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草倉銅山最後の坑道 (後編) [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

草倉銅山について書かれた文献で、ネットで入手できるものは意外と少なく、「草倉銅山鉱床報文」坂市太郎(明治19年・1886)ぐらいしか見つかりませんでした。
草倉銅山が最盛期を迎えたのはこの文献が書かれた明治時代中頃であり、大正時代に入るともう衰退期に入っています。
思い切り文語体で書かれているので、古文が苦手なぼくは1/10くらいしか読んでいないのだけど、このとき、まだ東山鉱区についての言及はありません。
上記の文献以外では「ミックンのつぶやき」というHPがダントツで詳しく、草倉銅山について深く知りたい方はまずこのHPをご覧になるといいでしょう。
さて、ミックンのつぶやきやその他の資料の情報をまとめると、他の多くの鉱山もそうだったように大正2年8月の大洪水で草倉銅山も大きな被害を被り、規模を縮小せざるをえなくなりました。
大正3年に休山しつつも、大正5年あたりから細々と舟内沢鉱区で採掘を再開していた模様。
その後は有望視された東山鉱区の開発へと命運をかけて乗り出すものの、体力が続かず大正9年(1920)閉山。
こういう流れになっています。
その東山鉱区のみ場所がわからないでいたのですが、今回発見した坑口の場所を地図上で見てみると、ちょうど本坑口の東にあたるので、おそらくこの一帯が東山鉱山なのだろうと推測します。

IMG_7146p.jpg

昨日の記事の続きですが、まず左側の坑口へ入ってみました。

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驚くべきことに、支保工がまだ残っていました。この先でも複数箇所で支保工を見ました。
天井は高く、地面は締まっていて土砂の堆積はありません。

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さらに進んでみます。
今まで見てきた草倉銅山の坑口とは別物。
いったいどこまで続いているのだろう。
もう少し前進してみましょう。

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坑口入り口から30mほど歩いてきたでしょうか。
ようやく終点が見えてきました。

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水が溜まっていますが、水深5~8cm未満なので、一応最奥部まで行ってみました。
特に崩落しているわけではないので、ここが終点のようです。
尚、ここに来るまで2~3ヶ所の、ちょっとした狸掘り跡が坑道の左右に見られたことを付け加えておきます。

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次は右側の坑口へ入ってみます。

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こちらはそれほど長くはありません。
天井の高さと横幅は、さっきの坑道の似たりよったりです。

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全長15mほどでしょうか。
さっきの坑道と違って、こちらは崩落している可能性があります。
本来はもっと続いているのかも。
途中、左に狭い横穴がありました。
さっきの坑道とつながっているのでした。
しかしながらその横穴も途中一部崩落しており、侵入は不可。

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2つの坑口の探検を終えてから、さらにその沢の上部を目指しました。
100m歩いたところで沢は3つに分岐しており、上の写真は分岐の一番右側の沢の上部です。
どの沢も水はほぼ枯れ、岩場も少なくなり、この先に坑口が出てくることはないだろうと思いUターン。
あとで地図を見て気付いたのですが、2つの坑口からさらに沢を詰めるのではなく、西南西方向に歩いていったらすぐ三角沢の現頭部に合流するのです。
草倉銅山は津川の3人が三角沢沿いに鉱脈を発見したことがそもそもの由来ですが、脈は地中でつながっているのですね。
今回発見したこの場所から、北~北北東の斜面にもさらなる坑口が残っているのかもしれません。
草倉銅山、奥が深い・・・




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草倉銅山最後の坑道 (前編) [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

先日久しぶりに阿賀町の図書館へ行ってみました。
その2日後にはふるさと学習館にも。
阿賀町の郷土誌「阿賀路」の、まだ読んでいないバックナンバーを読むのが目的だったのですが、それが面白い!
多くの発見があり、探索への意欲が新たに湧いてきました。
時間がいくらあっても足りないので、また来よう。
ふるさと学習館(旧三川小)がこれまたすごくて、三川鉱山と持倉鉱山の貴重な資料~国立国会図書館デジタルライブラリーでも見られない類の資料~が揃っており、しかも誰でも持ち帰れるように主だったページのコピーがまとめられているのです。
なんとサービス精神旺盛な。
二階では三川鉱山と持倉鉱山の常設写真展が行われており(草倉銅山の写真は鹿瀬支所のロビーに展示されている)、こちらも見応え十分。
そんなこんなで阿賀町を代表するこれら3つの鉱山の歴史を再度学び直しているのですが、ぼくが大きな思い違いしていることに気づいたので報告します。
それは、草倉銅山の三角沢の場所について。
どうやらぼくは草倉沢と三角沢の場所を取り違えていたようです。
なので、該当する記事をすべて書き直しました。
三角沢がアソコだとすると、ぼくは慶應坑へ行く途中横断してはいるものの、三角沢を遡行したことはありません。
ということは、少なくとも三角沢沿いに3つある坑口はまだどれも見ていないことになります。
草倉銅山は1739年、津川の3人が三角沢で鉱脈が露出しているのを発見したのが始まりと言われているので、その三角沢の坑口は是非とも見ておきたいところ。
郷土誌「阿賀路」では、今もこれらの鉱山について様々な角度から研究されている郷土史家の方が頻繁に投稿を重ねており、最新の研究成果に触れることができます。
尚、郷土誌はどちらの図書館でも読めるので、念のため(ふるさと学習館も図書館を兼備)。

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本題に入る前に、H29/6の郷土誌”阿賀路”に、今回初めて発見された草倉銅山通洞坑エリアの建物の写真が掲載されたので、ちょっとだけ紹介します。
草倉銅山の経営者・古河市兵衛は、専属の写真師・小野崎一徳に自らが経営する鉱山の写真を撮ることを命じました。
小野崎氏の孫にあたる小野崎敏氏は、祖父から受け継いだ多数の写真の中から、これは足尾銅山ではない、どこか他の鉱山を写したものではないかと思われる数枚の写真の検証を、ふとしたことから知り合った鉱山研究家の波多野恒人氏から"あがのがわ環境学舎”を経由して阿賀町に打診してきたのです。
今回ぼくが目にした記事の著者は、当時の阿賀町役場鹿瀬支所長でいらっしゃる江花一実氏。
記事のタイトルは”古河創業当時に撮影された「草倉銅山」未発表写真の発見と確認、画像解析について”です。
上の写真は通洞坑エリアを写した写真Cの部分拡大。
この建物は選考場であると、江花氏は推測します。
根拠は次の2点。
*粉塵排出のための換気塔がある
*明り取りと外気導入のために外壁がほとんどない
こんな感じで、ある写真には牛馬に混じって大人から子供まで男女大勢の人が写っていたり、建物だけでなく、働く人々も含めてしっかりと写し止められているので大変興味深いです。

IMG_7158.jpg

さて、前置きが長くなりましたが、草倉沢を遡行します。
昨年初めて遡行したのですが、歩き始めていくらもしないうちに多数の坑口が現れるので興味深いです。
左側に大きな坑口、中央から右側にかけて小さな坑口が連続しています。
江戸時代から明治20年代くらいまでに採掘された坑口だと思います。

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左側の大きな坑口入り口。
いい面構えです。
坑口にはそれぞれの表情があり、入り口が全てを物語っています。

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坑口内部。
奥行きはそれほどないし横幅も狭いですが、高さはそこそこあります。
入り口から受けた印象そのままに、人々の活気の片鱗が残っている気がします。
この坑道、なんか好きです。

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さて、昨年はここで引き返したのですが、今回はさらに上を目指します。
どこに坑口があるかの詳しい地図はないのですが、この沢~草倉沢の支流になります~の上流にはさらなる坑口があるはずとの嗅覚が働いたので訪れてみた次第。

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岩場を抜けると緩やかな斜面がひたすら続くのですが、場所によっては灌木が多数生い茂っているところもあり、見通しは決してよくありません。
小沢も途中幾筋にも分岐していたり、伏流したりしているので、GPS機器を持っていないと迷子になることでしょう。
そんなダラダラ登りを慎重に進めていると、石垣が現れました。
内側はちょっとした凹地になっており、帰りにこの近くでも類似の地形を発見。

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右手に急斜面が連続しており、そこからあまり離れないように歩きました。
急斜面との境を流れている小沢沿いになにか出てきそうな雰囲気が高まってきたからです。
沢の傾斜も増し、転石のサイズも一気に大きくなってきました。
この上に何かある・・・

IMG_7124.jpg

標高470m。
大きな坑口が二つ現れました。
この風格たるや、今まで訪れた下越の坑口の中でナンバーワンかもしれません。
これは明治初期の坑口ではありません。
おそらく閉山末期の頃に掘られた坑道でしょう。
となると、ここは東山鉱区?

※5月14日追記:
「草倉銅山鉱床報文」坂市太郎(M19)を読んでいたら、3枚目の写真の坑口の名称が判明しました。
”草倉本樋から東に40間(約70m)離れたところに草倉奥樋がある”と書かれていたので、念のため本坑口と3枚目の写真の坑口との距離を測ってみたら概算ですが60m程ありました。
方角的には北東でしょうか。
なので、草倉奥樋の坑口とみなすのが妥当かと思います。






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草倉銅山の縦坑へ潜入 [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

草倉銅山(阿賀町)の記事も、はや10回目となりました。
下越では最も個人的な思い入れが強い鉱山なので、これからも春が来たら草倉詣でをすることが習わしとなるでしょう。
さて、草倉銅山にはあまたの縦坑が存在するのですが、その中で唯一降下できそうな抗口へ潜入してみました。

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4月30日の不動沢上流の風景。
今回も車道から旧鉱山道を辿って沢へ降りましたが、途中からこのようにヤブが深くなり、右岸を歩いたり左岸を歩いたり忙しく行き来せねばならず、距離の割には非常に疲れました。

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今回、沢の途中で茶碗の破片を発見。
昨年は飯場跡と思われる広場で同様の破片を見つけましたが、距離的にも飯場からかなり近いのでそこから流れ着いたのでしょうか。
生活の痕跡(おそらく100年以上昔です)を発見するとなにか嬉しいです。
考古学者になった気分。

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高巻きの途中で、1枚目の写真に写っているのと同様の大きな緑色凝灰岩が出てきたのですが、そこに針水晶がたくさん生えていました。

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この手の形状の水晶は草倉銅山エリアでは最も一般的で(ていうか、これしか見つからない)、特に珍しくはありません。
この岩には最大で40cm四方の面がびっしりと細かい水晶で覆われていたり、これはこれで凄い!と思いました。

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さて、今回目指したのは舟内沢鉱区の縦坑。
この鉱区に最も多くの縦坑が集中しており、そのうち一つだけ斜坑と言えそうな坑口を昨年見つけました。
すぐ両サイドは縦坑となっているので、地中では水平坑道で繋がっているものと思われます。
坑口入り口には大きな木があり、そこにザイルをフィックスして恐る恐る降下開始。

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でも15mほど降りたところで直下が絶壁となり、降下はそこでストップ。
絶壁となっている壁の高さは4~5mくらいであり、ザイルにもまだ余裕があったので懸垂下降で降りようと思えば降りられるのですが、アッセンダーがないと登り返しができません。
この写真はUターン地点から斜め下方向を写したもの。
かなり脆そうな天井なので、やはり下まで降りない方がよさそうです。
坑道はずっと先まで伸びているように見えましたが、横幅はかなり狭く、いかにも明治時代の坑道といった風情。

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この足場の真下方向を写しました。
左隅に丸太のような太い柱が1本見えるかと思いますが、そこを中心に撮ったのが次の写真。

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丸太は杉だと思うのですが、等間隔に凹みが付けられています。
木製の階段というわけです。
鉱夫の人たちはこれを伝って下へ降りていったのですね。
既に木が腐っている確率99%。
体重をかけた瞬間にポキっといきそうです。

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実はザイルを使えば何とか降りていけそうな斜坑は二つあり、もう一つがこれです。
入り口は最初の斜坑からほんの7~8m離れた場所にあります。
しかしながら、よく観察するとこちらの方が距離が長く、深さもありそう。
左手方向にカーブしており、その先は見えないのですが本能的にヤバそうと思ったので断念。
カーブの先は、おそらく隣接する縦坑の先にある坑道と繋がっているものと思われます。

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さて、帰りにこの鉱区で新しい坑口を発見しました。
これも斜坑です。

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やはり横幅が狭く、見るだけで閉塞感を感じます。
斜度的にはそれほどでもないのでザイルを使えば降りられそうですが、残念ながらザイルをフィックスできる適当な支点が入り口付近にありません。
内部の構造的には、舟内沢鉱区や隣接する他の鉱区の坑道と同じスタイル~明治仕様?~です。

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舟内沢鉱区で最も不可解な縦坑がこれ。
昨年初めて見た時も頭を捻ったのですが、どのルートを辿って鉱夫のみなさんが地底世界へと降りていったのか、皆目見当が付きません。
今回は前日の雨のためかなり水量が多く、余計そう感じてしまいました。



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草倉銅山の下手側居住区跡 [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

およそ1ヶ月ぶりに草倉銅山千勝堅坑へ行ってきました。
正確には、千勝堅坑近くの横穴へ入ってみたのです。
本坑口を別にすれば、今年は草倉銅山界隈で大小10個近い坑口を発見しました。
しかしながらその半分以上は堅坑や斜坑であり、残りの坑口も幅が狭かったり、すぐ閉塞していたりで内部を探検できそうな坑道は1つしかありませんでした。
その唯一の坑口がここです。

DSC_0225.jpg

4月28日の記事の1枚目の写真と同じ場所です。
今回カメラを忘れてしまったので、やむなくスマホでの撮影。
なので、画質が悪いのはご容赦です。
沢に降りるまでの斜面はそれなりにヤブが深くなっていましたが、沢に降りると特にボサが被っているわけでもなく、見通しはそれほど悪くなかったです。

DSC_0221.jpg

入り口から4~5m程は天井が低いので、四つん這いになって侵入しないといけません。
地面はコウモリのフンが堆積して柔らかくなっているところもありますが、角張った鉱石がゴロゴロしている箇所もあります。
なので、今回は膝パットを装着して匍匐前進しました。
上の写真で約2m先にちょっと高くなっているところがありますが、その段差を乗り越えるとほぼほぼ立って歩けるくらいの高さになりました。
しかしそれも一瞬で、いざ奥へ行ってみるとすぐに背を若干屈めなければならなかったけど。


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前回来たときは望遠レンズで坑道の奥の方を入り口から写してみたのですが、その写真だと右側に突き当りから緩く坑道はカーブしていて、もっと奥の方へ伸びているように感じました。
ところが10m先で坑道は終わっていました。
残念。
近くの千勝堅坑へと、その先は斜坑に変わり、一気に地底へと伸びているように夢想していたのですが。

DSC_0227.jpg

帰りは来た時と同じルートを取らず、草倉沢をそのまま詰めてみました。
1.5~2mの小滝が連続するところで右岸を高巻いたのですが、その際踏み跡を見つけ辿ってみると、写真の石垣の前に出ました。
この上は広場になっているような感じがしたのでさらに上がってみると、確かにそこには鉱山集落があったと思われる広場がありました。

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現在の合同慰霊碑が立っている広場から上手の丘に、鉱山関連施設(居住区を含む)は拡がっていたはずですが、下手の方にも居住区はあったのですね。
この広場は、ぼくが今まで探索してきた草倉銅山のヤマの中で、最も温かな雰囲気に溢れていました。

DSC_0229.jpg

これは建物の基礎の部分だと思います。

DSC_0230.jpg

こちらは茶碗の破片。

DSC_0231.jpg

周囲の地形を確かめると、北に向かって踏み跡らしきものが続いていたのでそこを歩いてみました。
するとほどなくもう一つの広場が出てきました。

DSC_0233.jpg

その先は踏み跡が薄くなり、同時に灌木が覆いかぶさるように茂るようになり、藪こぎしながら歩かざるをえなくなりました。
ただ、草薮ではないので見通しは比較的良好でして、灌木地帯を抜けた先には例の合同慰霊碑が待ち構えていました。
一応、踏み跡が薄くなった地点からところどころ青い養生テープを枝にくくりつけておいたので、この居住区を見学してみたい方は合同慰霊碑前で青いテープを探してみて下さい。
距離的には、合同慰霊碑前から居住区跡まで80~100mくらいだと思います。







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草倉銅山鉱山道の先にあるもの [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

2019年5月下旬、初めて草倉銅山(阿賀町)を訪れました。
駐車場から道なりに進むとやがて左手に近年建った合同慰霊碑が現れ、その先に今は内部がすっかり埋もれてしまった本坑口が小沢の向こうに見えてきます。
朽ちかけているため通行禁止の看板が建っている古い橋を渡ると、鉱山道は右側に進路を変え、ずっと伸びています。
その時は単なる好奇心でその道を辿っていったのですが、道が消滅しかけてからもかすかな踏み跡を歩いていったのがいけなかった。
GPS機器も持っておらず、装備も軽装、ちょっと甘すぎました。
30分くらい歩いたでしょうか、何とかズリ跡と坑口にたどり着き、そこでUターン。
しかし、帰り道がわかりません。
どこをトラバースしてきたのか、どうにも見覚えのある地形に出ることができず、急斜面を腕力登りで行ったり来たりしていたらあっという間に体力を消耗してしまいました。
結局2時間近く山中をさまよい、ビバークを覚悟した19時10分、合同慰霊碑を林の隙間越しに見つけました。
薄暗さが増してきている中、ギリギリのところで下山。
遭難の一歩手前まで行きました。
それだけの苦い体験をしたにも関わらず、草倉銅山への関心はますます募るばかり。
それどころか親近感さえ覚えるほどで、その後読んだ夏目漱石の小説”坑夫”の影響もあり、一層明治時代の鉱山文化への憧憬を強めていったのです。
以来鹿瀬町の龍蔵寺へお参りに行ったり、関連する文献を集めたり(あまりなかった)、情報収集に務めてきました。
そして今年に入ると一気に探索を再開し、2回の訪問で10個近くの坑口や露天掘り跡を見つけました。
でも、一番やりたかったことは、初めて行った時どのルートを歩き、どこで道に迷ったか、また見つけた坑口は何かを明らかにすること。
去る5月15日、満を持して合同慰霊碑から先に続いている鉱山道を再び歩いてみました。

kusakuramap.jpg

赤が今回歩いたルートです。以下、地図記載の番号の説明。
①合同慰霊碑
②本坑口跡
③鉱山道の終点。ここから先は灌木が生い茂っており、踏み跡の痕跡がわずかに残っているだけとなる
④朽ちかけた丸木橋が涸れ沢の上にあり、傍らに石垣が見られる
⑤畳3~4帖ほどの広さのズリ。荼毘用のそれかもしれない。
⑥坑口
⑦赤茶色の大岩壁
⑧大きなズリ

尚、⑧から先、踏み跡は完全消滅しています。

IMG_0380.jpg

①の合同慰霊碑です。

IMG_0372.jpg

④の場所です。
石垣がおわかりになりますでしょうか。
この涸れ沢の上部が大立ヒ。
(ヒというのは鉱山用語で、鉱脈の意。手元にある”地質要報~東京地学協会・明治19年”の図に拠る。)

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⑥の坑口。
踏み跡から15~20mほど斜面を登ったところにあります。間口約3m。
ぼくが持っている資料(前喝)にはこの坑口の名称が載っていないのですが、他のサイトに載っている地図を参照すると”慶應坑”ということになろうかと。
ちなみに、本坑口の標高はぼくのGPS機器による計測だと383m、この坑口の標高は435mです。
他のサイト掲載の図の等高線からも、両者の標高差はそれぐらいだろうと思われるので、慶應坑の可能性は高いと思います。
草倉銅山の開坑は元文4年(1739)。
慶應年間(1865~1868)に発見されたから慶應坑と名付けられたと考えると筋が通ります。

IMG_0349.jpg

坑口内部は完全に閉塞しています。
本来の坑口入口部分の高さは2mはあったものと思われます。

IMG_0353.jpg

⑦の大岩壁。
周辺の地形を調べていたら、踏み跡の歩行中もたま~に見え隠れしていた大岩壁前に出ました。
後述しますが、この岩壁は草倉銅山跡周回林道からも見えます。

IMG_0351.jpg

⑧の大きなズリ。
例の大岩壁下部にはところズリが拡がっています。

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ほぼ同じ場所のズリ。
針水晶がうっすらと付いている鉱石も見かけますが、水晶のサイズは極小。
肉眼でそれとわかるサイズの黄銅鉱や黄鉄鉱は全く見かけませんでした。

IMG_0371.jpg

⑤のズリ。
やや下部に、独立した感じでひっそりとズリが現れました。
ここはアレ用かな?

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帰りに、草倉銅山周回林道の途中に車を停め、ざっと歩いてきたところを目で追ってみました。
山の中腹よりやや上に赤い岩壁が見えていますが、これが⑦の岩壁ですね。
その下に見られる2つの岩壁は、地形図記載の岩場記号と位置的に一致しますので間違いないでしょう。
ぼくはこれら2つの岩壁に行ったことはありませんが、すぐ直下までは今年4月28日に行きました。
鉱物的には特にこれといったものはなかったですが。

IMG_0388.jpg

最後に、望遠レンズで写してみたその岩壁。
地形図記載のこの岩場の標高は450m、⑦の写真を写した場所の標高が462mなので、同じ岩場であることがわかります。






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草倉銅山本坑口周辺の坑口群 (後編) [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

不動沢は上流で三角沢と草倉沢に分かれます。
その分岐点の尾根で、坑口を一つ発見しました。

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河原からやや尾根を上がったところにあり、斜面は密な藪だったため、もう少し新緑が茂ると河原からは穴が視認できなくなるでしょう。
近寄ってみると思ったより間口が大きく、言葉を失いました。

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右の坑道はどこまで続いているのでしょうか。
入口部分の天井は低いので、四つん這いになって侵入。

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3mほど先から一段低くなっており、そこから先は身長180cmのぼくでも背を屈めることなく歩けそう。
約15m先で坑道は緩く右にカーブしているようでした。
改めて明るさを補正した後の写真を眺めてみると、ヌメヌメしていてまるで人間の胎内を見ているかのよう。


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さらに焦点距離を伸ばし、35mm換算120mmの画角で写してみました。
カメラ内蔵ストロボは役に立たないので、強力LEDライトを照明代わりにして撮っています。
実はこの坑口の右側に千勝堅坑口があり、その方向に向かって坑道は伸びているようです。
内部を探検してみたい欲求をなんとか抑え、当初の計画通り千勝堅坑を目指します。
ほどなく予想していた位置に差し掛かると、金網で覆われた大きな坑口が出現しました。

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ある絵図ではこの場所ではなく、草倉沢のもっと上流に坑口が記されています。
しかしながら、四方沢の旅という沢登り専門のサイトがあるのですが、そのサイト主である長島氏が不動沢を完全遡行しており、長島氏の遡行図の方を信頼して位置を予測しました。
結果、長島氏の遡行図が正しかったです。

IMG_9501.jpg

内部はかなり縦長になっており、強力LEDライトで照らしてみると、思いのほか深いことがわかりました。
多分底の方が見えたと思うのですが、距離は少なくとも20mはありそう。
これぞ堅坑。

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坑口上部の岩壁。

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そして、坑口前の河原です。
対岸に石垣がありました。
尚、草倉沢を下降してこの場所へ来るまで、とぎれとぎれに旧道の痕跡は残っていました。
ところがあちこちで路肩が流出しており、長くても6~7mで途切れてしまいます。
通洞坑からここまで沢沿いに遡行しようとすると、通過困難な12mの滝が出てくるのですが、上流の方から下ってくるとこの区間はひたすら優しい渓相が続きます。
残念ながら昨日の記事の場所も含め、坑道内や周辺の岩場では玉髄はもちろんのこと、針水晶は全く見かけませんでした。
まだ滑滝鉱区へは行ってませんが、これで草倉銅山の核心部は一通り歩いたことになります。
個人的にはある絵図に出てくる慶應坑が気になります。
草倉銅山の雰囲気はなぜかしっくり来るところがあり、何度でも来てみたいと思います。












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草倉銅山本坑口周辺の坑口群 (前編) [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

江戸時代から明治時代にかけて繁栄し、一時は鉱山集落の人口が約1900人を数えたという草倉銅山。
草倉銅山は、草倉鉱区・舟内沢鉱区・滑滝鉱区・東山鉱区・大川前鉱区の総称ですが、その本拠地は何と言っても草倉鉱区。
その中心が本坑口です。
(次の写真のみ、2019年5月の撮影) 

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27日、再び草倉銅山エリアを訪れ、この坑口前を流れる小沢へ降りてその沢を辿ってみました。


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沢を歩き始めてすぐ、左岸に露天掘り跡を発見。

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そして、思ったより早く複数の坑口が連続する岩場へ到着。

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一番手前の坑口内部。
穴の下半分は土に埋もれていますが、斜め下方向に向かって伸びています。

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そして、これが奥の坑口。
立派な面構え?で、高さもそこそこあります。

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久々に持ってきた外付けの中型ストロボをカメラに装着し、シャッターを押したところ発光しません。
どうやら乾電池が死んでいる様子。
しかたないので、ライトで内部を照らしながらなんとか手持ちで写してみました。
奥行きは10mぐらいでしょうか。突き当りで右にカーブしているようです。
方角的にはその方向に本坑口があるので、内部でつながっているのでしょう。

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絵図には、沢を挟んですぐ対岸にも坑口マークが描かれています。
果たして、対岸にはこれがありました。
坑口を塞いだようです。
これが坑口であると100%の確信をこのときは持てなかったため、もうしばらく上流へと歩を進めました。
(右岸には何も坑口らしきものが現れなかったため、やっぱりこれが坑口入り口だと思います。)

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さっきの坑口から約140mで、左岸に新たな坑口出現。

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坑口内部です。
奥の方が角度的に見渡せないため、どこまで伸びているかが視認できませんでした。
すぐ4m先で閉塞している可能性もありますが。

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その坑口のすぐ先で、人工的に岩石が積み上げられたような地形が出現。
左側には不自然に材木が横たわっており、明らかに人の手によるものと判断。
ここにも坑口があったのかもしれません。
かなりの高さがあり迫力満点。
直登もできそうだったのですが、深追いはせずここでUターン。

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この他、小さな坑口を2~3個見つけました。
これはそのうちの1個。
沢は終始穏やかな渓相で水量も少なく、普通の登山靴で問題なく歩けました。













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草倉銅山舟内沢鉱区 [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

国立国会図書館デジタルコレクションで見た古い資料の地図によると、不動沢上流が舟内沢となっています。
新発田市の加治川が上流で飯豊川と名を変えるように、流域によって呼び名が変わるのはよくあることなので、てっきり舟内沢鉱区の坑口群は通洞坑の前後にあるのかなと思っていました。
ところが違いました。
通洞坑への行きは、林道からある小さな沢を降りて不動沢へとアプローチし、帰りは昨日の記事に書いたように不動沢上流でスノーブリッジが現れたためそこでUターン、下りに利用した沢を遡行して林道へ戻ったのでした。
行きは極力旧道を拾って歩き、ほとんど沢歩きはしなかったのですが、帰りは逆に沢歩きメインで林道を目指しました。

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不動沢からくだんの小沢に入った途端、この坑口が現れました。
高さは2m以上あり、迫力満点。
文字通り腰が抜けました。
地形的に死角というか、ちょっとわかりにくい場所に位置しているので、この坑口と出会えたことは幸運だったの一言に尽きます。


IMG_9317.jpg

奥行きはそれほどなく、7~8mで行き止まり。
足元には切り出したばかりの大量のズリ石が散乱しており、つい最近まで人が作業していたかのよう。
時計の針がこの洞窟内では100年前で止まっているかのよう。
草倉銅山全域では、ここ舟内沢鉱山が一番最後まで稼働していたみたいなので、まだまだ鉱脈は残っているのかもしれません。
ちなみに、この坑口の標高は273mです。

※4月23日追記:
ひょっとしたら、この坑口は岡竪坑かもしれません。

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そこから沢沿いを歩くこと75mで、かなり大きな坑口に遭遇。
左手後方に坑口は岩壁に沿って拡がっています。
前方に見える坑口は、そこまでの区間ひどいヤブなのでヘリまで行くのを断念しました。

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今回、35mm換算で18-35mmの画角となる超広角ズームレンズでの撮影なので、かなり圧縮効果が高いです。
実際はこの岩壁、横幅高さともにかなりあり、大迫力でした。

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大体40~45度くらいの角度で落ち込んでいるでしょうか。
先日新たにアマゾンで購入した2800ルーメンの懐中電灯で照らしてみると、さすが大光量、穴の底まで見ることができました(深さ20m前後)。
広角レンズなので穴の奥の方は写っていませんが、30~50mのザイルがあったら降りていくことは可能だと思います。
後方にザイルをフィックスするのに適した大木がせり出しているし、でも危険すぎるので実行する気にはなれませんが。

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別な方向。
完全な縦坑です。

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そこから、沢沿いに次から次へと人工的な地形や橋や樋の残骸で出てきて面白かったです。
段の上の穴も坑口ですね。

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何に使われたのか、角材もそこかしこに散らばっている。

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その先で、沢の両サイドにこのような人工地形。

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2つ目の大きな坑口から170mで、2つ目のそれと同じくらいの大きさの坑口発見。
こちらも文字通りの縦坑となっており、垂直に落ち込んでいます。
上に見える滝の向こうにも坑口がありました。

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写真をトリミングして奥の方が見えるよう工夫しました。
ここでも新兵器の強力ライトは威力を発揮、ほぼ底まで見ることができたのですが、こちらは2個めのそれよりさらに深く、25mくらいありそうでした。

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そこから約70mで、おそらくこれが最後と思われる小さめの坑口へ到達。
この小沢が舟内沢だったのですね。
帰宅後改めて「新潟県地質図説明書」(昭和52年版)の図2-2-5、草倉鉱山付近地質図を眺めていたら、小さな字でその沢に舟内沢との記載があるではないですか(ルーペで見て初めて気づいた)。

鉱物ですが、通洞坑付近の岩場では針水晶を見かけたけど、舟内沢では特に何も見かけなかったです。
もっとも沢歩きに集中していて、あまり鉱物探しはしなかったのでよく探せば何か見つかる可能性は残されていますが。




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草倉銅山通洞坑へ [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

やっと草倉銅山通洞坑へたどり着きました。
草倉銅山については、過去3回の記事で歴史とか詳述しましたので、概要はそれらの記事をご覧下さい。
今回の目的は次の3つ。
1.通洞坑を見つける
2.舟内沢鉱区の坑口を見つける
3.通洞坑から下流部の河岸段丘にあったはずの鉱山施設もしくは鉱山集落跡の痕跡を確かめる

一応、目的は全て果たすことができました。
まず、今回は1.及び3.についてレポートします。
昨年色々と資料を収集した中で、通洞坑及びその周辺にあったと思われる集落跡へ行くには、ある沢沿い(結局これが舟内沢だったのだけど)に下って不動沢へ抜けるしかないと判断。
昨年の下見で、林道からその沢の入り口で踏み跡を見つけたので早春になったらこの踏み跡を辿ってやろうと思っていたのです。
その踏み跡は出だしの100mほどは思ったより明確で、道幅もそこそこありました。

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途中から不明瞭になり、左岸に行ったり右岸に行ったりしましたが、行きは沢をほとんど歩くことはなく、極力旧道を拾いながら歩いてみました。
結果、40分ほどで不動沢へ到達。

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すぐ目の前の対岸(右手)が、地形図の等高線通り平べったい河岸段丘となっており、ちょっとした広場が出現。

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このような広場が3つほど連続したのですが、どれも広さと灌木の密生度は同じくらい。
不動沢の右岸にこれらの広場を縫うように旧道が伸びていました。
今回は下流へは行かなかったですが、200~300mほど下れば大切二番坑が出てくるはず。
そして、資料通りの位置に通洞坑はありました。

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通洞坑こと大切一番坑は、草倉鉱区、舟内沢鉱区、滑滝鉱区と坑道でつながっており、草倉銅山の中では本坑口と並び、最も歴史ある坑口です。
昨年探し当てた資料に通洞坑の古写真が載っており、それによると通洞坑の入り口は建物の中にありました。
今は青天井状態となっていますが、鉱山が大正9年(1920)に閉鎖されてから100年も経っているのです。
在りし日の鉱山集落を思い浮かべると、目頭が熱くなるのでした。

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通洞坑内部。
右側も同じような穴が空いており、やはりすぐ先で閉塞されています。
ここから15~20m奥で同様の坑道らしき穴が見られるのですが、もちろんそれは通洞坑の坑道の一部。

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通洞坑から旧道を沢の上流側に向かって歩いていくと、すぐ石垣が出現。
このような石垣は他にも見られました。
本来の計画だと、ここから不動沢の遡行を開始し、草倉銅山入り口の案内板が立つ林道へ抜けるつもりだったのですが、100mくらい上流のゴルジュ地帯でスノーブリッジが谷を覆っているのが見えました。
さらにその先には落差10mはあろうかという立派な滝が控えています。
なので、おとなしく来た道を引き返しました。

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引き返す前に、40分ほど鉱物探し。
左岸の斜面がこのように岩だらけとなっており、標高差にして70mも登ってみました。
あとでGPSのログを見てみると、その先には地図に記載の岩壁が待ち構えています。
林道から見える大岩壁です。
やはりそこで引き返して正解でした。

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地質ですが、一番目立ったのは緑色凝灰岩。
ついで頁岩に礫岩といった感じでしょうか。
新潟県地質図説明書(昭和52年版)記載の地質図と照らし合わせても、やはりこのような岩石となっていました。
で、かなりの頻度で針水晶が見られるのです。
ぼくの最初の草倉銅山訪問記にも、同様の水晶の写真を何枚か載せましたが、どうやらこの辺の山は針水晶が一般的のようです。
ただしサイズは小さく、ラストの写真のやつでも長さは2cm程度です。
その点2019/05/24の記事の場所の記憶を思い起こしてみると、一回りサイズも本数も多く付いている岩をもっと見かけました。
そこはここから標高差にしてさらに60~80mほど上の斜面なのですが、上へ行けば行くほど結晶のサイズは大きくなるのかな?
といっても50歩100歩ですが。
それ以外の鉱物は、素人目には皆無でした。

※不動沢のスノーブリッジ先に見えた滝ですが、不動沢を遡行した方の記録を見ると落差12mあり、2段になっているでそうです。下段は乾いている左壁を快適に登れるけど、上段はナメ状で滑りやすく、水流の右側を慎重に登ったとのこと。
でも、今は雪代水でかなり水量が多かったので、直登はできないかもしれません。




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草倉銅山界隈 [鉱物 (阿賀町・草倉銅山)]

阿賀町の赤崎山へ(車で)上ったあと、草倉銅山へその場の思いつきで立ち寄ってみました。
赤崎山へは初めて行ったのだけど、最初の展望台からの眺めが絶景過ぎて驚きました。

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夜間にどれくらい外灯が灯るか未知数だけど、一度は星景写真を撮りに来なくては!
15mm前後の超広角レンズで、縦位置で写せばいい感じになりそう。

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次に、不動沢下流に位置する角神不動滝へ。
2段になっており、2段めの滝の真下までコンクリートの歩道が付いています。
3ヶ月前に初めて訪れたのだけど、そのときはこの歩道が工事中で行けませんでした。
また、その後R459のトンネル工事もあり、11月末まで現地へ立ち入ることができなかったのです。
写真の二の滝は落差23m。
この滝を越え、150mくらい遡行すると滑滝が出てくるはず。
草倉銅山は幾つかの鉱区に分かれていたのですが、そのうちのひとつ、滑滝鉱床がそこにありました。
「ミックンのつぶやき」のミックンが唯一その坑口を訪れた人物だと思うのですが、興味のある人は鉄人ミックンの記事を参照して下さい。
また、この不動沢を完全遡行された方がいます。
「飯豊連峰~四方沢の旅」の長島氏がその人。
やはり遡行記のリンクを貼っておきます。
二の滝はなんとか左岸を高巻きできそうだなと感じたのですが、改めて長島氏の遡行記録を読んでみると、やはり右壁から巻いたとのことでした。
しかし、それからもう一つ高巻きの必要な5mの滝が出てきたりで、滑滝までたどり着くのは容易ではなさそう。
くだんの滑滝は10mの落差があるのですが、滑滝鉱床の坑口はミックンによるといやらしい位置にあるらしく、実際に坑口を訪れるのはその道のプロじゃないと厳しそうです。
なので、せめてその手前にある不動滝へは一度行ってみたいと思っていたのです。
取りあえず満足。


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不動沢の出会いには、かつて大川前選鉱所がありました。
ということは、その周辺に廃鉱石が転がっていてもおかしくない。
選鉱所の遺構は見つけることができなかったけど、その前の河原でチビ水晶に覆われている20数センチの石を発見。


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トリミングして切り出してみました。
他にも類似の石は2,3個あったけど、ネットに書いてあったようなチビ黄銅鉱が付いた石は見かけなかったです。
ハンマーを使って石をかち割れば、あるいはそういう鉱物を見つけることもできたかもしれませんが、基本的に水晶にしか興味がないので・・・

それから草倉銅山本山入り口へ移動。
広葉樹の葉っぱが落ち、林の見通しが良くなったことを確認し、前回ヤブが深くて100mで引き返した踏み跡を辿ることにしました。
最初の150mが倒木やブッシュだらけでなかなかピッチが上がらなかったですが、踏み跡は終始そこそこ明瞭に残っていました。
分岐点から北側にも踏み跡は続いていたのですが、30m先でこれでもかというくらい倒木が行手を塞いでおり、そこでUターン。
というか、分岐点の右手の小道も歩いてみたかったのでそちらへ歩を進めました。
そっち側の小道はさらに歩きやすく、途中から草倉沢を左手に眺めながら歩きました。
そして、この小道は古河機械金属㈱と向鹿瀬地域の尽力で近年建立された供養塔の背後に続いていたのです。
奇しくも昨年5月下旬、初めて草倉銅山跡を訪れた際、深入りしすぎて遭難しそうになったことがあるのですが、そのとき、最後の最後でこの供養塔の白い建造物が視界に入ったため、なんとか生還できたことがありました。
どうも草倉銅山で働いていた人達とは何かの縁があるようで。
自分自身の過去生で、ここで働いていたとか・・・


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さてその帰り、本山入り口から幾らも走らないうちに、左手前方にこれらの石碑が目に飛び込んできました。
(数ヶ月前にこの道路を通った際は、これらの石碑の存在に気づきませんでした。念の為グーグルアースのストリートビューでもこの場所を見てみたけど、ヤブに埋もれていて道路からは見えません。ということは最近一帯を整備したのでしょうか?展望台に登る小道も、最初の5mは金属製のハシゴが設置されており、これは以前はなかったものです。)


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どれも江戸時代のもののようです。
例えば、これは万延元年とありますから1860~61建立です。
明治元年が1868ですから、江戸時代末期ですね。
これらの石碑の背後の丘に向かって、踏み跡が付いていたので辿ってみました。

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ほんの一投足で本山エリアを一望する展望台(マップ参照)に出たのですが、すぐピンときました。
この場所こそ、草倉銅山を紹介する資料の多くで使われている古写真を写した場所だったのですね。


kusakura.jpg

この写真は明治時代に写されたものとされていますが、正確な年代はわかっておりません。
(引用先はこちら)
ぼくが撮った写真で、三角沢の流れている部分は青でマークしました。木立で水面があまり見えないのでかなりいい加減ですが。
古写真では右端を流れる沢が草倉沢。
ですから、この写真と同一の画角を得るにはもう少し左側にレンズを向けなばなりません。
なにせもう100年以上経過していますので、山肌はとうに原始に還っております。
しかし、木々がもしなかったら、間違いなく古写真に写っている背後の稜線と同じ稜線が現れるはず。
地形図を読んでも、地形的には一致するのでこの高台から写されたことは間違いないでしょう。
そして、主要鉱区のひとつ、舟内沢鉱区へ至るであろう踏み跡の入り口をこの高台の背後で見つけました。
その踏み跡も、今の時期だからかろうじて道の痕跡を認められたものの、灌木に覆われているため舟内沢(=不動沢)に出るまではかなり苦労しそうです。
標高差は100mに過ぎないのですが、草薮でなくて灌木ですから・・・
舟内沢沿いにも、小規模ながら鉱山集落があったようです。
はるか昔の話です。

※2022/05/12追記:
一番下の写真は、明治16~20年に写されたもののようです。



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