月産30トン以上で最大の探鉱場となった。」
この文献に書かれている万歳鉱が、ネットで坑道内部の写真が詳しく紹介されている坑道と同じ場所なのかどうか?

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沢沿いで見かけた鉱物です。
黄銅鉱や黄鉄鉱を採掘していた鉱山なので、ズリを探すと比較的容易に黄銅鉱が付いた石は見つけることができます。田ノ浦海岸でも同様の石ころは落ちているし。
これは50~60cmくらいの大きな転石の表面に付いていたもの。場所は最初の坑口の手前の河原です。

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近くには、一回り小さい似たような石が・・・
今回、間瀬銅山のズリを見て回る余裕はなかったのですが、知人が昨年博物館クラスの方解石の美晶をゲットしたし、紫水晶のポイントを拾った人もいます。
真川に関してはそれほどヤブが深くないので、沢沿いでは通年鉱物探しができると思います。










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大毎金山の飯場跡発見 [鉱物 (村上市・大毎金山)]

先日、早くも3回目となる大毎金山の調査へ行ってきました。
これで金山があったと言われるマンニモ山山麓(8合目~山頂にかけて)の9割を探索したことになります。
まずは、ある文献に、山頂に露天掘り跡があったと書いてあるマンニモ山(450m)の山頂へ。

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ある程度予想はしていましたが、なんにもありません。
ちょうどピークに鉄塔が建っており、鉄塔を建設する際、山頂にあった岩場を撤去したのかもしれません。
幹線道路からここまでは実に気持ちのよい登山道が付いており( 登山道というより、鉄塔監視用の道ですが)、斜度もゆるく、山頂からの眺めは抜群。
10分で登ってこられるコースですが、とても気に入りました。

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登山道は山頂で終わっているかなと思いきや、北北東の尾根沿いに伸びていたので、Uターンはせずそのまま尾根沿いの踏み跡をたどりました。
ある程度下ると踏み跡はほぼ消失、左右どちらに進もうか迷いましたが、左手側にトラバースしていくことにしました。
こんな感じの斜面となり、視線を上下に泳がせつつ、坑口らしきものがないか歩いていきます。
単純な地形だったのはここだけで、ある程度進むとかなり複雑な様相を見せ始め、GPSを見ながら歩いてもどこを歩いているのかよくわからない状況。
そして、予期せぬ場所でいきなり坑口に出くわしました。

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夏になったら壮絶なヤブとなることでしょう。
穴の直径は1mくらい。

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ライトを照射してみると、斜め右下方向に坑道は続いているようでした。
入り口の雰囲気とは裏腹に結構長そうです。
間口が狭いので、ここから先に体を潜り込ませるのは大変。
下には土砂や腐葉土が厚く堆積しています。

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ここの近くに露天掘り跡もありました。

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山菜採りの誘惑を押しのけ、時に藪こぎをしながら道なき道を進みます。
ところどころ、このような人工的な地形が現れるようになりました。
そして、これまた予期せぬ光景が目に飛び込んできました。

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なんと、墓石です。
江戸時代~明治初期のものでしょう。かなり古そうです。
マンニモ山の北西、標高384m付近。

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南無妙法蓮華経と刻まれています。
背面は摩耗していて判読できませんでした。

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周囲はなだらかな地形となっており、ここに飯場があったと考えて良さそうです。
大毎金山の資料は極めて乏しく、その限られた文献を読む限りにおいてはどこにも飯場があったなどとは書かれておりません。
なんか、鬼の首を取ったような、誇らしげな気分に一瞬なりました。

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改めて周辺を物色してみると、左斜め上の斜面に露天掘り跡。
過去2回の調査と総合して考え合わせると、マンニモ山の北西斜面は江戸時代~明治にかけて探鉱され、南東斜面は大正~昭和30年代?頃に探鉱されたのではないかと思います。
雰囲気が両者では全然違うからです、それぞれ一つずつ見つかった坑口や、複数の露天掘り跡の雰囲気を比較すると。
今回も、十貫山周辺ではなんの遺構~坑口や露天掘り跡~を見つけることはできませんでした。
「日本の金銀山遺跡」萩原三雄著によると、”十貫山”の主たる鉱脈は安山岩の割れ目に満たされた含金石英脈や粘土脈でウンヌンと書いてあるのですが、山腹に出てくる安山岩も大きいものはなかったし、ごく小規模な露天掘りで稼行していたとしか考えられません。
一方、マンニモ山周辺では大きな岩場がたくさん出てきますし、露天掘り跡も幾つも見られます。
坑口も南南西斜面で3つ、北斜面で1つ見つけました。
従って、あくまで大毎金山の主鉱床は、マンニモ山の山腹(標高380~430m付近)にあったのではないかと推察します。

※2020/09/27追記:
上記の墓石は、落盤事故の犠牲者のものであることがわかりました。
ここに集落があったわけではありません。
大規模な落盤事故だったようで、地元の伝説にもなっているほど。
ここに訂正させていただきます。






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哀愁の赤谷鉱山 (4) [鉱物 (新発田市・赤谷鉱山)]

とりあえず、赤谷鉱山シリーズはこれが最後です。
鉱山周辺のネタを取り上げます。

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隣接する飯豊鉱山で働く人達の集落が、加治川治水ダムの上下にありました。
こちらは日曹飯豊下流集落跡。
やぶからすさんのHPに、この場所の古写真が載っているのでリンクを貼っておきます。
併せて、ここで行われた運動会(飯豊小学校がありました)の写真へのリンクも貼っておきます。

https://yabukarasu.blog.fc2.com/blog-entry-554.html
https://yabukarasu.blog.fc2.com/blog-entry-567.html

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こちらは日曹飯豊上流集落跡。
やぶからすさんのHPにこの上流集落の全体写真が載っています。
非常に貴重なのでリンクを貼っておきます。
https://yabukarasu.blog.fc2.com/blog-entry-634.html


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日曹飯豊下流集落跡の外れ、加治川に面した斜面に道の痕跡が残っています。

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その先に渓谷の崖へと続く踏み跡があり、その先にかつては吊橋が架かっていたのです。
その吊橋の残骸の一部が中央に写っています。
この吊橋の存在に気づいたのはぼくが高校生の時だから、今から何十年前になるのだろう?
30年、いや40年ぶりくらいにここへ来ました。
古い記憶がどんどん蘇ってきました。
くだんのやぶからすさんのHPに、この吊橋の写真が載っているので、リンクを貼っておきます。

https://yabukarasu.blog.fc2.com/blog-entry-613.html

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下流集落跡の手前に立つ慰霊碑。
日曹飯豊鉱山で働いていた人たちの、殉職者の慰霊碑です。
昭和14年の建立。
飯豊鉱山のページで紹介するのがいいのでしょうが、いつ行けるか、ちゃんと行き着くことができるかどうか不安なのでここで紹介します。

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上の赤い橋梁は、赤谷駅とスダチ沢駅とを結んでいた日鉄鉱業赤谷専用鉄道跡。
スダチ沢駅はスダチ沢鉱区の方ではなく、加治川に架かる袖上橋手前にあったようです。

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赤谷から加治川治水ダムの間の加治川には、幾つもの水力発電関係施設があります。
川はひたすらゴルジュ地帯が続くので、難工事であったことは想像に難くありません。
工事の殉職者を祀った慰霊碑も、人知れず林間に建っています。
設立は大正4年。
新潟水電株式会社とありますが、東北電力の前身の会社です。

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最後に、滝谷の大慶寺境内にある赤谷鉱山の慰霊碑。
26名の殉職者の方の名前が刻まれています。
合掌・・・




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哀愁の赤谷鉱山 (3) [鉱物 (新発田市・赤谷鉱山)]

赤谷鉱山は大きく3つの鉱区に分かれます。
以下、それぞれの鉱区の概略です。
(a) 場割沢鉱区
赤谷鉱山の開発当初、鉄鉱の露頭の数は55を数えたが全て掘り尽くし、1950年代後半から深部の採掘に移行した。1960年現在、場割沢鉱床区が最も規模が大きく、鉄鉱石の産出量の9割を占めている。
鉱床は370~500mレベルに点在する。

(b)スダチ沢鉱区
スダチ沢と篭久保沢の合流地点付近に点在する鉱床群の総称。
場割沢鉱床では黄鉄鉱及び黄銅鉱を主とする銅鉱床(必ず赤鉄鉱を伴う)も見られるが、スダチ沢鉱区では銅鉱床は稀である。

(c)水無沢鉱区
赤鉄鉱鉱床は小規模だったが、新鮮なスカルンが見られた。
具体的には灰鉄輝石を主とし、少量の珪灰石、灰ばん~灰鉄柘榴石、緑簾石、方解石、石英から構成される。
このタイプのスカルンは不規則塊状をなし、結晶質石灰岩中に広く分布する。

参考文献:
赤谷鉱山付近の地質と銅鉱化作用 (鈴木雄一)
赤谷鉱山の地質と鉱床  (森田宏)
その他

さて、まずスダチ沢右岸に現れた巨大な坑口を紹介します。

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横幅5~7mくらいありそう。
冷気がぶわ~と吹き出しています。
異世界への入り口が眼前にありました。
右端のネットの切れ目からカメラを潜り込ませ、内部を写してみました。

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斜坑です。
柵がなくても入ろうという気にはならないでしょう。
地底からのエネルギーがもろに噴出しています。
福島県の阿武隈洞など、観光用に管理されている鍾乳洞で感じるエネルギーに比べると、よりプリミティブでパワフルです。

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坑口手前の地面の一部です。黄鉄鉱や黄銅鉱、鏡鉄鉱で覆われています。

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接写してみました。

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背中に視線を感じて振り向くと、近くの尾根にいたカモシカと目が合いました。
カモシカ君は1~2分後、威嚇するような声を発しながら走り去っていきました。

IMG_2500.JPG

ようやく篭久保沢との合流地点にたどり着きました。
沢登りをやる人の遡行記によると、スダチ沢はこの先しばらく伏流となるそうです。
参考文献に上げた資料の地図では、この合流地点から先はスダチ沢から水無沢に名称が変わっているのですが、その理由は部分的に伏流となるからのようです。
新鮮なスカルンが見られるという水無沢鉱床も魅力的なのですが、この鉄の橋から先、道の痕跡はほぼ消えており深いヤブに覆われています。
従って、水無沢鉱床を目指す場合はここから沢沿いに遡行するしかなさそう。

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篭久保沢の左岸にもかすかな踏み跡は残っていますが、路肩が部分的になきに等しくなっているので沢歩きをしたほうがラクそうです。
篭久保沢に入ってすぐ、右岸に大きな坑口が見えてきます。
そして、それほど間隔をおかずに2~3個の巨大な坑口が並んでいる様子がわかります。
圧巻です。
(補足:これらの坑口は水路坑であることがわかりました。)

IMG_2504.JPG

左側から順番に撮っています。
どの坑口も入り口は緑のネットと鉄柵で封鎖されています。

IMG_2509.JPG

これが一番右側~上流に位置する坑口。

IMG_2526.jpg

下に隙間があるのでそこからカメラを潜り込ませ、内部を撮りました。
左右に坑道が伸びているようで、こちらは右側奥方向。
壁面の地質は、右端で緑泥石に変化しているのが見て取れます。
左側には苦灰石(ドロマイト)と思わしき塊も見られました。
おそらく、左手に連続している2つの坑口も内部でつながっているものと思われます。

IMG_2513.JPG

最後の坑口を過ぎ、小滝を超えるとすぐに写真の堰が出てきます。

IMG_2515.JPG

そこから先はこのように優しい渓相となります。
先には篭久保沢鉱床もあるのですが、地質図を見ると鉱床は沢沿いではなく、かなり上のレベルにありそうなのでここで引き返しました。

IMG_2516.JPG

沢を下り始めると、右手には巨大な石灰岩の岩壁がそびえています。
持倉鉱山の本山へ行く途中でも、これと同じような光景が見られます(まだ行ったことないのだけど)。

まとめると、ズリは坑口群の連続する山奥まで行かなくても、A地点からスダチ沢に入るあたりまでの区間にも断続的に小規模なズリが出てきます。
赤鉄鉱や鏡鉄鉱でしたらそこでも十分に良質なものが採取できるので、苦労して奥まで行く必要はありません。
スダチ沢鉱区の坑口付近にあって下流側のズリにないもの、それは黄鉄鉱や黄銅鉱の自形結晶です。
ぼくはまだ飯豊鉱山に行ったことはないので比較はできないのですが、最大1cm程度の結晶しか目に付きませんでしたが、自分としては十二分に感動しました。
今回、初めてということで鉱物探しに充てた時間はわずか30分くらいしかありません。
歩くのに必死で、ルートファインディングに神経をすり減らしたので、そこまで余裕がなかったのです。
道の現状ですが、スダチ沢に入って間もなく現れる堰堤までは踏み跡は明瞭です。
しかし、そこから先は徐々に不明瞭になっていくので、ヤブが濃くなる季節は苦労しそう。
次回があるかどうかはわかりませんが、もしまた行く機会があったら今度は水無沢鉱区まで足を伸ばしてみたいです。


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哀愁の赤谷鉱山 (2) [鉱物 (新発田市・赤谷鉱山)]

昨日の続きです。地図は昨日アップした地図をご参照ください。
Cで踏み跡は一旦途切れます。
沢の方へと下降するルートを歩いていたら、上の方にレールが見えました。
そこまで斜面を這い上がって撮ったのが次の写真。

IMG_2435.JPG

位置的には、地図Dのあたりです。
一番山側の破線から10mほど下の破線に沿った場所。

IMG_2444.JPG

線路に沿って進んでいくと、右手にこんなものが。
坑口?

IMG_2447.JPG

近づいてみたら、岩石に埋没していました。
多分中にはレールが敷かれていたのかも。

IMG_2439.JPG

対岸上部の風景。
大きな坑口がありそう。
この上、痩せ尾根の直下にも同様の地形あり。
大スダチ沢の方でも採掘しており、ぼくが地図で緑で印を付けた範囲よりずっと広い範囲で採掘は行われていました。

IMG_2450.JPG

上を見上げると、崖の上に建物が建っています。
ということは、上のラインにも道はあるのか・・・
(帰りは上のライン~一番山側の踏み跡~を歩いて下山したのですが、やはりそこにも道がありました。)

IMG_2455.JPG

さらに歩を進めると、ここに出ました(地図Eの下側)。
よく見ると、突き当りに穴があるようです。
そこへ行ってみます。

IMG_2460.JPG

坑口なのでしょうか?
カメラをわずかな隙間から中に入れ、内部の写真を撮ってみました。

IMG_2464.JPG

おお、レールが敷かれています。
入り口が土砂に埋没していましたが、山側からひとつ下の破線部分をトロッコが走っていたようです。

IMG_2470.JPG

入口の壁に黄鉄鉱(パイライト)の自形結晶が顔を出していました。
天然のパイライトの自形結晶、初めて見ました。
7~10mmほどの長辺ですが、とても存在感があります。
入り口上部、黒っぽい灰色部分は鏡鉄鉱でした。

IMG_2473.JPG

再び上を見上げると、やはり標高差で10mくらい上に何かの人工物があります。
トンネルのように見えますが・・・

IMG_2496.JPG

時系列は前後しますが、帰りに写した写真です。
やっぱりトンネルでした。
これは上手から撮っています。
地図のE地点。

IMG_2536.jpg

トンネル内部です。
下手から上手の方へカメラを向けています。
3mくらい前方でレールが分岐しているのがおわかりになりますでしょうか。
右手の分岐先は土砂に埋もれていますが。
一段上のレベルにもトロッコ軌道はあったのです。
かなり複雑にレールはあちこちに張り巡らされているようです。
ちなみに、一番上のレベルの小道が終始踏み跡が明瞭であり(繰り返しますが、Cの前後でやや不明瞭になります)、このルートをお勧めします。
一番下のレベルの踏み跡は途中路肩が完全に崩壊している部分があり、ぼくはそこで前進をあきらめ、いったん河原へ下降しました。
基本的には山歩き中級者以上向きの行程であり、何より現地に精通していないと厳しいものがあるかと。
少なくとも、国土地理院の精細な地形図とGPS機器は必修です。

※HP「緑の谷・赤い谷」に、貴重なスダチ沢鉱区にあった建物の古写真が掲載されています。
https://yabukarasu.blog.fc2.com/blog-entry-489.html
おそらくこれは(2~3枚め)E地点をスダチ沢右岸の尾根上から写したものではないかと推測します。
グーグルアース上でシュミレーションした画像を添付します。

sudachi_google.jpg

くだんのHP2枚めの写真には、よく見ると索道のワイヤー(もしくは送電線?)が写り込んでいますね。
近くの河原(DとEの中間地点の河原)には、ワイヤーや関連機材の一部が散乱していました。

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哀愁の赤谷鉱山 (1) [鉱物 (新発田市・赤谷鉱山)]

新発田市東赤谷にあった赤谷鉱山の発見は、江戸時代の天明年間にさかのぼります。
明治時代に大手資本が参入することにより鉱山は活況を呈し、大正14年には鉱石運搬のための鉄道が赤谷駅まで敷設されました。
昭和14年、日鉄鉱業が経営するところとなり、戦時中は赤鉄鉱や銅鉱を年間10万トンも掘ったということです。
その頃、働いていた鉱夫の数は4~500人。
隣接する飯豊鉱山の存在もあり、昭和16年には赤谷線が東赤谷駅まで延びました。
昭和52年、採算が合わなくなったため日鉄赤谷鉱山は閉山。
赤谷線も昭和59年に廃線となりました。
以上が大雑把な赤谷鉱山の歴史です。

ぼくは赤谷線に乗った記憶があり、10代後半から30代前半まで、何度も東赤谷から上流の加治川でイワナ釣りをしたことがあります。
飯豊橋からスダチ沢の合流点までの河原にも、ザイルを使って懸垂下降し、大イワナを狙ったり。
赤谷鉱山の鉱床は、場割沢、スダチ沢、水無沢が主なもので、他にも源兵衛野巣、翁平の鉱床があります(最後の2つの鉱床の場所はわかりません)。
昨年から鉱物や鉱山に興味を持つようになり、片っ端から下越地方の鉱山へ出かけていますが、そんなわけで地元の赤谷鉱山には深い思入れがありました。
GWに突入し、先日琴沢橋のゲートがオープン。
加治川治水ダムまで通行可能になったので、4月30日いざ赤谷鉱山へ!

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赤谷鉱山は貴重な産業遺構だと思うんですけど、新発田市はそれをある程度後世に残そうとする意思は全くないようなので、ここ1年の間に収集した資料と、今回踏査した結果を踏まえて地図をこしらえてみました。
(2022/08/18追記:各鉱床の範囲はかなり間違っていることがわかったので、哀愁の赤谷鉱山(3)の冒頭に正しい地質図を改めてアップしました。そちらも併せて御覧下さい。)
鉱物マニアの間では、パイライトの巨晶が採れることで有名な飯豊鉱山が尾根一つ隔てて隣接しており、飯豊鉱山側を含めて旧道を記しました。
旧道に関してはスダチ沢沿いのそれを歩いただけで、それ以外の旧道は全く歩いたことがありません。
おそらく現在は影も形もなくなっていると思われますが、個人的にどこに旧道があったのかは興味があるのでそれも記してみた次第。

A地点に車を停め(2~3台駐車可)、歩きはじめます。
いきなり二手に踏み跡が分かれており、どちらへ進むべきか迷いますが、左手の方に進みます。
帰りに右手の方も歩いてみましたが、下草は低いものの棘のある枝があちこちで道を塞ぐように茂っており、うっとうしいです。
この道もB地点で途切れます。
場割沢鉱区の選鉱場があった地点がここです。
Aから左手の踏み跡を辿っていくと、すぐに石垣の遺構が現れます。

IMG_2408.JPG

鉱山の本拠地に突入したんだなという実感が湧いてきます。
そしてほどなく、長い石段が右手に現れます。

IMG_2409.JPG

この石段を上っていくと、Aから右手の踏み跡と選鉱場前で合流します。
その先にも石段はひたすら伸びており、傾斜もさらに増し、本能的にそこから先へ進むのはやばいなと感じます。

IMG_2547.JPG

これが上に続く石段の写真。
左手はテラス状の地形となっており、そこに選鉱場が建っていたのでしょう。
次のリンクは場割沢鉱区の古写真です。
この長い石段は、おそらく676段あったという人道だと思います。

https://yabukarasu.blog.fc2.com/blog-entry-251.html
https://yabukarasu.blog.fc2.com/blog-entry-17.html

この石段の入り口(B)付近がちょっとしたズリとなっており、赤谷鉱山の代名詞である赤鉄鉱や鏡鉄鉱をいくらでも拾うことができます。

IMG_2490.jpg

鉄鉱石は重いので、写真を撮っただけですが。

IMG_2417.JPG

袖上橋の遺構です。
ぼくが高校生の時は、まだこれより手前の吊橋(猿橋)と共にまだ渡ることができたんです。
橋の袂には貯鉱槽があったようです。

IMG_2422.JPG

多分、これかな?
この先、スダチ沢と加治川治水ダム直下まで続く踏み跡との分岐点はわかりにくいの注意が必要。
あと1ヶ月もするとヤブに埋もれることでしょう。
スダチ沢沿いの踏み跡は最初は明瞭ですが、堰堤を過ぎるとかなり不明瞭になります。
そして、地図でいうC地点で小沢を横断するのですが、そこで路肩が崩れており、踏み跡が消えます。
行きは沢へ下っていく方のルートを選択しましたが、ここは右手へと登っていくのが正当です。
詳しくは後日書きます。
さて、Cから沢の方へゆるやかに降りていったのですが、こちらにもかすかな道の痕跡がありました。
そして、スダチ沢をはさんで対岸に巨大な坑口が見えてきました。
これは他の人のブログで見ていたので知っていましたが、間近で見るそれは大迫力。

IMG_2429.JPG

ただ、ひたすらヤブが生い茂っており、坑口の全容を見ることはできませんでした。
中央下の赤茶色の部分は4~5mの高さの滝となっています。
ここから踏み跡を30~50mも進むとそこから河原へなんとか降りられそうだったのですが、この赤滝を直登するのは無理そうだったし、坑口まで行けるルートがあるのかどうかは未確認です。



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